2011年12月31日土曜日

2011.12.31 わが友に贈る

新聞休刊日

十字御書 P1491
此れをもてなす人は月の西より東をさしてみつがごとく日の東より西へわたりてあきらかなるがごとくとくもまさり人にもあいせられ候なり

◇希望の明日へ
正法を説き、大義のために奔走していたように見えても、心は名聞名利で退転し、民衆のため社会のためという尊い精神を失っていった者がいた。また、正義を演じっつも、じつは名声と富を貧らんがためにのみ行動する者もいた。それは、まさに"形は人でも、本質は畜生"という醜悪な餓鬼の姿にはかならない。出家であれ、在家であれ、言説たくみに法を利用し、法のためをよそおって、自身のみの繁栄を図っていく者は、要するに法を食いものにする邪心の徒であり、食法餓鬼といわざるをえない。仏法は峻厳である。地位や名誉のために法を勝手に悪用した者が、厳罰を受け、やがて悪道の苦海に沈むことは必然であり、これほど恐ろしいことはない。また、敷衍(ふえん)していえば、社会にあって政治や社会事業、学問や芸術、医学等に携わり、本来、社会の進歩や民衆の幸福に貢献すべき立場にありながら、善意の庶民を食いものとし、自己の営利栄達のみに腐心するのも、広義の食法餓鬼といえよう。


☆我らの勝利の大道No.64 創価家族の誇り
青年学会は、何かあっても満々たる生命力で戦い、威風堂々と進み続ける!
それは、なぜか──。
第一に、我らの崇高なる大使命のゆえに、である。
御書には、地涌の菩薩の英姿を『巍巍堂堂として尊高なり』(P211)と示されている。
「巍巍」とは、山々が高くそびえることだ。あたかもヒマラヤの峰々を仰ぐような堂々たる偉容である。
それは、久遠の仏の真実の弟子として、濁世末法に妙法を弘め、人類の平和と幸福を実現しゆく、誓願の大きさの象徴といえよう。
「この世で果たさん 使命あり」と自覚すれば、何を恐れることがあろうか。
第二に、広宣流布という正義の前進には、三類の強敵をはじめ、幾多の嫉妬の迫害が必ず起こる。だから威風堂々と戦うのだ。
経文に、「猶多怨嫉。況滅度後」等とある。正しいゆえに、怨嫉され、悪口罵詈される。難こそ、正義の証しなのである。
なればこそ、『大難来りなば強盛の信心弥弥悦びをなすべし』(P1448)と仰せの如く、昂然と頭を上げ、胸を張るのだ。
厳しい試練があればあるほど、いよいよ威風堂々と強く打って出るのだ!

これが、学会精神である。
この正しき信心と、不撓不屈の実践があったからこそ、学会は強くなり、大発展したのである。
二十世紀の大音楽家で、アルゼンチン・タンゴの巨匠ピアソラは語った。
「何度も何度も壁にぶつかり、何度も何度も立ち上がってきたからこそ、今の私があるのだ」

恩師・戸田城聖先生は言われた。
「宇宙の変むの大もとである南無妙法蓮華経を自身の胸中に涌現させるのが、この大仏法である。ゆえに自分の望む方向に、一年また一年、よりよく変化し、必ず勝利していけるのだ」
わが親愛なる同志の皆様、この一年、本当にご苦労様でした!
皆、どうか体を大切に、創価家族と共に、満々たる希望の新年を!
そして幸福と多宝の勝利の人生を!

青春の
 心を持ちたる
  人生は
 三世に栄ゆる
  極理の道かな

2011年12月30日金曜日

2011.12.30 わが友に贈る

新聞休刊日

椎地四郎殿御書 P1448
生死の大海を渡らんことは妙法蓮華経の船にあらずんばかなふべからず

◇希望の明日へ
五老僧は権力に迎合した。自身の身を守るために、強い者に迎合し、癒着するのは離反者のつねである。その根底は"臆病"であるからだ。現代にも信念なく、さまざまな権威や勢力と野合を繰り返し、広布を阻もうとする輩もいる。五老僧に通じる、同じ方程式の心理と行動といってよい。

☆我らの勝利の大道No.64 創価家族の誇り
大震災の被災地にあって"たとえ一切を失おうとも我らには希望がある!"と、皆を励ましてやまない多宝の友もおられる。
そうした尊き父上、母上たちを中心に、先日、気仙沼圏の同志が感動的な「希望家族大会」を開催した。
地元の中心会館が大津波の被害で使えなくなり、これが震災後初の、嬉しい"圏の集い"であった。
席上、宮城県音楽隊が力強い演奏を披露。大津波で祖父を亡くした少年部の友は祖母とリレー体験を発表した。その凛々しき決意に、皆が感涙したと伺った。
──祖父の形見となった腕時計は、その後もずっと時を刻み続けている……。
少年は悲しみの中でも、大好きなおじいさんが「止まってはいけない、進みつづけろ」と励ましてくれていると感じ取った。そして、「残された僕たちが力強く前へ進んで行く事が、一日、一日を精一杯やりきる事が、おじいさんへの供養にもなると思います」と。
広宣流布に生き抜いた多宝の父母の「負けない心」は、生死を超えて、未来のリーダーたちの命に脈々と受け継がれている。
気仙沼の希望家族の誇り高き笑顔の記念写真を御宝前にお供えし、私は妻と題目を送らせていただいた。

先日、「人材・躍進の年」の棹尾を飾り、「青年学会 拡大の年」の開幕を告げる大号砲が轟いた。
埼玉県で行われた「マーチングバンド・バトントワーリング全国大会」で「創価グランエスペランサ」(鼓笛隊)、「創価ルネサンスバンガード」(音楽隊)が共に堂々の日本一の栄冠に輝いたのだ。
まさに全同志の魂を鼓舞してくれた。本当に素晴らしかった。ありがとう!
躍動する若き生命から迸る響きこそが、胸を打つ。青年の威風堂々の舞ほど、人びとの心を変え、社会を動かすものはない。

2011年12月29日木曜日

2011.12.29 わが友に贈る

創価の絆が光った一年。
本紙を支えて下さった
全読者、配達員はじめ
皆様に心から感謝!
希望の船出を共に!

曾谷入道殿許御書 P1039
既に之を謗る者に大罰有り之を信ずる者何ぞ大福無からん

◇希望の明日へ
もっとも恐ろしいのは、信心が"わかっているようでわかっていない"ことである。たとえ一時は、御本尊の功徳に歓喜し、確信をつかんだように思えても、時とともに惰性に流され、純粋な信心を失っていく。また、幹部として活躍しているようにみえても、いつのまにか慢心と邪心を起こし、清らかな信心の世界である学会を見下し、威張りちらすようになる。こうした姿こそ、まさに信心が"わかっているようで"、全然"わかっていない"者なのである。賢明な学会員は、こうした徒輩の本質を鋭く見破っていかなくてはならない。とともに、まず自らが、正しき信心を貫いていくために、どこまでも"求道"と"探究"の大道を歩み抜いていただきたい。

☆我らの勝利の大道No.64 創価家族の誇り
「魂の人間讃歌──ジャズと人生と仏法を語る」の鼎談を、私も、そして最高峰のジャズ音楽家のウェイン・ショーターさん、ハービー・ハンコックさんも、世界の青年たちと未来を語り合う思いで進めてきた。
連載の終了後に、七十八歳のショーターさんは、こう語ってくださった。
「この鼎談を通し、私の青年の魂が再び成長し始めました。それは『一人立つ精神』です。恐怖や逆境に立ち向かい、何があっても前へ進む『確信』です」
そして、この青年の魂をもって、英知を磨き、真の友情を育みながら、平和への永遠の冒険を突き進んでいきたいと言われるのだ。
私たち三人は、永遠の青年の魂を脈打たせながら、生命の勝利の讃歌を創り残しゆく心意気である。

法華経には「長寿にして衆生を度せん」(創価学会版法華経P505)とある。
風雪の中を戦い抜いてこられた多宝の友の姿そのものが、厳然たる広布の実証だ。幾多の苦難を毅然と勝ち越えてきた笑顔こそが、地涌の菩薩の証明である。
そうした多宝の友が、今日も真剣に送ってくださる励ましの題目に、地域の後輩たちが、どんなに守られていることか。
多宝の先輩方が、仕事に悩む青年を励ますアドバイスや、生活苦に直面する壮年や婦人に語る自らの体験談が、どれほど安心と勇気を広げてくれることか。
日蓮大聖人は、現実社会の荒波を受けて苦闘する、四条金吾に仰せである。
賢人は八風と申して八のかぜにをかされぬを賢人と申すなり、利・衰・毀・誉・称・識・苦・楽なり』(P1151)
どんな毀誉褒駈の「風」にも揺るがぬ多宝の友の、透徹した信心こそ、学会の宝であり、柱である。
御聖訓には『周の文王は老たる者をやしなひていくさ(軍)に勝ち』(P1250)と仰せである。
広布の大先輩を、どこまでも尊敬し、大切にしたい。皆でそうした心を持つ組織が、守りに守られ、圧倒的に勝ち栄えていくことは絶対に間違いないのである。

2011年12月28日水曜日

2011.12.28 わが友に贈る

戦う同志、万歳!
皆様の奮闘ありて
学会は大勝利・大前進!
その大功徳は
必ず一家眷属に輝く!

中興入道消息 P1332
後には所の地頭領家かたきとなる後には一国さはぎ後には万民をどろくほどに、或は人の口まねをして南無妙法蓮華経ととなへ或は悪口のためにとなへ或は信ずるに似て唱へ或はそしるに似て唱へなんどする程に、すでに日本国十分が一分は一向南無妙法蓮華経

◇希望の明日へ
いつの世でも、反逆者の生涯に、晴れがましい終幕が訪れることはない。たとえ処刑を免れたとしても、すでにその人生は敗北であり、生きながらの死の人生であったといっても過言ではあるまい。師を裏切り、恩人を裏切る"背信の徒"は、自分で自分の心を死刑にしているに等しいからである。それでは地獄の生き方である。

☆我らの勝利の大道No.64 創価家族の誇り
今年、わが後継の男女青年部は、力の限り「行学の二道」に励んだ。
手作りの「創価青年大会」は七月の先駆けの富山県、そして十月以降、大関西の全支部が総立ちの青年大会を起点に、全国各地でかつてない連帯を広げてきた。今月十八日、大勝利の大分家族の大会をもって一切を美事に勝ち飾った。
本年の目覚ましい「青年躍進」を、私たちは万雷の拍手で讃えたい。立派に新しい時代を創ってくれた。
とともに、青年を温かく励まし、陰に陽に大成功を支えてくださった壮年部、婦人部の皆様方に、あらためて御礼を申し上げたい。
さらにまた、青年学会の鑑と光る「多宝会」「宝寿会」「錦宝会」の方々の祈りと応援に、最敬礼して感謝を捧げたい。
また、「太陽会」「敢開会」の活躍も、まことに頼もしい限りだ。

草創以来、多宝の友は、それぞれに何十人、何百人と、粘り強く折伏行を重ねて、今日の学会の大発展の基盤を築いてくださった。
その福徳は、三世永遠にわが身を飾り、子孫末代まで薫りゆくに違いない。
そして今も変わらず、次世代の人材の育成に、全力を挙げてくださっている。あまりにも尊貴にして、あまりにも偉大な方々だ。
あのイタリア・ルネサンスの文化も、師匠から弟子への薫陶があり、先輩から後輩への激励があったればこそ、絢爛と花開いた。
ルネサンス期の美術史家バザーリは、「清澄な精神を持つ人々には年を取っても、後輩たちが立派な仕事をするよう指導している人が多い」と綴り残した。
現在、壮年部「王城会」、婦人部「香城会」などの皆様方が、広宣流布のために、大切な命の時間を供養する思いで、敢然と使命を果たしてくださっている。
それは、正義の大城を厳護する戦いであるとともに、永劫に崩れざる創価学会の未来を創造する営みであるのだ。
'あの大歴史家トインビー博士の「若さ」の秘訣は、明快であった。「次の世代に起ころうとしていることに、ほんとうに関心をもつこと」である。
人生の総仕上げとは、過去の肩書など取り払って、未来のため、青年のために、心を砕き、智慧を出し、手を打つことなのだ。
仏法は「現当二世」、常に「今」から始まる。今いる「ここ」が出発点だ。

2011年12月27日火曜日

2011.12.27 わが友に贈る

太陽の婦人部と
華陽と女子部ありて
広宣流布は大前進。
本当にありがとう!
希望のスクラム、万歳!

中興入道消息 P1332
去ぬる建長五年四月二十八日より今弘安二年十一月まで二十七年が間退転なく申しつより候事月のみつるがごとくしほのさすがごとくはじめは日蓮只一人唱へ候いしほどに、見る人値う人聞く人耳をふさぎ眼をいからかし口をひそめ手をにぎりはをかみ父母兄弟師匠ぜんうもかたきとなる

◇希望の明日へ
会員を手段にしたり、利用し、いじめる−−この罪は、御書に照らして、かぎりなく重い。宗門はいうまでもない。議員であれ、弁護士であれ、幹部であれ、例外はない。学会員が、あまりにも人柄が良いことに付け込み、利用したり、いばったり、怒ったりする。そうした人は、必ず行き詰まる。やがて美しい学会の世界には、いられなくなっていくのである。

☆我らの勝利の大道No.64 創価家族の誇り
永遠に
 偉大な功徳を
  積みゆかむ
 私もあなたも
  学会家族と

この一年間、本当にありがとう! 全世界の偉大な地涌の同志に、私は心から感謝を申し上げたい。
凍てついた混迷の世に、暗夜を照らす灯台の如く、わが友は何と勇敢に「希望の光」を送り続けていることか。
あまりにも大きい試練の一年であった。
そしてまた、人と人が寄り添い、支え合い、励まし合って、生き抜いていく。そこに最も人間らしい幸福があり、平和がある−−このことを、皆が噛みしめた一年でもあった。
「逆境を共にする者たちの気持は自然と通い合って友情を結実するものである」とは、スペインの文豪セルバンテスの言である。
苦難が打ち続く社会だからこそ、私たちは、強く麗しい人間共和を、日本中、世界中に広げていきたい。
同志と共に!
青年と共に!
師弟が共々に!

広宣流布の大願へ、鉄の団結で進みゆく、我ら創価の民衆の「絆」は、何ものにも断ち切られない。

2011年12月26日月曜日

2011.12.26 わが友に贈る

試練と闘う
被災地の皆様の
健康と幸福を祈る。
福光へ一歩一歩
不屈の心で!

曾谷殿御返事 P1056
但正直にして少欲知足たらん僧こそ真実の僧なるべけれ

◇今週のことば
勝利勝利の一年
本当に御苦労様でした。
皆s魔の功徳は無量なり。
来年も鉄の団結で
大勝利の人生を!

2011年12月26日

◇希望の明日へ
"進まざるを退転"という。信仰の面だけでなく、この原理は勉強、仕事、生活のすべてに通じる。すべてにわたって前進し、進歩することが生きるということである。前進の努力をやめれば、人生の退転である。そして、信仰は人生と生活の前進の原動力である。信仰の退転は、いっさいの不幸の原因となる。同志とともに、広布の組織とともに、励まし合って、"信心の勝利"即"人生の勝利"を勝ち取っていきたい。

▽「千里・二千里・来れる人の如く」御書。身近な友ほど大切に。それが賢者
▽寒波襲来、大雪・強風に警戒。準備・対策を万全に。絶対無事故の歳末を

2011年12月25日日曜日

2011.12.25 わが友に贈る

友好を深める時。
さあ行動だ!
一通の手紙でも
一本の電話でも
幸せを願う「心」は届く。

十字御書 P1491
正月の一日は日のはじめ月の始めとしのはじめ春の始め此れをもてなす人は月の西より東をさしてみつがごとく日の東より西へわたりてあきらかなるがごとくとくもまさり人にもあいせられ候なり

◇希望の明日へ
若くして高い立場について、それを自分の力と錯覚し、堕落していった人もいる。それでは、何のための信仰か、わからない。転倒の人生である。期待し、信頼してきた多くの民衆を裏切る罪は大きい。悪い僧侶については、言うまでもない。

☆質問20 生と死の意味を考えています。
どんな人にも必ず使命が!
生きて生き抜け! 一日一日が「かけがえのない宝」

どんな人にも必ず「使命」がある。使命があるから生まれてきたのです。
だから、何があろうと、生きて生きて生きぬかなければならない。
使命──何に「命」を「使」うか。
なぜ自分は生まれてきたのか。それを探求するのが青春です。
あきらめずに挑戦していけば、必ず、自分にしかできない自分の使命がわかってくる。

題目の音声は、死後の生命にも厳然と届いていく。
死後の生命をも救っていけるのです。
戸田先生も若いころ、子どもさんを亡くしたのです。こう言われていた。
「私は、年二十三で『ヤスヨ』という子どもをなくしました。女の子であります。
一晩、私は死んだ子を抱いておりました。そのころ、まだ御本尊様を拝みませんから、もう悲しくて、抱いて寝ていました。
そして別れて、私はいま、五十八歳です。彼女がおれば、当時三歳でありましたから、そうとうりっぱな婦人となっていることと思いますけれども、今世で会ったといえるか、いえないか……。それは信心の感得の問題です。私はその子に会っております。
今生で会うというのも、来世で会うというのも、それは信心の問題です」

これは、子どもを早く亡くした人への励ましとして話されたのです。「今世で、あの子と、また親子の縁が結べますか」という質問に答えての言葉です。

戸田先生は、娘さんの後、奥さんも亡くされた。
子どもや奥さんに先立たれて、苦しみぬいたが、そうやって、ありとあらゆることで苦しんだからこそ、今、大勢の人を励ませるのだ、大衆のリーダーとして、人の心がわかる人間になれたのだと言っておられた。
全部、意味があるのです。その時は悲しくて、苦しんで、やりきれなくても、負けないで生きぬいていけば、あとから「ああ、こういう意味があったんだ」とわかります。それが信心の力です。また、それが人生の真髄です。
どんな苦しいことがあろうと、最後の最後まで生きぬき、戦いぬき、勝たねばならない。
最後に勝てば、その人が「人生の勝者」です。途中で決まるのではない。最後に勝てば、それまでのすべてが「意味があった」と言える。

諸君は二十一世紀を、断じて「平和の世紀」とするために、「生命の尊厳」の哲学を学び、広げていってほしいのです。
正しき生死観を学び、実践し、一日一日を「かけがえのない宝」として大切にして生きてほしい。
そして、この一生で、何百年分もの価値を創り、永遠に輝きわたるような「不滅の人生」を築き上げてほしいのです。
(『青春対話2』から)

2011年12月24日土曜日

2011.12.24 わが友に贈る

規則正しい生活で
有意義な冬休みを!
親子ともども
具体的に目標を定め
祈って進もう!

法蓮抄 P1047
法蓮上人の御功徳は過去聖霊の御財なり、松さかふれば柏よろこぶ芝かるれば蘭なく情なき草木すら此くの如し何に況や情あらんをや又父子の契をや

◇希望の明日へ
長く信心をしてきたから、あるいは幹部であるからといっても、慢心を起こして学会から離れ、退転してしまえば、真の信心の命脈は途絶えてしまう。我欲におぼれて大切な広布の組織を利用したり、壊そうとすることは、自身の"福運の器"を破壊するのと同じである。また、こうした"破壊者"を断じて許してはならない。

☆折々の指導No.17 わが責任を果たし抜け(後継の友に)
「君が勝利の歴史をつくるんだよ。
広布に戦えば、末代まで功徳がある。仏の境涯になれる。多くの人を救っていける。
私は命がけで、世界広布の土台を築いた。経文には『不惜身命』と仰せだからだ。
どれだけ力があるか。歴史を動かせるか。自らの生きた証しを刻みつけるのだ。
仏法は勝負だ。社会も勝負だ。決して油断してはならない。
勝つためには、浮つかないで、誰が見ていようがいまいが、師匠に誓ったわが責任を、最後の最後まで果たし抜くのだ。
師匠に喜んでもらいたい。ただ、その一心で、私は戦った。皆も、力をつけるのだ。新しい時代を建設しようではないか」
「本当のリーダーの戦いは、まず自分が前へ進むこと。その姿を見て、皆は奮い立つ。
自分が前進しなければ、どんな立派なことを言ってもダメだ。やっているふりだけでは人はついてこない。
きょうも、どれだけの人と会い、語り、励ましたか。どれだけ祈り、智慧を出し、新しい道を開いたか。
いくら時間をかけても、口先は立派でも、効果が出ないといけない。
勝つための手を打っていく。それが戦だ」

2011年12月23日金曜日

2011.12.23 わが友に贈る

厳しき就職戦線に
立ち向かう君よ
断じて勝ち越えよ!
燃え上がる負けじ魂で
使命の道を切り開け!

清澄寺大衆中 P894
此れを申さば必ず日蓮が命と成るべしと存知せしかども虚空蔵菩薩の御恩をほうぜんがために建長五年四月二十八日安房の国東条の郷清澄寺道善の房持仏堂の南面にして浄円房と申す者並びに少少の大衆にこれを申しはじめて

◇希望の明日へ
使命の学会員として信心を貫くか、退転するか。それは、各人の自由ともいえる。しかし、その因果の報いを受けるのも自分自身である。退転した後の苦悩を思いやると、あまりにもかわいそうでならない。邪義にたぶらかされて永劫に悔いを残してはならない。

▽女子部の白蓮グループ、婦人部の香城会の献身に感謝。真心の行動に福徳は爛漫

☆新・人革 共戦34
若いということは、さまざまな可能性をはらんでいるとともに、当然、未熟な面があります。先輩の皆さんが、そこをつついて、『力がない』とか、『私は、あの年代の時は、もっと頑張ったのに』と言っているようでは駄目です。また、『私に相談がなかった』とか、『聞いていない』などと、へそを曲げるようなことがあってはなりません。
批判するためではなく、応援するために、経験豊富な皆さんがいるんです。

どうか、皆さんは、"後輩のリーダーは、私が守り抜く"との決意に立ってください。
たとえば、県長でも、ブロック長でも、新しい中心者が誕生したら、『今度の県長は、若いがすごい人だ!』『あのブロック長は、大変な人材だ。みんなでもり立てていこう!』と言って、率先して応援していくんです。
そして、その中心者に、『どんなことでもやらせていただきますから、遠慮なく、相談してください』と言ってごらんなさい。
草創の大先輩が、こぞって、そう言って応援してくれたら、若い人は、どんなに活動しやすいか。それが、真実の先輩幹部です。それが、創価家族の世界です。

2011年12月22日木曜日

2011.12.22 わが友に贈る

会場提供者のご家庭に
心からの御礼の言葉を!
近隣の方々にも深謝。
尊き宝城ありて
地域広布は大前進!

寂日房御書 P903
我が滅度の後に於て応に此の経を受持すべし是の人仏道に於て決定して疑い有ること無けん」と云云、かかる者の弟子檀那とならん人人は宿縁ふかしと思うて日蓮と同じく法華経を弘むべきなり

◇希望の明日へ
いかなる理由があり、どう正当化しようとも、退転すれば、成仏の"種子"を自ら壊すことになる。

▽度度の大事にも臆する心なく弥よ強盛に御坐す−御書。堂々と明年勝利へ
▽きょう冬至。寒風の中を駆ける無冠の友に感謝。絶対無事故と健康を祈る

2011年12月21日水曜日

2011.12.21 わが友に贈る

防犯・防災のために
皆で声掛けを!
近隣同士の友好こそ
安全・安心の土台。
大切な地域を守れ!

四条金吾御書 P1175
なによりも承りてすずしく候事はいくばくの御にくまれの人の御出仕に人かずにめしぐせられさせ給いて、一日二日ならず御ひまもなきよしうれしさ申すばかりなし

◇希望の明日へ
学会は、厳格な正義の団体である。清らかな、まじめすぎるくらいまじめな世界である。こうした世界に"水が合わない"人は、しだいにいられなくなっていく。退転し、もっとわがままのきく世界へと移る。その世界でさらに悪心を増長させて、悪行をなし、学会の悪口を広める。それが一つのパターンである。曲がった心根を見破られ、注意されて、逆恨みし、出ていった人間などは、その典型である。

▽地道に戦う人こそ最大に尊敬せよ−恩師。リーダーは陰で支える友を忘れるな

2011年12月20日火曜日

2011.12.20 わが友に贈る

対話の真髄は
率直に話を聞く「勇気」
信念を語り抜く「誠実」
通じ合えるとの「信頼」
新たな友情こそ宝!

上野殿後家尼御返事 P1506
いかにもいかにも追善供養を心のをよぶほどはげみ給うべし、古徳のことばにも心地を九識にもち修行をば六識にせよとをしへ給うことわりにもや候らん

◇希望の明日へ
人間を含め、動物は"動くもの"である。自ら動かなければ、木石にも等しい。また、生命の躍動をもつものが"動き"を失えば、腐ってしまう。川の水も同じである。流れがよどみ停滞すれば、いつしか濁って、変質する。妙法の世界にあっては、献身の行動をいとい、退転した人間は、信心の清流が濁り、心が腐ってしまった姿にはかならない。

☆青年よ 二十一世紀の広布の山を登れ
「なぜ山に登るのか」
「そこに山があるからだ」と
かつて
ある著名な登山家は言った

我らは今
広宣流布の山である
二十一世紀の山を
登攀せんとしているのだ

我が 青年達よ
妙法正義の旗を振りながら
満ちたりたる人生の自立のために
二十一世紀の山を
勇敢に登り征け

そのためにも
大なり小なり
自己に直面する日々の現実の山を
一歩一歩
また一つ一つ
登りゆかねばならない
その厳しき現実と
社会の山を登りゆかんとする
その生命の中にのみ
真実の充実しきった
青春の価値があるからだ
そして その深く
自身の決めたこの道にのみ
無言にして
無限の言い知れぬ
広びろとした広野の如き
自己自身をつくり
見つめゆくことができるのである

我が 門下の青年よ
生きて生きて生き抜くのだ
絶対不滅にして
永遠の大法のために
また この世に生を受けた
尊き自己自身の使命のために
さらに
我らの信条である
世界に平和の鐘を
社会に正義の旗を
打ち建てゆくために

今日も太陽は昇る
春の桜の朝(あした)にも
かの炎熱の日々にも
紅葉(もみじ)の秋にも
吹雪と嵐の曇天にも
悠然と太陽は昇る
と共に逞しく
未来に生きゆく青年の胸中にも
大法輝く太陽が
刻々と昇りゆく
青春であらねばならない

若き君たちよ
青春とは太陽の異名である
その無限の可能性に
光り輝く太陽を抱きながら
今日一日を
すべてに勝ち取っていく
日々であっていただきたい

我が 太陽の仏法昇りきたりて
法灯連綿七百年
そしてまた
「源遠ければ流長し」の
原理のもとに
その大河は
満々と世界に流れ広がった

昭和二十六年
その太陽の仏法を掲げて
勇敢にして信念の
青年部の先輩立ちて三十年
その時集いし不屈の
凛々しき若武者と
清純なる乙女ら
二百六十余人
今 ここ三十年の流れに
ある時は
岩にぶつかり
ある時は
嵐に水かさを増しながら
ある時は
炎熱の日々に水かさを減じながら
今や四百万人の脈々たる奔流となる
会長の後継者も
全て青年部出身者であったことを
忘れないでもらいたい

この悠々たる大河の流れは
誰人も
決して止めることはできない
いかなる権力をもってしても
いかなる邪悪な妨害ありとも
時代の先取りとしながら
さらにさらに
水かさを広く深く拡げながら
大海に向かって
流れていくに違いない

この若き青年諸君の
勇猛(ゆうみょう)にして精進の弘法の力により
日蓮大聖人の太陽の仏法は
我が国を超えて
世界へと輝きわたる
またその妙法流布の大河の流れも
九十数か国に流れわたった
平和のため
生命尊厳のため
世界の大仏法として
あらゆる慈悲を与えながら
滔々(とうとう)と歓び渡る

その先駆を切りし人々は
すべて青年であったのだ
御書に曰く
「日蓮が慈悲曠大ならば
南無妙法蓮華経は万年の外
未来までもながるべし」と

信教の自由を守るための
我らの慈悲と哲理の秩序ある行進には
階級もない
国境もない
全ての人が本源よりの
自らの使命と権利と幸福を
創りゆくためへの行進なのだ

我らは絶対に暴力に反対する
我らは絶対に戦争に反対する
この大仏法を基調として
平和と文化の賛同を得ながら
国境を越え
イデオロギーを超え
共鳴の華の輪を拡げゆくのだ
人間は誰人たりといえども
幸福になりゆく権利があるからだ

私は諸君の成長をひたすら待っている
否 祈っている
それしか広宣流布の道がないことを
知っているからだ
そこで 私は申し上げたい
現実の二十一世紀の山へ
登りゆくためへの原動力は
勤行 唱題であることを
忘れてはならないということである

「一丈のほりを こへぬもの
十丈 二十丈のほりを こうべきか」
の御聖訓のままに
今 君達が存在するその場所で
断じて勝たねばならない
仏法の真髄である
題目をあげぬいた人には
誰人もかなわないからである
この一点を
君達は忘れてはならないし
実践しぬいてもらいたい

いかなる苦衷の最中(さなか)に入っても
希望を失ってはいけない
希望は力である
これこそ信心であるからだ

ともあれ 人間のみが
希望を生み出す
価値ある存在であるからだ
かりに 不運にも
姿は敗れることがあったとしても
信心の二字だけは
決して敗れてはならない
信心の二字が不撓であるならば
いつの日か必ずや
その人には
勝利の満足の証(あかし)が待っている
その証は
社会の中に厳然として
明確に証明されるのが
事(じ)の仏法であるからだ

ここで 若き君達は
聡明なリーダーとして
成長していただきたい
また
民衆と共に歩みゆくことを
絶対に忘れてはならない
民衆が主権者であるからだ
民衆は常に賢者であることを
知らねばならない

その民衆の支持と信仰があるかぎり
我らの行進は
いやが上にも
限りなき前進の歴史を
築くことができるからだ

故に 若き君達は
労多きことを誇りとしながら
良き市民の人生の案内役
そしてまた
若き哲学者であっていただきたいのだ

来るべき時代は
かかる若きリーダーを
望み待っていることを
私は知っている
信仰と哲学なき人は
羅針盤のなき船舶のようなものだ
もはや
物の時代から心の時代
心の時代から生命の時代に
刻々と移りかわっている
そこにのみ真実の人生の幸福という
価値あることを人々はめざめ始めた
いまや
有名とか 財産で偉さが決まる時代は
全く過ぎ去ったといってよい
大衆による大衆の時代なのだ

この大衆の時代に
大衆より信頼を得た人が
真実のリーダーなのである
人間は皆 すべて平等である
上下などある筈がない
若き君達よ
朝な夕なに大衆と常に接し
共に生き
大衆と温かき連係をとりながら
そして大衆と呼吸し
共鳴してゆく
若き新世紀のリーダーに
なっていただきたいのだ

私は 君達を信ずる
君達に期待する
君達を愛する

私も
人生の恩師と定(き)めた
戸田門下生の一人として
あらゆる迫害を浴びながらも
その時 誓いあった広宣流布という
民衆のための法戦を
貫き通してきたつもりである
いわれなき冤罪は
歴史が厳然と裁くことを
断言しておきたい

いかなる
権威 権力をもって迫害されても
一人の人間として
どこまで難を乗り越えられるか
その姿を示しゆくところに
人間革命の実証があるとの
信念に殉じて生きてきた

絶対に
卑怯者にはなりたくなかった
また なってはならない
裏切り者であってはならない
それは
いかに正義ぶった
論調を展開しようとも
もはや 野干になりさがった
言々であることを知悉しているからだ

若き青年リーダーたちよ
問題にあったて
常に鋭く
その事件の本質を
見抜きゆく洞察力を持たねばならない
また 様々な法戦にあって
その背後にある
陰謀 画策の構図を
見破らねばならない

故に 未来に生きゆく青年たちは
賢者であらねばならない
愚者であってはならない
騙されてはならない
聡明と智恵者であらねばならない
これこそ
「天晴れぬれば地明らかなり」との如く
信心の要件といわねばならないからだ

詮ずる所は
不幸と幸福
邪悪と正義
魔と仏の戦いが
仏法の仏法たる所以であることを
自覚していただきたいのだ
ともあれ 若き君達は
同信退転の
あわれな友を乗り越え 乗り越えて
生命の宝塔の
求道の人々と交わりながら
ひたすらに
運動の繰り返しを
回転しぬいていただきたい

真実の
充実しきった意義ある人生には
真実の
偉大な仏法と信仰が必要なのである
君達の最高の誇りは
日蓮大聖人の仏法を持(たも)ち
青春を乱舞しぬいているということに
つきることを知らねばならない

二十一世紀の山は近い
もはや彼方に見える
二十一世紀は
全てが君達のものだ
君達の暁であり
檜舞台である
君達が存分に活躍しゆく
総仕上げの大舞台である

二〇〇一年五月三日──
この日が
私共のそして君達の
大いなる
目標登攀の日であるといってよい
広布第二幕の勝負は
この時で決せられることを
忘れないでほしいのだ
愛する君達よ
その日まで労苦の修行を
足も軽やかに
健康で
日々歩んでいただきたい

全てが自身のためと思い
そして 民衆のためと思い
悩める友のためと思いながらの
修行であっていただきたい
そして永遠に刻みゆく
忘れ得ぬ自己自身の
歴史の綴りであることを思いながらの
精進であっていただきたい
どうか 苦しき時
行き詰まりそうになった時に
あの雄々しき多くの同志がいることを
忘れてはならない
まだ 彼の地にも
あの先輩が
あの同志がいることを
決して忘れてはならない
そのために自身に克ちゆく唱題も
忘れてはならない

我らの そして君達の
行動と活躍の全ては
三世を通観なされる
日蓮大聖人の御照覧が
常にあることを忘れてはならない
また この経を持(たも)つ人には
必ず諸天の厳たる護りがあることを
疑ってはならない
これを信心というのだ

少々の屈辱と侮蔑の
非難を浴びせられても
釈尊もそうであられたし
ましてや
日蓮大聖人の大迫害よりみるならば
あまりにも小さき難であることを
凡夫である我々は
感謝しなければならないのだ
かの熱原の法難を
そして近くは
我が学会の誉れある
初代 二代会長の法難を
想い起こしてもらいたい

どうか 後継の諸君よ
老いたる親を大切に
そして社会を大切に
泥沼の如き労苦の社会の中にこそ
「如蓮華在水」の原理があることを
知っていただきたいのだ
その複雑きわまりなき社会にあって
若き地湧の後継者たる君達は
厳然として自己の宮殿をひらきながら
悠然と
ある時はさらに走り
ある時は耐え
そして
ある時は青春の叫びを訴えながら
またと来らざるこの一日一日を
前へ前へと
進みゆくことを願ってやまない

信仰とは
何ものをも恐れぬことだ
自己をして自己の信念を
法と人と社会のために
果たしゆくことだ
社会は厳しい
甘えてはならない
刻々と変遷しゆく
社会に流されるのではなくして
君達は堂々と歴史を作りゆく
主体者であることを自覚されたいのだ
表面的な社会の現状に紛動され
毀誉褒貶の八風(はっぷう)に
侵されゆく自分であっては
もはや大聖人門下の
偉大なる信仰者とはいえないのだ

私が願ってやまない
若き 仏子達よ
今再び
スクラムを組みかえながら
たまには菜の花の広野で
次の目標への打ち合わせをしながら
また ある時は
「紅の歌」
「緑のあの道」を
高らかにうたいながら
堂々と若き後継の友を拡大しながら
ついに目指した
金剛の二十一世紀の山へと
共進を開始していただきたいのだ

その二十一世紀の
山に登りきったならば
あとは一切
君達のものである
それからは広宣流布第三章の
平和と幸福への
歓喜の法戦を
全て君達に託したい

(1981.12.10 大分県青年部幹部会)

2011年12月19日月曜日

2011.12.19 わが友に贈る

断じて病に負けるな!
「南無妙法蓮華経は
師子吼の如し」
強き生命力で
宿命転換の劇を!

上野殿後家尼御返事 P1506
故聖霊は此の経の行者なれば即身成仏疑いなし、さのみなげき給うべからず、又なげき給うべきが凡夫のことわりなり、ただし聖人の上にもこれあるなり、釈迦仏御入滅のとき諸大弟子等のさとりのなげき凡夫のふるまひを示し給うか

◇今週のことば
年末年始を
心を結ぶ対話で飾ろう!
「仏種は縁に従って起る」
誠実な挨拶や年賀状で
友情と仏縁の拡大を!
2011年12月19日

◇希望の明日へ
信仰者にとって一番の恥は退転である。いかなる理由をつけて弁解しょうとも、一人の人間として、これほど、情けない、恥ずかしいことはない。信念は最後まで貫いてこそ信念である。信仰を持った以上、途中で道をそれるのでは、見せかけだけのニセ物の信仰であった証拠である。

質問18 大学進学について悩んでいます。

「自分への挑戦」に勝った人が勝利者
人の何倍も学び抜け! 努力こそ青春の勲章

出た学校によって、自分の一生が、すべて決まるわけではない。
むしろ、自分が「どのように生きるか」という強さ、深さが大事です。その強さ、深さの分だけ、満足と充実の人生を生きていけるものです。
終戦後の混乱期、私か勤めていた戸田先生の会社は、破産状態だった。
しかし、ある先輩が「どんな事態に直面しても、『人生、当たって砕けろ』の精神で行け!」と言ったことが、頭に残っている。
単純な言葉のようだが、人生の大事な真実を教えている。
「当たって砕けろ」という勇気があれば、必ず何らかの道が開けるものです。
「出身校で決まる」のではない。「自分という人間」で決まる。有名校に行ったから幸福か。そうは絶対に言えない。
また、いわゆる二流、三流校に行ったから敗北者か。そんなことは絶対に言えない。小学校を出ただけで偉くなった人は、いっぱいいる。
要するに、「自分への挑戦」に勝った人が勝利者であり、幸福になれるのです。
これが根本です。
だから今、「勉強ができない」「成績が悪い」からといって、受験に挑戦しないというのは、情けないことです。
挑戦する「心」が、挑戦する「人間」をつくる。
そして、その挑戦がどんな結果になろうが、そこに残った「充実感」を誇りとしていきなさい。

大学に行きたいのなら、夜学に行ってもいいし、通信教育もあるし、あとは自分の努力しだいです。
アルバイトをして自分で学費をかせいで大学に行ってもよい。人生には、さまざまな交錯した事情がある。思いどおりにいかないこともある。社会もまた同じである。要は、それに負けないことだ。
長い人生です。希望どおりにいくとはかぎらない。願いどおりにいかない場合が多いのが現実でしょう。
だからこそ、そこに「人生の戦い」があり、「自分との葛藤」がある。
いかにして自分として満足できる「栄光の山」に、たどり着くか。その挑戦が人生です。
今は奨学金の制度もある。頑張れば、さまざまな奨学制度を利用することもできる。

行きたいのであれば、勉強をしなさい。勝つためには努力が必要だ。人の何倍も勉強をしなさい。遊びや空想ではない。
「ああ、一晩たったら、英語を話せるようになっていたらな」とか、「遊びながら秀才になる方法」なんて、絶対にない。努力なくして偉大な業績は残せない。「学問に王道なし」です。皆が驚くほど勉強しなさい。これが根本の考え方です。そして、その努力が、青春時代の尊い、充実した思い出として残るでしょう。それが青春の勲章です。
(『青春対話2』から)

2011年12月18日日曜日

2011.12.18 わが友に贈る

「父母の恩を報ぜよ」
仏法は親孝行の法。
笑顔で感謝を!
元気な声を伝えよ!
真心が最高の贈り物だ。

減劫御書 P1466
殷の代の濁りて民のわづらいしを大公望出世して殷の紂が頚を切りて民のなげきをやめ、二世王が民の口ににがかりし張良出でて代ををさめ民の口をあまくせし、此等は仏法已前なれども教主釈尊の御使として民をたすけしなり、外経の人人はしらざりしかども彼等の人人の智慧は内心には仏法の智慧をさしはさみたりしなり

◇希望の明日へ
大聖人の仏法は、悪しき権威・権力と、真っ向から戦う民衆の宗教である。退転者は、世間の権威にすり寄り、権力にこびへつらい、ただ見栄えと格好の良いほうへと、信念を捨て転身していく。その根底は卑しく、臆病な"保身"以外の何物でもない。要するに、権威に弱い自らの心に負けただけの話である。

▽折伏を行ずる人に強靱な生命力と無量の大福運が−恩師。自他共の勝鬨を

☆質問17 どうして差別やいじめがあるのでしょうか。

毅然と生きよ! その強さが「人権」
同じ「人間として」生きる心の豊かさを

外国人を「同じ人間」として見られない。それは心が貧しいからです。自分が「人間として」どう生きるかという哲学をもっていないからです。
哲学を学ばず、目先しか見ていない。欲望のままに貪る「餓鬼」の心、強い者にはへつらい、弱い者はいじめる「畜生」の心──その悪根性でできあがった社会であるから、人を差別する心、人権を無視する社会ができてしまった。
大事なのは「人間として」生きることです。
それなのに、多くの日本人は、「人間として」生きる前に、「日本人として」発想してしまう。心の狭い島国根性です。少しでも「異質」だと思うと排除したり攻撃する。その閉鎖性が、国際的にも孤立を招いているのです。

病苦と経済苦に疲れきった人。人間関係に押しつぶされ、人生に絶望した人。家族がパラパラで、すさんだ心の荒野をさまよう人。
光の当たらない、あらゆる苦悩をかかえた民衆に手を差し伸べ、ともに同苦し、ともに立ち上がってきたのが創価学会です。
諸君のお父さん、お母さんは、そういう「人間のための闘争」に生きてきた。名誉もいらない、地位もいらない、ただ「人間として」人間愛に生きぬいた。
泥沼のような醜い社会の中で、一筋に大いなる理想に生きぬいてこられた。最高に尊い方々なのです。
その「心」を諸君は受け継いでほしいのです。その「人間愛」を世界に広げてほしいのです。

〈高校生からの「私は障害があります。そのため、道や学校で笑われてしまいます。どうしたらいいか、自分にはわかりません」との質問に対して〉
結論から言えば、自分が強くなるしかない。それも人権闘争です。
人に同情されるのは、決して人権ではない。
「障害者も立派な人間だ」という誇りをもつことです。「自分としての使命があるのだ」との誇りをもつことだ。
それをあざけり笑うのは、笑う人が悪人なのであり、人権無視の悪の罪業を積んでいるのです。
それに負ければ、人権は崩れる。その強さが人権なのです。

毅然として生きることです。その「人格」が人権の根本です。人格は、お金とは違う次元の、いちばん重要な問題です。
物質的な幸福を追うだけでは、本当の平和はない。二十一世紀は、どうしても「人権の世紀」にしなくてはならない。目先の利害にとらわれない社会にしなくてはならない。
それには、まず自分が自分を大切にし、誇りをもって毅然と生きることです。その人が、他の人も大切にできるのです。
大河も最初の一滴から始まり、大海へと四ぐ。「人権の世紀」への流れは今、始まったばかりです。
(『青春対話1』から)

2011年12月17日土曜日

2011.12.17 わが友に贈る

防寒対策を万全に!
外出の時などは
「寒い所に出る」と
意識して行動せよ。
雪道・凍結路にも注意!


食物三徳御書 P1598
譬へば人のために火をともせば我がまへあきらかなるがごとし

◇希望の明日へ
大聖人の仏法は、悪しき権威・権力と、真っ向から戦う民衆の宗教である。退転者は、世間の権威にすり寄り、権力にこびへつらい、ただ見栄えと格好の良いほうへと、信念を捨て転身していく。その根底は卑しく、臆病な"保身"以外の何物でもない。要するに、権威に弱い自らの心に負けただけの話である。

☆新時代第2回本部幹部会でのスピーチ 2006-12-7
昭和33年、『大白蓮華』の新年号において、戸田先生がご生涯の最後に執筆された年頭所感のタイトルは、何であったか。
それは、「勇猛精進」である。その結びに、先生は叫ばれた。
新春を迎えるにあたり、学会員の一人一人が、この決意も新たに、広宣流布の大道を勇猛精進せられんことを祈ってやまないものである。
一生空しく過して万歳悔ゆること勿れ』の御聖訓を日夜誦して、今日よりも明日、今月よりも来月、今年よりも来年と、いよいよ信心強盛に励むことが一年の計の基本であり、一生の計の根本となるのだ。
まず肚を決めよ! 決まったら勇ましく進め!」
日寛上人は、この「勇猛精進」について、「依義判文抄」で、大要、次のような意義を紹介しておられる。
「勇」とは、「勇んで行動すること」。
「猛」とは、「智慧の限りを尽くすこと」。
「精」とは、「一点の混じり気もないこと」。
「進」とは、「間断なく前進すること」。
この「戦う心」が、仏法の究極であり、仏の姿であると、よく戸田先生は訴えられた。
その通り、私はやってきた。
明年の「前進・勝利の年」は、この「勇猛精進」の大闘争心で勝ち進みたい。

2011年12月16日金曜日

2011.12.16 わが友に贈る

「ほむれば弥
功徳まさる」
この一年の大奮闘を
皆で讃え合おう!
創価の英雄 万歳!

食物三徳御書 P1598
譬へば人のために火をともせば我がまへあきらかなるがごとし

◇希望の明日へ
法のため、広布のために、辛労を尽くしきった人こそ、不退の勇者となる。反対に、いかに表面は活躍しているように見えても、何かあると、労苦を避けて通っている人は、いざというときに退転していく。これは、今も変わらぬ厳しき信心の方程式である。

☆新時代第2回本部幹部会でのスピーチ 2006-12-7
戸田先生は、総会の折、模範の健闘をされた同志の方々を、壇上に招かれて、讃えられた。
「ここに並ばれた方々は、私が褒めるよりもさきに、大聖人様がお褒めになっているに間違いありません」
「大聖人様はすごい御褒美をくださるでありましょう」
「どうか皆さん、この方々に、拍手を贈ろうではありませんか」

仏法の眼からみた場合、広布へ戦う会員の皆さんこそが、だれよりも偉い──そういうお話であった。
これが、創価学会である。仏法の世界である。
その一方で、先生は、壇上にいた傲慢な幹部に対して、「生意気な奴は出て行け!」と一喝された。私は「この精神が大事なのだ」と胸に刻んだ。

▽法華経の剣は「つかう人によりて物をきり候か」 「勇気」の二字を忘れるな

☆新・人間革命 共戦29
学会員は皆、長年、信心してきた先輩たちが、どんな生き方をするのか、じっと見ています。ゆえに、学会と仏法の、真実と正義を証明していくために、幹部だった人には、終生、同志の生き方の手本となっていく使命と責任があるんです。
もちろん、年とともに、体力も衰えていくでしょう。足腰も弱くなり、歩くのも大変な方も増えていくでしょう。それは、自然の摂理です。恥じることではありませんし、無理をする必要もありません。ただ、どうなろうとも、自分なりに、同志を励まし、法を説き、広宣流布のために働いていくんです。
また、体は動けなくなったとしても、皆に題目を送ることはできるではありませんか!

2011年12月15日木曜日

2011.12.15 わが友に贈る

聖教拡大に勇み立つ
「新聞長」はじめ
尊き全同志に感謝!
希望の大哲学を
共々に地域へ世界へ!

一生成仏抄 P384
深く信心を発して日夜朝暮に又懈らず磨くべし何様にしてか磨くべき只南無妙法蓮華経と唱へたてまつるを是をみがくとは云うなり

◇希望の明日へ
"おごり"や"慢心"は、退転への道である。ゆえに、いつしか心にしのび寄る"おごり""慢心"を、厳に戒めねばならない。信心の世界には"倣慢の人"は必要ないし、絶対にいさせてはならない。もし、そのような幹部がいれば、純真な学会員をいじめ、利用し、苦しめられるであろう。それを思えば、先輩は、厳しく見守り、戦っていかなくてはならない。

☆新時代第2回本部幹部会でのスピーチ 2006-12-7
戸田先生のご指導を拝したい。
「広宣流布の拡大する戦線には、新聞が第一の武器だ。断じて言論戦で切り拓こう」
「聖教新聞」である。頼むね!〈「無冠の友」「新聞長」の皆さんをはじめ、会場の友が「ハイ!」と力強く返事を〉
私は、よく戸田先生と語り合った。
「大作、これから一番大事なことは、何だと思う?」
「新聞だと思います」
「そうだな。俺もそう思う。やろうじゃないか」

戸田先生と、東京・新橋の小さな食堂に入った時、先生はこう語られた。
「新聞をつくろう。機関紙をつくろうよ。これからは言論の時代だ」
聖教新聞は、二人の師弟の対話から始まったのである。
私はいつも、戸田先生にお供した。そして、先生をお守りし抜いた。
初めてお会いした時から、亡くなられるまで、ずっと戸田先生と一体であった。
そういう師弟のつながりなのである。

2011年12月14日水曜日

2011.12.14 わが友に贈る

新しい歴史を創るのは
リーダー自身の
祈りと行動だ!
自らが燃えてこそ
友に勇気の火を点す!

御義口伝巻下 P758
日蓮が云く一切衆生の異の苦を受くるは悉く是れ日蓮一人の苦なるべし

◇希望の明日へ
二乗根性とは"自分のみの幸福の世界に閉じこもろう"とする性格の人である。その人は自分ひとりが喜びを感じ、慢を起こし、他の人を顧みようとはしない。あえていえば、"人はどうでもよい"との心で、他人の幸福のために、決して自らの手を汚し、汗を流して尽くそうとはしない。それでは、人生の真の喜びも感激も感じられない、偏頗な生き方となる。学会にあっても、悪事を働き退転し去った人は、必ずといってよいほどエゴの固まりであり、いわゆる二乗根性の卑しい性格の持ち主であった。

▽師子は打たれるほど猛り立つ−恩師。逆境に応戦せよ!強盛な祈りで勝て

☆新時代第2回本部幹部会でのスピーチ 2006-12-7
紀元前3世紀ごろ、中国・戦国時代末期の思想家に、荀子(じゅんし)がいる。
荀子は、思想が乱れきった社会の中で、人間の「努力」を重視した。そして、だれもがたゆみない努力によって、いくらでも自分を高めていくことができると訴えた。
私は戸田先生の個人教授で、漢文も学んだ。名言や名句は、よく暗記させられた。「この一文は、牧口先生がお好きだった。大作、線を引いておきなさい」などと戸田先生が語りながら、教えてくださったことが懐かしい。
荀子は一国の学問の中心者として活躍したこともあったが、讒言によってその立場を追われるなど、不遇の時期も多かった。そうしたなかで、黙々と著作と教育に徹し、多くの傑出した弟子を育てていった。
青年の育成──今、私もこの一点に最大の力を注いでいる。
次の世代の、本物の学会の指導者、世界の指導者を育てるために、休むことなく考えをめぐらし、人知れず手を打っている。
荀子は、次のように主張している。
"意見を発表する際に、自分の師匠のことに言及しないのは、「さからう」ことである。
師匠にそむき、さからう恩知らずを、聡明な君主は決して用いない。人々もまた、道で会っても相手にしない"

教育の重要性を強調した荀子は、師を尊ぶことを強く訴えた。
人は「恩」を忘れたとき、自己の原点を見失い、転落していくのだ。
また、"国が繁栄しようとするときは、必ず師匠が尊敬され、人を育てる人が重んじられている。逆に、国が衰えようとするときは、必ず師匠が侮蔑され、人を育てる人が軽んじられている"とも言っている。
師への感謝と尊敬を、絶対に忘れてはならない。ここに、発展か衰退かの分かれ目がある。
学会がここまで大発展したのも、牧口先生、戸田先生を讃え、敬ってきたからである。私は、この原理を厳然と実践し、確たる発展の軌道を築いてきた。
この点を、よくよく深く銘記していただきたい。

2011年12月13日火曜日

2011.12.13 わが友に贈る

偉大な歴史は
一日にしてならず。
「小事」の積み重ねが
必ず「大事」をなす。
勇んで今日を勝て!

一生成仏抄 P384
迷う時は衆生と名け悟る時をば仏と名けたり、譬えば闇鏡も磨きぬれば玉と見ゆるが如し

◇希望の明日へ
どこかに不透明な部分をもつ人間、また何か心の底が知れない人に、リーダーはくれぐれも注意すべきである。これまでも、正法を捨て、同志を裏切っていった者には、どこかに見えない不透明なところがあった。来るべき会合に来なくなったり、話すことが明快でなくなったりして、だんだん不透明な部分が増すにつれ、信心の後退が始まっていることが多いからである。

☆新時代第2回本部幹部会でのスピーチ 2006-12-7
戸田先生の事業が最も苦境にあったとき、先生は、こう言われた。
「私は、『仏意仏勅の旗』を持っている。『破邪顕正の旗』を持っている。『異体同心の旗』を持っている。『三世永遠に輝きわたる旗』を持っている。
『勝利栄光の旗』を高らかに掲げよ! 頼むよ大作、一緒に私と戦おう!
『広宣流布の旗』のもとに大いなる人々を集めてくれ!
勝つのだ!頼むよ!」

先生から譲り受けた「旗」を、私はただ一人掲げて、戦い抜いてきた。そして勝った。その戦いを最もよく知っているのは、私の妻である。
学会は勝ちました!
創価学会は、御書の通りに広宣流布に前進している。これほど尊い団体はない。永久にない。
創価学会は、御書の通りに「悪口罵詈」「猶多怨嫉」の難を受けきってきた。これほど強い団体はない。
創価学会は、御書の通りに「法華折伏・破権門理」を実践している。これほど正しい団体はない。
創価学会は、御書の通りに「不惜身命」「死身弘法」を貫き通してきた。これほど誇り高き団体はない。
これからも創価学会は、御書の通りに「師弟不二」「異体同心」で、断固として勝ちまくっていかねばならない。
頼みます!

2011年12月12日月曜日

2011.12.12 わが友に贈る

新聞休刊日

御義口伝巻下 P753
無作の三身をば一字を以て得たり所謂信の一字なり

◇希望の明日へ
学会員の中にも、退転者のたくみな策動にだまされ、学会を去り、あるときは法華講、またあるときは檀徒へと、またあるときは謗法の僧のもとに、へつらい走った姿があった。そしてまた"学会にもどりたい"といった人々がいたのはご存じの通りである。こういうことでは結局、どこへ行ってもだれからも信用されなくなるであろう。

☆新時代第2回本部幹部会での名誉会長のスピーチ  2006-12-7
皆さん、この1年間、本当にご苦労さま!
音楽隊の皆さんも、1年間、ありがとう!
はじめに、音楽隊の皆さんに、次の和歌を贈りたい。

音楽隊
 広布に走る
  一千万
 同志の励まし
  無量の演奏

仏勅の
 広布の士気の
  音律は
 凛々しく賑やか
  大行進かな

また、壮年部の友には、この2首を贈りたい。

健康と
 長寿の生命
  大切に
 壮んな年に
  誉れ多かれ

あな嬉し
 君も健康
  我もまた
 無量に価値ある
  人生飾れや

婦人部の皆さまには、次の和歌を贈りたい。

母の歌
 母の曲あり
  婦人部の
 健気な菩薩を
  皆が尊敬や

健気にも
 仏意仏勅
  胸に秘め
 笑顔の太陽
  婦人部尊き

最後に、青年部の諸君に3首を贈りたい。

晴れわたる
 広宣流布の
  幹部会
 君も勝ちたり
  我も勝ちたり

勝ちにけり
 この一年も
  来る年も
 断固と勝ち抜け
  創価の健児は

厳とした
 勇気と正義の
  信念の
 青年部ありせば
  未来は盤石

皆さん、本当にありがとう!

海外の女性の皆さん、遠いところ、本当にようこそ!
また、「青年僧侶改革同盟」の皆さまも、ありがとうこざいます。
「重ねて申し上げるが、この1年、本当にご苦労さまでした!
会長や最高幹部といっても、自分たちだけて広宣流布を進めることはできない。
会員の皆さんが真剣に戦ってくださったからこそ、世界広布は現実のものとなった。学会は世界一の団体になったのである。
リーダーは、このことを絶対に忘れてはいけない。
決して自分を「偉い」などと勘違いしてはならない。

懸命な一婦人部員。生活に苦闘する一社年部員──そういう方々が戦い、動いてくださったからこそ、学会はここまで発展したのである。
また、こうした庶民のなかにこそ、本当に強い信心の持ち主がいるのである。
ともあれ、この1年も学会はすべての戦いに勝利し、広宣流布の大きな前進を成し遂げることができた。皆さまに、最大の感謝と御礼を申し上げたい(大拍手)。
これからも、体を大事にしていただきたい。風邪をひかないように気をつけて、最高の新年を迎えていただきたい。
そして新年になったら、男性は奥さんに対して、「奥さま、おめでとうこざいます! 今年も一生懸命、働きますのて、安心してください」と言ってはどうだろう。
そう言える男性は偉い。
奥さんのほうは、ご主人に対して、「おめでとうございます! 本当に昨年は、お世話になりました。どうか、お体を大事にしてください。私も一生懸命、御祈念しています」と言ってあげる。
そうすれば、うまくいくはずである。
それを朝から「早く起きなさいよ! きょうは勤行さぽって、お題目三遍で終わり!?」などと言うから、ケンカになる。
まあ、人生は「劇」だから、いろんなことがあっていいかもしれないが。
ともあれ、来年も元気に進もう!
人の批判ばかりしたり、威張ってツンとしていても損をするだけだ。それは愚かであり、人間として敗北の姿である。明るく、朗らかで、元気な人にはかなわない。この人が「人生の王者」なのである。
私たちは、日蓮大聖人に直結して進む。その功徳は無臭無辺である。諸天の加護も厳然である。すべて御書に仰せの通りだ。
信心をやり切って、楽しい人生、愉快な人生、勝利の人生にならないわけがない。仏の境涯にならないわけがない。頑張ろう!

2011年12月11日日曜日

2011.12.11 わが友に贈る

「友にあふて礼あれ」
誠実な振る舞いで
旧友との絆を強めよ!
笑顔と声かけで
新たな友情を結べ!

唱法華題目 P7
悪知識と申すは甘くかたらひ詐り媚び言を巧にして愚癡の人の心を取つて善心を破るといふ事なり

◇希望の明日へ
大聖人の仏法は、御本尊を信ずる人を、何の差別もなく、尊極の尊体とする。全人類に平等な世界宗教である。宗門は、日寛上人御書写の御本尊を誹諦しているが、御本尊を誹謗するということは、大重罪である。自分自身の仏界を誹諦し、破壊することにも通じる。ゆえに、絶対に幸せにはなれない。また、正法を弘める仏子である学会員を誹謗し迫害する者も、正法を誹謗するのと同じく重罪となる。

☆小説「新・人間革命」 共戦25
どんな大変な悩みを聞かされても、「必ず解決します!」「乗り越えられます!」と断言するのである。
そして、信心した人には、事実、その言葉通りの結果が表れるのだ。
学会活動に参加し、多くの人の体験を知ることは、確信という信仰の骨格をつくる直道といってよい。

2011年12月10日土曜日

2011.12.10 わが友に贈る

未来部を大切に!
受験に挑む友を
心から励まそう。
担当者の皆様
いつも ありがとう!

上野殿後家尼御返事 P1504
いきてをはしき時は生の仏今は死の仏生死ともに仏なり、即身成仏と申す大事の法門これなり

◇希望の明日へ
戸田先生が切り開かれた広布の軌道を、私を中心に、まっしぐらに進んできた。そして正法を世界に弘めた。世界中に地涌の菩薩を呼び起こした。この仏意仏勅の"地涌の教団"を破壊しようとするものは、だれ人であれ、いかなる詭弁を弄そうとも、明らかに仏敵であり、法華経と大聖人を、真っ向から否定する大謗法である。真理は明快であり、単純である。

☆勇気の泉 「創価の同志を"仏の如く"大切に」
1972年(昭和47年)1月、沖縄本部を訪れた山本伸一は、到着早々、同志の激励に奮闘する。何人かの幹部と外に出た伸一は、警備をしている男子部員を見ると、すぐに声をかけた。

「どうも、ご苦労をおかけしてすいません。ありがとうございます。
そうやって、黙々と陰で学会を守ってくださる方がいるから、みんな安心できる。その功徳、福運は、永遠に自身を荘厳し、子孫末代までも栄えていきます。お疲れでしょうが、よろしくお願いします」
そして、その青年と、固い握手を交わした。
大聖人は、信心に励む人への接し方について、「当に起って遠く迎うべきこと、当に仏を敬うが如くすべし」(法華経六七七ページ)との経文を引かれ、"仏に接するように互いに尊敬していきなさい"と御指導されている。
ゆえに伸一は、幹部に、同志に対する姿勢を、徹底して訴えておきたかったのである。
「ともかく会員の方々に接する時は、たとえ自分より年下であろうが、いかなる役職の方であろうが、仏を敬う思いで対応することです。感謝と賞讃の心を失った幹部は仏法への違背です。
戸田先生は、自分お一人でも七十五万世帯の折伏を成就される決意であられた。
だから、自分と同じ心で、懸命に折伏に励み、広布に尽力する学会員に会うと、『ありがとう。ありがとう!』と最大に賞讃され、感謝された。
"自分が必ずやり抜くのだ"という責任感が強い人ほど、同志への感謝の念は強くなる。力を合わせてくれる人のありがたさが、身に染みるからです。
一人では、戦いは勝てない。したがって、幹部は同志に心から感謝し、頭を下げ、土下座する思いでお願いして、訴え、励ますんです。それが本当の幹部の姿です
(『新・人間革命』 第16巻「入魂」の章)

2011年12月9日金曜日

2011.12.09 わが友に贈る

リーダーは全力で
人材を育てよ!
一人ひとりを丹念に
真心込めて励ませ。
人材こそ未来の希望!

三世諸仏総勘文教相廃立 P563
言(ことば)と云うは心の思いを響かして声を顕すを云うなり

◇希望の明日へ
謗法は厳しく戒めていかなければならない。そのうえで、学会員は、まじめに信心に励んでいる"広布遠征"の同志である。それを、何かあったといっては謗法呼ばわりすることは仏法者の態度ではない。そんな、窮屈な、重苦しい思いをさせる指導者であってはならない。むしろ、温かく教え諭しながら、伸び伸びと喜びに燃えて信心を貫いていけるように励ましていくべきである。さらにいえば、この世界は、仏と魔との熾烈な戦いの舞台である。仏の軍勢の内部で非難し、足を引っ張りあうことは"城者として城を破る者"となってしまう。戦うべき敵は"魔軍"である。それを忘れて、妙法を胸中に抱く同志を、安易に、謗法呼ばわりすることは、大変な誤りである。

▽どんな子にも必ずいい所が−作家モンゴメリ。美点を見つけ伸ばせ。これ育成の要諦

2011年12月8日木曜日

2011.12.08 わが友に贈る

中継行事を支える
サテライトGに感謝!
あの友 この友に
希望を送る尊き使命。
皆様の福徳は燦然!

異体同心事 P1464
悪は多けれども一善にかつ事なし、譬へば多くの火あつまれども一水にはきゑぬ、此の一門も又かくのごとし

◇希望の明日へ
同じ過ちを犯しても、立場が高く、社会的影響力をもつ者のほうが重罪になることは、裁判の判決などでもよくあることである。謗法を犯した場合も、その人の信心の強弱、厚薄の度合い、広布の組織内での立場によって、その罪が異なることは当然といえよう。また、出家の道に入った僧のほうが、在家よりも罪は重い。かつて、僧という立場、衣の権威を利用して、健気に信・行・学にいそしむ仏子を、謗法呼ばわりし、迫害した悪侶らがいた。御書に照らすとき、その罪は計り知れないほど重いことがわかる。

▽好きな事ばかりやっても人間は大きく育たない−恩師。君よ苦労を求めよ
▽「能く能く心をきたはせ給うにや」御聖訓。広布へ勇み戦う生命は金剛と

2011年12月7日水曜日

2011.12.07 わが友に贈る

10帰運動を守り
女子部・婦人部は
早めの帰宅を!
周囲も配慮し
皆で安穏を勝ち取れ!

日女御前御返事 P1247
法華経の行者を或は貪瞋癡により或は世間の事により或はしなじなのふるまひによつて憎む人あり、此は法華経を信ずれども信ずる功徳なし

◇希望の明日へ
たとえ、いかに妙法を唱え、信行の実践に励んでも、御本尊を誹誘し、大聖人の御精神に敵対すれば、無間地獄に堕ちる。半永久的に、その苦しみを免れることはできない。学会は大聖人の御精神のままに、広宣流布を進めている団体である。ゆえに、いかに信心の実践を重ね、学会活動に励んできたとしても、正法に仇をなし、師敵対し、和合僧の学会を誹諦すれば、堕地獄は間違いない。これが仏法の厳しき因果であることを知らなければならない。

☆ヤングミセス首都圏県区委員長会へのメッセージ
皆さん、ご苦労さまです。信心の本家に、お帰りなさい。
今、ヤングミセスをリードする皆さん方は、私と妻が、一人一人、女子部の時から、愛娘のように見守ってきた宝の中の宝の人材です。縁深き皆さんのことは、すぐにわかります。皆、女子部時代に学会の庭で薫陶を受けた「決意」と「粘り」をもって、それぞれの使命の天地で、本当によく頑張ってくれている。
日蓮大聖人は、健気な女性の門下へ送られた「法華初心成仏抄」に、『よき師と・よき檀那と・よき法と此の三寄り合いて祈を成就し国土の大難をも払ふべき者なり』(P550)と仰せになられました。
人生は、誰もが悩みとの戦いです。思うようにいかない現実との悪戦苦闘です。なかんずく幾つもの試練が集中する年代が、ヤング・ミセスの時代でしよう。だからこそ、この時に、リーダーとして、師弟の誓いを胸に歯を食いしばって戦う皆さんが、どれほど尊いか。
私と一緒に妻が、戸田先生にお仕えし、戦い切ったのも、まさに、ヤング・ミセスの時でした。何やかやと忙しく大変でしょうが、永遠に崩れざる福運の土台を、今こそ張り切って積んでいってください。
「法華初心成仏抄」には、『口に妙法をよび奉れば我が身の仏性もよばれて必ず顕れ給ふ、梵王・帝釈の仏性はよばれて我等を守り給ふ、仏菩薩の仏性はよばれて悦び給ふ』(P557)とも仰せです。
どうか、『苦楽ともに思い合せて』(P1143)題目を唱え抜きながら、全員が「幸福の太陽」と輝き切って、勝利の歴史を残してください。
ヤングーミセス、万歳! 健康で朗らかに、一年を勝利で飾ろう!
2011年11月29日

2011年12月6日火曜日

2011.12.06 わが友に贈る

合意と納得こそ
勝利の要諦だ。
皆の意見を尊重し
明確な目標を!
知恵と団結で進め!

王舎城事 P1138
御いのりの叶い候はざらんは弓のつよくしてつるよはく太刀つるぎにてつかう人の臆病なるやうにて候べし

◇希望の明日へ
御本尊を信じ、御書を拝しているといっても、難と戦っている正しき門下を謗り、軽んじるならば、それは大聖人の御書を謗り、御本尊と大聖人を軽侮することに通じる。仏法に違背する行為となるゆえに、重大な罪をつくってしまうことになる。

☆大白蓮華 巻頭言(平成23年12月号)
題目は生命の凱歌なり

負けるなよ
 断じて築けや
  幸福城
 広布の長者に
  福智は光れり

人間の人間たる証しとは、何か。
タイの思想家ワーターカーンは、「それは、人生の苦難と戦うことである。勇気を持って、試練に立ち向かうことである」と結論した。
打ち続くタイの大洪水に際しても、尊き創価の同志は、勇敢に救援の先頭に立って、会館を拠点として、地域社会に貢献を貫いておられる。
大きな自然災害や経済不況が重なったこの一年も、我ら創価の人間主義の連帯は、不屈の光を放ってきた。
戦後の混乱期、私は最悪の苦境にあった恩師の事業を打開するため、題目を唱え抜いて奔走した。それだけに今も、仕事や生活で奮闘する友の苦労は深く胸に迫ってならない。
日蓮大聖人は、『何なる世の乱れにも各各をば法華経・十羅刹・助け給へ』(P1132)と仰せくださった。
全同志が厳然と守りに護られるよう、私と妻も強盛に祈り抜いている。
どんな逆境にあろうとも、私たちには、妙法がある。題目がある。
御聖訓には、『南無妙法蓮華経は師子吼の如し・いかなる病さはりをなすべきや』『日蓮が・たましひは南無妙法蓮華経に・すぎたるはなし』(P1124)と断言なされている。
御本仏のお約束は絶対である。
ゆえに何かあっても、まず題目だ。

題目は『我、妙法の当体なり』と仏の生命を呼び覚ます暁鐘である。
ありとあらゆる生老病死の苦悩を圧倒する、最強無敵の師子吼なのだ。
師・戸田城聖先生は言われた。
「題目を苦しみに集中砲火して打ち破るのだ。真剣に祈り切ることが、遠いようで最も確実な早道なのだ」
なかんずく、広宣流布に徹し抜く師弟の題目ほど、強いものはない。
日蓮と殿と共に地獄に入るならば釈迦仏・法華経も地獄にこそ・をはしまさずらめ』(P1173)とは、強敵と戦う四条金吾への仰せである。
たとえ地獄であろうと、師弟の心が一体ならば、そこに太陽が昇る。悲哀は消え去り、寂光土に変わる。
蓮祖に直結する創価の三代の師弟は、最も凶悪な権力の魔性にも屈しなかった。
妙法を唱え弘めゆく学会の闘士は、一切の障魔を断じて打ち降せることを示し切ってきたのだ。
昭和五十五年(一九八〇年)の一月、あの「さんふらわあ7」号で、四国から神奈川まで駆けつけてくれた正義の母は微笑んでおられた。
「嬉しい時も、辛い時も題目。題目をあげ抜いて勝つ。この一歩も退かない師弟の精神が命に染みこんでいるから、怖いものなどありません」
この九十歳になる母は、先日も、二十八歳の青年に弘教を実らせた。
誓願と云うは題目弘通の誓願なり』(P846)。今、日本中、世界中で、偉大な多宝の父母たちが、広宣流布の誓願の題目を、生き生きと朗々と響かせてくれているのだ。
「学会員は、唱題の実践を通し、この世で積極的に生きることの重要性、他者への思いやり、自然との共生の理念を育んでいる」──私が対談を重ねた、宗教社会学の最高峰ウィルソン博士は述懐されていた。
身の力・心のはかり事・先先には百千万ばいこへたり』(P1062)
さあ、題目の生命の凱歌を轟かせ、生まれ変わった息吹で新出発だ!

勝ちまくれ
 また勝ちまくれと
  祈りゆく
 同志の祈りは
  世界の果てまで

2011年12月5日月曜日

2011.12.05 わが友に贈る

誠実一路の人生ほど
美しいものはない。
地域に職場に
信頼と友情光る
金の橋を築きゆけ!

四条金吾殿御返事 P1143
ただ世間の留難来るともとりあへ給うべからず、賢人聖人も此の事はのがれず

◇今週のことば
財の人材を大切に!
受験生たちにも
温かな励ましを!
未来部の勝利月間から
明年の希望の出発だ!

2011年12月05日

◇希望の明日へ
民衆を守り、正法を守るためには、謗法とは一片の妥協も許されない。どこまでも、厳格なうえにも厳格に処していかなければならない。それが日興上人の御精神であるし、学会精神である。要領よく妥協したほうが、ある意味で"利口"に見える場合も多い。しかし臆病な妥協は、信心の死を意味する。

☆質問16 親がうるさい。束縛されたくありません

自由自在に、世界に貢献できる自分に!
自分の「生きる意気ごみ」wr.,e5dvで決まる。心の強さで決まる

人間は、だれだって自由に生きたい。
自由ほど、すばらしいものはない。

自由のない、牢獄のような毎日は、だれだって、いやです。
「強くなる」ということが「自由」の条件なんだ。
サッカーでも、ボールを「自由自在」に操れるようになるには、練習、練習、練習、です。英語など外国語も、練習を重ねて、初めて「自由」に、しゃべられるようになる。
つまり、「能力」が、人間を「自由」にするのです。その「力」を勝ち取って自分のものにした人だけが、現実に「自由」になれる。

「自由」とは「翼」みたいなものだ。
自由という「翼」を使って、あなたは、どこへでも飛んでいける。
もちろん、飛ばないのも自由です。自分をダメにするのも自由だし、今は歯を食いしばってがんばって、自分を成長させていくのも自由です。
どちらを選ぶか……それも自由です。
「小さな自由」を犠牲にして、未来の「大きな自由」のためにがんばることも大事でしょう。
どんな道を選ぶかは、あくまでも、あなた自身が決めることです。
そして、ご両親や学校の先生が、うるさく言うのは、多くの場合、「こういう道を行くと、こうなる」ということが、みんなよりも、よく、わかっているからなんです。

自分の「生きる意気ごみ」で決まる。
もちろん、よき環境も大事だが、根本は自分の心の強さで決まる。これが、いちばん、覚えてほしいことです。
本当の自由とは、仏法で言えば「境涯」です。
この世でいちばん、不自由な牢獄の中でも、境涯の広い人は「自由」を味わえる。
私の師匠の戸田先生は、あの苦しい牢獄で悟りを開いたのです。しかも戦争中の牢獄です。
身は不自由でも、心は宇宙を翔けめぐるような境涯であられた。

今の諸君が歩むべき「軌道」とは何か。また、到達すべき「目的地」とは、何なのか。
「目的地」は、幸福になることです。何があっても負けない心──"どんなつらいことがあっても楽しめる自分""自由自在に、世界に貢献できる自分"を築くことです。
「軌道」とは、そのために知力、体力、精神力を養うことです。
人間にはみな、一つの「楽譜」が与えられています。その楽譜の曲名は「私の人生」という。その楽譜を目の前に置いて、さあ、どのように演奏するか。また自分で、どう、もっともすばらしい曲に変えていけるか。
それは、あなた自身に、まかされているのです。
そして、あなたの努力しだいで、人生の幸不幸が決まるのです。

(『希望対話』から)

◎石川龍之ドラゴン通信より
10月25日に市長に放射能関連の3回目の要望書を提出し、市民の皆様への放射線測定器(ガイガーカウンター)の貸し出しを要望しておりましたが、12月5日から予約受付が開始されることになりました。まず電話で予約していただきます。本庁、支所で貸出し(受付は専用ダイヤルのみ、平日8:30〜17:00 047-704-3987)12月6日から貸出し開始です。

2011年12月4日日曜日

2011.12.04 わが友に贈る

創価の師弟は
勇気の信心で勝った!
学会歌も高らかに
新たなる勝利へ
威風堂々と出発!

法華行者逢難事 P965
かかる濁世には互につねにいゐあわせてひまもなく後生ねがわせ給い候へ

◇希望の明日へ
社会的にいかに立派に見える人であっても、また自分は著名人である、地位や学歴がある、敦学力があるなどといっても、謗法と戦う心がなければ成仏はない正法を信奉する学会にあって、「破和合僧」の工作をしたり、自分の地位を守るために組織を利用し、広宣流布と学会員の信心を妨げようとする人間に対しては、厳として戒め、厳として祈り、戦っていかねばならない。遠慮したり、怖がったり、恐れたりしては絶対にならない。仮にその人が今までは先輩であったとしても、謗法はどこまでも謗法であると厳しく見抜いていくことである。

☆質問15 勤行しても、なかなか願いが叶いません。

祈り続ければ必ず幸福に!
仏法は道理。信心即生活。現実の努力が花開く

「祈りとして叶わざるなし」の信心です。しかし、祈ってすぐに叶うのは"手品の信仰"だ。「明日、宝くじに当たりたい」「明日のテストで百点を取りたい」と祈って、簡単にそうなるものではない。
仏法は道理であり、信心即生活です。信心即現実だ。現実のうえで、努力もしないで、安易に願いが叶うわけがない。
また、信心の度合いも一人一人違いがあるし、もっている宿命も一人一人違う。しかし、祈っていくことによって、必ず「よい方向へ」「よい方向へ」と、本格的な希望が開けていくことは間違いないのです。

御本尊の功徳には「顕益」と「冥益」がある。
「顕益」というのは、病気とか、人間関係とか、何か問題が起こった時に厳然と守られ、すみやかに解決できる利益です。
「冥益」とは、木がゆっくりと育つように、また海の水が満ちていくように、次第に福運を積み、豊かな大境涯を築いていく。毎日、見ていても変わっていないようで、何年間か長い目で見た場合には、厳然と幸福になっている。成長している。それが「冥益」です。
「顕」とは、はっきり目に見えるということ。「冥」とは、なかなか目には見えないことを意味する。

何かあっても「祈り続ける」ことです。そうすれば、必ず幸福になる。
その時は、自分が思っているような解決をしなくても、もっと深いところ、あとから考えると、「いちばんよかった」という方向になっていたことがわかるものです。これがすばらしい「冥益」です。
たとえば、「きょう腹いっぱい食べて、一生、飢えて暮らす」よりも、「今すぐには腹いっぱい食べられなくても、一生涯、悠々と食べていける」人生のほうが、はるかによい。日蓮大聖人の仏法は、そのようなものです。

やった分だけ自分が得をするのです。もちろん、信仰をしなくても、生きていくことはできるでしょう。しかし、自分ではどうしようもない宿命もある。生命の弱さに振り回される場合もある。そういう自分を変えて、"ああ、私の人生はすばらしかった"と心から言えるようにならなければ損です。

戸田先生は言われた。
「われわれは何のために生まれてきたのか。それは『衆生所遊楽(衆生が遊楽する所)』と法華経にあるように、遊びに来たのである。だから、人生を楽しまなければ、つまらないではないか。御本尊を信じきった時に、生きていること自体が楽しい、何をやっても楽しいという人生になるのである」と。
生きていること自体が楽しい──こういう境涯を「絶対的幸福」と言います。信仰を貫き通せば、必ずそうなっていくのです。
(『青春対話I』から)

2011年12月3日土曜日

2011.12.03 わが友に贈る

「日蓮一度も
しりぞく心なし」
強盛に祈り抜け!
勇猛果敢に語れ!
前進また前進だ!


一生成仏抄 P383
妙法蓮華経と唱へ持つと云うとも若し己心の外に法ありと思はば全く妙法にあらず

◇希望の明日へ
仏法は仏と魔との戦いである。魔と戦い切ってこそ、自身の生命の魔を打ち破り、仏の境界となる。極悪と戦い、勝ってこそ極善の自身となる。これ以外に成仏の道はない。ここにこそ永遠の福徳を得る唯一の道がある。

☆2008年5月25日「名字の言」
人は、悩みに直面すると、その解決法を模索する。しかし、目先の解決ばかりを考えると、後にまた同じような"悩みの壁"にぶつかることがある。では、どうすればいいのか。本当の解決には、"自己変革につなげる悩み方"が重要だ
「悩みとは、自身が授かった宿題のようなもの」「自分が悩みに遭遇したとき、『この問題を通して、私は何に気付くことが大事なのかな』と考え、前向きに臨む」(星槎大学・野口桂子准教授)と
眼前の悩みを通して、自身の課題に目を向けられれば、解決への一歩が踏み出せる。そして、「今、この悩みに直面したことにも意味がある」と感じると、心はさらに前向きに。友人に相談する余裕も生まれ、前進のエネルギーがわいてくる
サン=テグジュペリは言う。「人生には解決法なんかないんだ。あるのは、前に進む力だけだ。解決法は、後からついてくるものさ」(齋藤孝訳)。悩みの壁を破るとは、停滞する自身の"生命の壁"を破ることにほかならない。

2011年12月2日金曜日

2011.12.02 わが友に贈る

冬の寒さが本格化。
外出する際などには
十分な防寒対策を。
体調管理を万全に
健康第一の日々たれ!

富木殿女房尼御前御書 P990
いのちはつるかめのごとくさいはいは月のまさりしをのみつがごとくとこそ法華経にはいのりまいらせ候へ

◇希望の明日へ
仏といっても特別な存在ではない。戦い続ける心が仏、行動し続ける姿が仏である。魔と戦い切る人が仏なのである。釈尊の菩提樹の下での悟り、末法では日蓮大聖人の竜の口での発迹顕本−−別しては、そういう姿があるが、それも人間としての究極の姿である。決して人間でなくなられたわけではない。凡夫即極が仏法の真髄なのである。そして総じては、仏道修行に励み、広宣流布へ真正面から戦っていく−−その人の信心にこそ仏の姿がある。

☆豊島、台東、墨田、目黒区合同総会「真の人間組織こそ宗教の基盤」S62.12.12
◇あたたかな春の慈愛で友をつつめ
最後に話は変わるが、

もういくつねると お正月
お正月には 凧あげて
こまをまわして 遊びましょう
はやく来い来い お正月

これは、楽しい正月を指折り数えて待つ少年の心を、滝廉太郎作曲のメロディーにのせて歌った、懐かしい童謡である。
次元はまったく異なるが、弘安三年(一二八〇年)「師走」の十二月十六日、御年五十九歳の日蓮大聖人が、正月の待ちどおしさをつづられた御抄がある。それは、四条金吾の妻・日眼女に送られたお手紙で、そのなかで大聖人は次のようにふれられている。
歳もかた(傾)ぶき候・又処は山の中・風はげしく庵室はかご(篭)の目の如し、うちしく物は草の葉・きたる物は・かみぎぬ身のひゆる事は石の如し、食物は冰(こおり)の如くに候へば此の御小袖給候て頓(やが)て身をあたたまらんと・をもへども・明年の一日と・かかれて候へば迦葉尊者の●(けい)足山にこもりて慈尊の出世・五十六億七千万歳をまたるるも・かくや・ひさしかるらん』(P1195)
──今年も暮れとなり、押し詰まってきました。ここ身延は山の中なので風が激しく、しかも庵室はすき間だらけなので、まるでカゴの目のように風が吹きぬけていくのです。下に敷いているものは草の葉、着ているものは紙の衣、体は冷えきって石のようです。食べものも氷のように冷たい──。
戸田先生は、この御文を拝されるたびに、厳冬の身延の大聖人の御生活をしのばれて、いつも涙しておられた。
──ですから、あなた(日眼女)からいただいたこの小袖を、すぐにも身につけ体をあたためようと思ったのですが、お手紙には"これは明年の一日(元旦)に着てください"と書いてありました。この小袖を着られる元旦が本当に待ちどおしい。それはたとえば、迦葉尊者(釈尊の十大弟子の一人)が、ケイソクセンという山に入って、弥勒菩薩の出現を五十六億七千万歳もの間ずっと待たれたのも、今の私と同じように待ちどおしかったのではないかと思われるほどです──と。
このお手紙は、日眼女が白小袖一枚と綿を御供養したことに対して、大聖人が御礼を述べられたものである。
小袖とは、もともと肌着(下着)のことであったが、鎌倉時代のころからしだいに表着としても着用されるようになった。いわゆる"きもの(和服)"のルーツとなったものである。
四条金吾夫人の日眼女は、女性らしい心づかいから、大聖人に正月(元朝)の晴れ着として、真新しい、そして純白な小袖を着ていただきたいと思ったのであろう、そのままの気持ちを添え書きしてさし上げた。
いささか皮肉な見方をすれば、添え書きに"ひとこと多かった"のかもしれない。婦人部の皆さま方も、ひとことでなくして、ふたこと、みこと多い場合があるかもしれない。厳寒の中におられる大聖人には、正月といわず、そくざに身につけてあたたまっていただければよかったのである。
しかし、大聖人は、一枚の白小袖に託して、新年をお祝いしようとする日眼女の精いっぱいの真心を、あますところなく、くみとっておられる。あなたの言われるとおり、がまんして大切にとっておきますよ、新しい小袖が着られるお正月が楽しみですよ、と感謝の思いをこめて「心」の琴線にふれる語りかけをされている。
短い御文ではあるが、身延山中の厳寒が痛いほど身に迫ってくる。とともに、いかなる寒風も奪いさることのできない"心のぬくもり"が伝わってくる。
大聖人が門下一人一人との「心」のふれあいを、どれほど大切にしておられたか──数々の大難にも負けなかった大聖人一門の強さの源泉が、ここにもあったことがうかがえるのである。
大聖人の仏法は、厳冬に向かう富士のごとく峻厳である。とともに、春のようなあたたかな"慈愛"と"人間性"に満ちみちた世界である。冷たい権威に支配されたり、難解な論理だけに貫かれた世界でもない。また、要領や策で成長できる世界でもないのである。
どうか、広布のリーダーである幹部の皆さま方は"透徹した信心"と"あたたかき春の心"の光を放ったお一人お一人であっていただきたいと申し上げ、本日のスピーチとしたい。
(昭和62年12月12日 創価文化会館)

2011年12月1日木曜日

2011.12.01 わが友に贈る

さあ勇気の対話で
「今生人界の思出」を
共々に築きゆこう!
総仕上げの12月を
悔いなく勝ち飾れ!


御義口伝巻下 P764
法華の題目は獅子の吼ゆるが如く余経は余獣の音の如くなり

◇希望の明日へ
"生きているうちに仏になる"とは、どういうことか。大聖人は「法華経を、よく持つ人は、仏身を持つ」と仰せである。大事なのは"よく持つ"ことである。すなわち、何があっても御本尊を離さない。まっすぐに広宣流布の世界に生き抜く。戦い続ける。自行と化他の両方に励んでいく。そこに信心の心が固まっていく。その鍛え上げられた信心にこそ、仏界はある。

☆豊島、台東、墨田、目黒区合同総会「真の人間組織こそ宗教の基盤」S62.12.12
◇時代を見通した戸田第二代会長の先見
さて現代では、良きにつけ悪しきにつけ、宗教も、政治的動向、また「組織化」と無縁の存在ではありえなくなっている。それは現代のように、あらゆる面で政治化や組織化が進められている社会では、宗教にとっても、逃れることのできない宿命的なものとなっている。
少々むずかしい話になって申しわけないが、とくに将来の広布のリーダーである青年部の諸君は、政治的にも社会的にもさまざまな次元から広布の組織について思索し、知っておいていただきたいのである。
その意味で、政治学者の丸山真男氏が、著書『増補版現代政治の思想と行動』(未来社)のなかで論じている"宗教の組織化"についての見解を紹介しておきたい。この点について、丸山氏は次のように述べている。
「政治の本質的な契機は人間の人間に対する統制を組織化することである」。これに対して「人格的内面性を最も本来の棲家とするのは、言うまでもなく宗教である」「現代のこうした圧倒的な政治化と集団的組織化傾向に対して、人間の内面性に座を占める学問や芸術や宗教の立場が殆ど反射的に警戒と反撥の身構えを示すのは理解出来ないことではない」と。
そのうえで、丸山氏は「しかしながら同時にわれわれは古典的な近代国家におけるように私的内面的なものと公的外部的なものとを劃然と分離しうる時代には既に生きていない」と指摘している。
そして「従って今日は内面性に依拠する立場自体が、好ましがらざる政治的組織化に対抗して自主性を守り抜くがためには必然にまた自己を政治的に組織化しなければならぬというパラドックスに当面している。その際政治的なものの範型──効果本位とか、対立の単純化(敵・味方の二分法)とかいったような──に、ある程度まではどうしても我が身をはめ込むことを余儀なくされる。もしこの煉獄を恐れて、あらゆる政治的動向から無差別に逃れようとすれば、却って最悪の政治的支配を自らの頭上に招く結果となろう」と語っている。
つまり、宗教といっても、人間の心の次元のみに閉じこもっているわけにはいかない。もし、精神世界のみに安住し、社会に無関心であれば、すべてをみずからの利益のための手段として利用しようとする権力に、たちまちにとりこまれてしまうだろう。ゆえに確固たる内面性をよりどころとしながら、あえて組織をつくり、自主性を守りぬくために戦っていかねばならないのである。
戸田先生が、戦後再建にあたってつくられた学会の組織は、まさに、この趣旨をふまえたものであった。ここに、広宣流布の成就のために、時代と社会を見とおして組織づくりをされた戸田先生の偉大さがあった。

戸田先生は巻頭言「信仰と組織」のなかで、次のように述べられている。私は、この指導を暗記するぐらい読み、胸に刻んできた。
「わが創価学会は、その信仰の中心に、絶対唯一の御本尊を有し、その組織の根源に七百年にわたる歴史を有して、これを現代化し、科学的にし、今日のりっぱな組織ができあがったのである。この力は、世の模範であるとともに、世の驚異である」と。
これだけの学会の急激な発展は、現代の奇跡といってよい。これも戸田先生がつくられた組織があったゆえである。ゆえに、絶対に邪な権力や悪しき心の者に利用されてはならないし、破壊されてもならない。もし、そうなれば、それは広宜流布と、平和、幸榴への"希望"の破壊であり、消滅であるといっておきたい。
さらに戸田先生は「さて、できあがった組織の発展力を、しみじみ見るのに、この組織を運営し、活発化するものは、信心ある人によることはいうまでもない。これを簡明にいうならば、組織は人によって作られ、人によって運営せられ、人によって有終の美を納めるものである」と述べられている。
結局、「組織」は「人」で決まる。「広布の組織」は、「信心のある人」によるのである。
すぐれたパイロットが、多くの乗客を安全に、快適に目的地まで運ぶことができるように、広布の組織は信心の深き人によってこそ、幸福への航路を墜落も爆破もなく、正しく"飛行"ができるのである。
決して優秀な学校を出たとか、組織の運営能力や弁舌がたくみであるからなどと、錯覚してはならない。すべての根本は中心者の信心の厚薄、浅深によることを、リーダーである皆さま方は忘れないでいただきたい。

2011年11月30日水曜日

2011.11.30 わが友に贈る

新入会の友を大切に!
悩みや意見や要望を
じっくりと聴くことだ。
一人に心を砕いてこそ
広布の未来は開かれる。

妙一尼御前御消息 P1252
譬えば一人にして七子有り是の七子の中に一子病に遇えり、父母の心平等ならざるには非ず、然れども病子に於ては心則ち偏に重きが如し

◇希望の明日へ
日蓮大聖人の仏法では"死んで仏になる"のではない。これがもっとも大事な点である。"生きているうちに仏になる"。その"一生成仏"のための信心である。"死後の幸福"を強調する念仏などとは、根本的に違う。"生きているうちに"絶対の幸福境涯を築き、固める。今世で最高にすばらしい人生を満喫する。そのための仏道修行なのである。

☆豊島、台東、墨田、目黒区合同総会「真の人間組織こそ宗教の基盤」S62.12.12
◇納得、対話の「和合」の絆を
また、仏法には「和合僧」という言葉がある。この「和合僧」、また「僧」については、多くの海外の会員や知識階屑の方々から深い関心が寄せられている。いつの日か、詳細に論じさせていただくつもりであるが、本日は「組織」に関連して、少々ふれておきたい。
「和合僧」とは、「和合衆」ともいい、出家して仏道修行に励む比丘および比丘尼の集まりのことをいう。
もともと「僧」は、「僧伽(そうぎゃ=サンガ)」の略で、「衆」「和合衆」等と漢訳され、それ自体、団体を意味している。後世、中国や日本では、仏門に入った個々の人をいうようになったが、本来は、四人以上(三人または五人以上との説もある)の比丘が一緒に集って修行する団体のことをいったのである。
竜樹はその著『大智度論』で、「僧伽」について次のように述べている。
讐えば大樹の叢聚(そうじゅ)するに、これを名づけて林(りん)と為す。一一(いちいち)の樹は名づけても林とは為さず。一一の樹、除いては亦(また)林も無きが如し。かくの如く、一一の比丘、名づけて僧とは為さず。一一の比丘、除いては亦僧もなし。諸の比丘、和合するの故に、僧の名は生ず
すなわち、たとえていえば大きな樹が群生していれば、林と呼んでいる。一本一本の木のみでは林とは呼ばない。ただし、一本一本の木を除いてしまうと、林として成立はしない。同様に、一人一人の比丘は僧とは呼ばない。また、一人一人の比丘を除いても僧は存在しえない。多勢の比丘が集まり、和合しているがゆえに僧の名が生じるのである。
これに関連して日亨上人は「一人を僧といはず四人已上の共行集団を僧といひ和合を僧といふ定義なれば、其共心同行の団体中に自ら異義を唱えて退くも不可なり、況んや他を教唆して同心共行を破するに於いてをや、提婆達多が釈迦牟尼仏に反抗する為に・仏弟子の一部を誘拐して新教団を組織したるは・提婆の破和合僧罪とて・其罪の尤(もっとも)なるものなり、現代に於いては破和合僧又破和合講に通用すべし」(富要一巻)と述べている。
一人を僧といわないで、四人以上の行を共にする集団を僧といい、和合を僧というのが定義であるから、その心を共にして行を同じくする団体の中にあって、自分勝手に異義を唱え、退転することは許されない。ましてや、他の人をそそのかして、同心共行(同し心で行を共にすること)を破ることはあってはならない。提婆達多が釈尊に反抗するために、仏弟子の一部を誘拐して新教団を組織したことは、破和合僧罪のもっとも大なるものである。現代においては、「破和合僧」、また「破和合講」も、その罪にあたるといえよう──と。
広くいえば、仏道修行に励み、妙法広布に進みゆく地涌の友の集いである学会も、「和合僧」の団体である。その団結を乱すことは「破和合僧」に通じるといえる。
この「破和合僧」は、五逆罪、三逆罪の一つにあげられており、その罪はもっとも重く、深い。その因果は厳しく、必ず堕地獄となるのである。

2011年11月29日火曜日

2011.11.29 わが友に贈る

正義の学会は
世界に大発展!
破邪顕正の言論光る
教宣部の検討に喝采!
御本仏が御賞讃だ。

兄弟抄 P1082
設ひ等覚の菩薩なれども元品の無明と申す大悪鬼身に入つて法華経と申す妙覚の功徳を障へ候なり

◇希望の明日へ
現実の人生は、悩みの連続である。婆婆世界とは、そうした苦悩を耐えていく世界という意味である。この悩みの世界にあって、すべての悩みを喜びに変え、いっさいを楽しみ、悠々と生き抜いていく−−それが成仏という常楽我浄の境涯である。

☆豊島、台東、墨田、目黒区合同総会「真の人間組織こそ宗教の基盤」S62.12.12
◇社会は「心」のネットワークを志向
さて、近年における社会の変貌の一側面として、従来のいわゆる「大衆社会」の崩壊が指摘されている。つまり、均質的・画一的な「大衆」が姿を消して、より個性的で多様な志向性をもつ個別の集団が生まれてきた。
こうした現象をいちはやく「分割された大衆」、すなわち「分衆」ととらえて話題を呼んだのが『「分衆」の誕生』(博報堂生活総合研究所編、日本経済新聞社)である。同じような意味で、大衆ならぬ「少衆」、さらには「微衆」「超微衆」「孤衆」なる言葉まで生みだされている。これらは、主として商品市場への企業戦略の立場から考案された用語であり、主に商品のニーズ(需要)に基準をおいた分析であるゆえに、社会の全体を総合的にとらえたものではないことも事実である。
それはともかく、人々の「心」の動向を知ることは、組織というものを考えるうえでも大切な点であろう。
ちなみにこの本では、「分衆」の背景として、戦後社会の人々の志向が、復興期の「量的満足の志向」から、高度成長期の質的満足の志向」へ、そして現在の「感性満足の志向」へと変化してきたとみている。
これを「人並み」志向から「自分並み」志向への変化として、他の人と共通の価値観に従うよりも、自分の感性、あるいは、わが家の感性にあった暮らし方をしたいと願う人々が増加しているというわけである。
このように、大衆社会が「バラバラになった生き方、暮らし方を志向し始めている」一方で、組織への「帰属意識の希薄化」が進んでおり、組織に所属はしていても、構成員としての自覚は、きわめて薄いのである。積極的に何かをしようということも少なく、とくに青年屑にその特徴が強く見られる。したがって、号令や、人々の帰属意識に訴えるかたちで、多数の人を動員することは、多くの組織において困難になってきている。これは先進諸国を中心とした世界的傾向であり、そうした組織のあり方の変化は、象徴的に、ピラミッド型の「ヒエラルキー(上下の秩序)」から、横のつながりを中心とする「ネットワーク」への変動にあらわれているとも指摘している。
それではどうするか。これが問題であるが、ともすると、自由な創造性を抑圧しがちであった上意下達のピラミッド型の組織にかわって、おたがいの打ち合いのなかで、各人が創造性を発揮していけるような小集団が、職場や地域で重視されるのも、その一つのあらわれである。大学では、気軽な同好会が人気の主流となってきているという。また、他のさまざまな人材のグループと幅広く交流し、人格を磨いていこうとする動きもある。
「ネットワーク」をはじめ、「創造性」「小グループ」「交流」と続くと、なんだか聞きなれた言葉ばかりである。まさに私どもがかねてより主張し、実践してきた組織の方向性が、どれほど時代を先取りしているかの一例といえよう。いいかえれば、いよいよ私どもの時代であり、たくわえた力を大きく社会に輝かせていく時代に入ったと申し上げておきたい。
そのうえで私は、もっとも大切な一つは「対話」であると強調しておきたい。もはや命令や"ねばならぬ"式の訴えで、人が動く時代ではない。
心から納得しなければ、だれも行動しない時代である。また逆に、自分が納得すれば、思いもよらぬすばらしい力を発揮する可能性も大きい。ゆえに、充実した「協議会」が、いよいよ大切であり、一対一の「対話」が限りなく重要となる。
かつての大組織の多くが停滞と行き詰まりに苦しむなかで、学会が青年をはじめ多くの人々をひきつけ、発展している要因の一つがここにある。また、この実践は未来も変わらず重要な原則である。
「分衆」「少衆」といった分析は、当然、恒久的なものではない。今後も、刻々と変化していくにちがいないし、現に、現代社会はむしろ管理化が進行し、価値観そのものも物質中心のものに、ますます両一化してきているとする論者もいる。
これもまた別の観点から、社会の一面をとらえているといえよう。そうした強まる管理社会の圧迫のなかから、「分衆」等が誕生してきた一背景をみることもできるかもしれない。
見のがしてならないことは、社会を分散化・個性化とみるにせよ、管理化・画一化とみるにせよ、どちらの観点からも求められているのは、個性豊かな「人間中心の社会」であり、創造性を存分に発揮できる「人問中心の組織」にあるという一点である。

かつてトインビー博士と対談した折も、現代における「組織」のあり方が話題になった。
私は、組織の時代といわれる現代にあって、問題の核心は"組織が主であって、人間は従である"という観念にあると主張した。そして「常に組織は個人から出発し、個人に帰着する、そして個人を守るという原点に立ちもどることだ」「(組織は)高度な有機的生命体と見るべきである」、「個人は組織の部分でありながら、組織全体よりも尊い。個は全体のなかにあり、全体は個のなかにおさまる」と述べたものである。
そのときトインビー博士が、「イエス、イエス」と大きくうなずいておられた姿が忘れられない。とりわけ、組織の変革というより、人間の心の内面からの精神革命による以外に、現代社会の病根、社会的病弊は治せない、と語っておられたことが心に残っている。
ともあれ、この対談もまた、未来のために、未来を見すえてのものであったが、そこで論じた「一人を徹底して大切にする人間組織」の方向性を求めて、時代は刻々と動いていると確信する。また、そうした方向へとリードしていくことが、私どもの使命である。その先駆の存在こそ学会の広布の組織であり、なかでも、とりわけ模範となる組織を、わが地域に見事に築ききっていただきたい。

2011年11月28日月曜日

2011.11.28 わが友に贈る

スピードが勝負だ。
連絡・報告には
直ちに対応を!
迅速な行動こそ
信頼と勝利の力なり!


内房女房御返事 P1423
過去の慈父尊霊は存生に南無妙法蓮華経と唱へしかば即身成仏の人なり

◇今週のことば
「百千万億倍・
御用心あるべし」
絶対に無事故であれ!
健康第一の前進で
大勝利の総仕上げを!

2011年11月28日

◇希望の明日へ
大聖人の御本尊は「観心の本尊」である。「観心(心を観ずる)」とは、端的にいえば、"わが心を、ありのままに観ること""自己を知ること"であり、その目的は"自分自身が仏である"と自覚することである。"自分自身が仏である"と自覚するための御本尊であり、信心である。

☆豊島、台東、墨田、目黒区合同総会「真の人間組織こそ宗教の基盤」S62.12.12
◇たがいに尊敬し仲良く前進
戸田先生はつねづね「創価学会の組織は戸田のいのちよりも大事だ」とまで言われていた。学会は善知識の集いである。信行を増進し、広布を伸展させる団体である。世界の民衆を正法に導き、成仏への道を歩ませる重要な使命がある。
本年四月、総本山の御霊宝虫払大法会の折、日顕法主は「信心の血脈」について述べている。
そのさい、「信解抜群にして宗祖二祖の信心の血脈を疑わず、勇猛精進するところ」に広くその信心の血脈を伝えつつ、衆生を利益することができるとし、「その一大実証は、近年、正法の日本ないし世界広布の礎を開かれた、創価学会における初代、二代、三代等の会長の方々における信心の血脈の伝承であります」と話している。これは皆さまがご承知のとおりである。
日蓮大聖人から日興上人へと相伝された「生死一大事の血脈」は、総じて信心の一念によって学会には厳として流れ、脈打っていると断言している。

私どもはたがいに善知識である。また、そうあらねばならない。そのために、重要なことの一つには、相手を大きく包容していく広々とした心である。
「陰徳陽報御書」には、『又此の法門の一行いかなる本意なき事ありとも・みずきかず・いわずして・むつばせ給へ、大人には・いのりなしまいらせ候べし』(P1178)との一節がある。
この御書が全体のごく一部しか残っていないので、断定はできないが、"この法門の人々とは、たとえどんな不本意なことがあっても、見ず、聞かず、言わずして、仲良くしていきなさい。おだやかにして、祈っていきなさい"と拝せられる。
当然、根本である信心の大綱は、きちんと指導していかなければならない。そのうえで、私的なことについては、いちいちこまかく指摘したり、非難しあったりすることは賢明ではない。人それぞれに個性があり、生き方がある。生活環境も違う。たがいに尊重しあい、仲良くしていくことこそが大事である。
たがいに、凡夫の集いである。当然、不本意で、気にいらないこともあるにちがいない。疲れて休んでいるときに、夜中に電話で起こされる。せっかく部屋の片づけも終わり、ゆっくりしようかと思ったとたん、突然、ドカドカと押しかけてきて、ぜひうかがいたいことがあると、相談にくる。そのほか、決して常識豊かな人ばかりとはいえないのも、一つの現実である。
これは少々、飛躍するが、御書には『日蓮は此の法門を申し候へば他人にはにず多くの人に見(まみえ)て候へども・いとをしと申す人は千人に一人もありがたし』(P1418)とある。
"この法門を弘めるゆえに、他の人とはくらべられないほど多くの人々に会った"──広宣流布のために、多くの人々に会ったと述べられている。私もじつに大勢の方々にお会いした。皆さまもまた、広布の活動ゆえに多くの人々と会われている。"しかしそのなかで、真にいとおしいと思った人は、千人に一人もなかった"──大聖人が、一切衆生への大慈大悲に立たれていることはいうまでもない。そのうえで、人柄のよい本当に立派な人というのは、なかなかいるものではない、との言と拝せよう。
この御述懐も、私どもの立場からも、まことにそのとおりであると納得できる。皆、未完成の人間である。当然、一人一人がそれぞれ自分を立派に完成させていかなければならないが、その途上にあっては、さまざまな欠点もある。また人間同士、ある程度、好き嫌いがあることも、いたしかたない面もあろう。
かといって、自分の気にそまぬことをいちいち指摘しあったり、たがいのあら探しばかりしていたのでは、裁判所ではあるまいし、とてもやりきれない。まして、そうした低次元のいさかいから、感情的なもつれができ、もっとも大切な信心まで破るにいたっては、本末転倒である。
ゆえに、たとえ不本意なことがあっても、広々とした心で、忍耐強く、大きく包容し、より強盛な信心に立てるよう激励していくことである。また大きな立場から、成長を祈ってあげることである。そうしていけば、本人の信心の深化とともに、しだいに人間的にも成長をめざしていくにちがいない。
人類五十億。私どもは、その先覚者である。妙法を弘め、すべての人々の善知識となって救済していかねばならない。その意味において、現在の学会員は一人一人が、限りなく尊き使命の人である。ゆえにたがいに尊敬しあい、励ましあって、仲の良い前進をお願いしたい。

組織は硬直した死せる機械ではない。生きた有機体であり、一つの生命体である。ゆえに時代とともに、時代を呼吸しながら、成長し、進歩し、発展していくのが正しいあり方である。
そのカギは組織を構成する、一人一人の成長にある。なかんずく、指導者自身の時代を先取りした先見と、みずからのカラを破りつづける成長いかんが、組織の消長を決定する。
ゆえにリーダーは、決して時代に鈍感であってはならない。現状に満足し停滞してはならない。あらゆる勉強をし、人とも会い、鋭敏に社会の変化、人々の心の要求を感じとっていく努力が必要である。とくに青年部の諸君には、このことを強く申し上げておきたい。
学会のこれまでの発展も、その陰には、つねに時代の変化に先がけて、先手、先手を打ちつづけてきた戦いがあった。
現在も私は、日々、青年をはじめとする多様な人々と語り、手紙に託された多くの声に耳を傾け、社会のあらゆる情報にアンテナを張りめぐらしながら、いかに誤りなき広布のカジを取るか、ひとり心を砕いている。そこに指導者としての厳しい使命と責任があるからだ。

2011年11月27日日曜日

2011.11.27 わが友に贈る

新しい扉を開くのは
いつも青年!
若き命よ燃え上がれ!
今から、ここから
不屈の師弟の勝利舞を。

立正安国論 P24
如かず彼の万祈を修せんよりは此の一凶を禁ぜんには

◇希望の明日へ
人間としてもっとも尊貴な人生とは、何か−−。大聖人は、仏に成ることこそが、永遠の幸福であり最高の人生と仰せである。"妙法の当体"たる自分自身を輝かせていく生活である。華やかではなくとも、まじめに信心に励んだ人、真剣に広宣流布に励んだ人、不滅の大法とともに生き抜いた人こそが、真の勝利者であり勝利王なのである。

☆豊島、台東、墨田、目黒区合同総会「真の人間組織こそ宗教の基盤」S62.12.12
日蓮大聖人の御在世当時には、信心の大きな組織はなかったと思われる。信徒の数も限られており、本格的な意味での「組織」は必要なかったのであろう。
しかし、大聖人は、今日の組織のあり方、意義等を照らしだすような御文を、随所で述べられている。
たとえば「寺泊御書」には、『心ざしあらん諸人は一処にあつまりて御聴聞あるべし』(P951)との有名な一節がある。──妙法を信じ、広宣流布への"志"をいだいて進む人たちは、一処に集まって、法義を聴聞しなさい──と。
広布への尊い"志"も、なかなか一人で堅持していくことはむずかしい。そこで、皆で集まって、仏法を研鎖し、励ましあうことが大切となる。きょうもこうして、妙法流布をめざす使命の人々が"一処"に集い、たがいに信心の決意を固めあっている。大聖人がお示しのとおりの正しい姿であると確信してやまない。

学会の組織は、どこまでも広宣流布の推進のためにある。また一人一人の信心の"成長"と"成仏"への軌道をささえ、守りあっていくためにある。その意味で、広布の組織とは数限りない「善知識」の集いであるといってよい。
大聖人は「三三蔵祈雨事」P1468)で、冒頭から「善知識」の必要性を強調しておられる。
夫(そ)れ木をうえ候には大風吹き候へどもつよきすけ(扶)をかひ(介)ぬれば・たうれず、本(もと)より生(お)いて候木なれども根の弱きは・たうれぬ』──木を植えた場合、たとえ大風が吹いたとしても、強い支柱で介添えすれば倒れない。反対に、もともと生えている木であっても、根が弱いものは倒れてしまう──。
甲斐無き者なれども・たすくる者強ければたうれず、すこし健(けなげ)の者も独(ひとり)なれば悪しきみちには・たうれぬ』──人間においても同じである。力弱くふがいない者であっても、助ける者が強ければ倒れない。逆に、少々壮健な者でも独りであれば、悪い道では倒れてしまう──。
これらは道理である。だれ人も異論はないにちがいない。仏法の教えはつねに、こうした万人が納得せざるをえない"道理"の延長線上に説かれている。このことをあらためて確認しておきたい。
すなわち成仏の道においても、たとえ最初は信心弱き者であっても、強いささえを得れば倒れない。反対に、なまじっか自分は信心が強いと思っていても、三障四魔の吹き荒れる悪路を一人で歩みとおすことは容易ではない。そのために、どうしても同志が必要である。善知識が必要であり、信心の組織が必要となる。
もちろん成仏は一人一人の修行であり、努力による。他のだれをも頼らず一人立って歩みきる覚悟が必要である。組織や同志は、その個人の修行を励まし、啓発しあうという意義をもつ。あくまでも個人の成仏の完成を助ける補助の役割である。そしてまさに、この補助の役割であるがゆえに重要なのである。
さらに『されば仏になるみちは善知識にはすぎず、わが智慧なににかせん、ただあつ(温)きつめ(寒)たきばかりの智慧だにも候ならば善知識たいせち(大切)なり』──ゆえに仏になる道は善知識にまさるものはない。わが智慧が何の役に立とうか。ただ暑さと寒さを知るだけの智慧だけでもあるならば、善知識を求めて近づくことが大切である──と。
仏の道は甚深であり、その智慧ははかりがたい。それにくらべれば、どんなに賢く見えても凡夫の智慧など、わずかなものである。ゆえに成仏する道は正しき善知識につく以外にない。そうすれば、善知識の力で、誤りなき成仏への軌道を進んでいけるのである。
大聖人が『わが智慧なににかせん』と仰せのごとく、いかなる大学者であっても、仏法のことは仏法者に学ぶ以外にない。どんな大科学者、大医学者も、自分の生命、人生を解決できる智慧があるわけではない。また、大政治家、大富豪であるといっても、絶対的な幸福への法則を知っているわけではない。
にもかかわらず、皆、わずかばかりの「わが智慧」をたのみ、謙虚な求道の心を見失う。ここに不幸の因がある。
知識イコール幸福ではなく、富イコール幸福でもない。また地位や名声イコール幸福でもない。わかりきっているようにみえて、この厳粛な事実に深く鋭く目をこらす人は少ない。しかし、この一点にこそ、だれもが人間の報復の精髄を明かした仏法を、真摯に求めていかねばならない電要なゆえんがある。
そして仏法を求めるとは、具体的にはすぐれた善知識を求めることとも言えよう。大聖人が『仏になるみちは善知識にはすぎず』と断じておられるとおりである。

「善知識」とは、本来、人を仏道に導き入れる"善因縁の知識"をいう。知識とは知人、友人の意味である。仏、菩薩、二乗、人天を問わず、人を善に導き、仏道修行を行わせる、正直にして偽りなき"有徳"の者が善知識である。当然、人界の私どももまた、立派な善知識の働きとなる。
善知識の働きには、修行者を守って安穏に修行させ(外護)、またたがいに切磋琢磨しあい(同行)、さらに仏法の正義を教えて善行へ向かわせること(教授)などがある。
すなわち「勤行をしましよう」「会合に行きましょう」「御書を拝読しましょう」等々、広宣流布のほうへ、御本尊のほうへ、妙法と成仏のほうへと"指し導く"指導者の皆さま方こそ、尊き「有徳」の善知識なのである。
その反対が「悪知識」である。本日はそのくわしい意義は略させていただくが、一つだけ申し上げれば、たとえ信心している幹部であっても悪知識となる場合がある。
つまり、指導者が仏子を見くだしていばったり、ふざけ半分であったり、責任感がなく、いいかげんであったり、成長が止まっていたりしたら、そのもとにある人々の信心の成長をもじゃましてしまう。純粋な後輩が伸び伸びと活躍し成長することもできない。それでは、あまりに無慈悲であり、かわいそうである。
こういう指導者の本質として、たとえ言葉はたくみであり、表面を飾ろうとも、心は保身と驕慢である。その魂胆は、人々に自分を尊敬させ、人々の心を自分へと向かわせるところにある。
すなわち善知識が、友を「妙法」の方向へ向かわせるのとは対照的に、黒く卑しき心の悪知識は「自分」へと向かわしめるだけなのである。「法」が中心ではなく、自分のずるがしこい「エゴ」が中心となる。この一点を鋭く見きわめていかねばならない。悪知識に紛動されれば、悪道へとおもむかざるをえないからだ。
また、こうした"虚飾の仮面"をかぶった信心なきリーダーは、時とともに、いつか広布の大道から逸脱し、姿を消していくものだ。これが大聖人御在世の時代以来、変わらざる方軌であり、私の四十年間の経験的事実でもある。

2011年11月26日土曜日

2011.11.26 わが友に贈る

多忙の時だからこそ
まず心を落ち着かせ
戸締り、火の元を点検。
交通事故に注意せよ。
油断を排し魔を破れ!

阿仏房御書 P1305
末法に入つて法華経を持つ男女のすがたより外には宝塔なきなり、若し然れば貴賎上下をえらばず南無妙法蓮華経ととなうるものは我が身宝塔にして我が身又多宝如来なり、妙法蓮華経より外に宝塔なきなり、法華経の題目宝塔なり宝塔又南無妙法蓮華経なり

◇希望の明日へ
師子王の子は師子王となる。法王の御子は法王となる。学会員は御本仏の仏子である。仏となることは約束されでいる。それは三世水遠にわたって、無量の福徳に包まれゆく王者である。ゆえに学会員は、真っすぐに大聖人との"父子の誓い""師弟の道"に生き抜けばよいのである。

☆豊島、台東、墨田、目黒区合同総会「真の人間組織こそ宗教の基盤」S62.12.12
さて、本日は、若き諸君が二十一世紀の立派な指導者と育ちゆくために、広布の「組織」について、種々論じておきたい。
皆さま方は、私のスピーチというと、すぐナポレオンやソクラテスといった話を期待するかもしれない。しかし、将来のためには、たとえ地味であっても、信心の確実な軌道について、きちんと話しておくことも不可欠である。話は少々むずかしくなるかもしれない。眠い方は眠っていただいてもけっこうである。が、私は、後世のために、言うべきことを、きちんと話し、残しておきたいと思う。
まず、「組織」の字義について、確認しておきたい。(以下、主に『大漢和辞典』『広辞苑』等を参照)
「組織」の「組」の字は、もともとは、糸をよりあわせて作った綬(くみひも)を意味したようだ。その原義から、ひもをくむ、組みあわせる「組み立て、組織する」「仲間を作る」こと、また「ひとそろい」「仲間」等々の意味が派生していく。「組」の字の”つくり”にあたる「且」は、「かつ、その上、さらに」の意をもつように、「積み重ねる」という意味をもつともいわれる。また「組」の古い形には、「手」の字が添えられており、こうしたことから「組」の字には”手作りの作業を積み重ねて、なにごとかを作りあげていく”との意味あいもあるように感じられる。一方、「織」は「はたおり」のことであり、ひいては「組みあわせ、組み立てる」ことを意味している。
こうした元来の字義から「組織」とは、「糸を組み、機を織ること」の意味をもつが、現在ではそれに加え、「順を追ってしだいに立派に作りあげること」「秩序をつけて組み立て、作ること」「団体または社会を構成する各要素が、統合して有機的な働きを有する統一体となること。また、その構成の仕方など」の意味がある。
今述べたなかで「有機的」とは、「多くの部分が強く結びついて全体を形作り、おたがいが密接に関連しあって働くようす」をさす。たとえば、動植物など生命体の働きは、まさしく「有機的」である。「組織」は、英語では「オーガニゼーション」というが、その動詞「オーガナイズ」も元来は「有機的構造を与える」「生命体化する」の意味である。そこから「組織化する」「系統だてる」「整然とまとめる」「気持ちを整える」などの意が生まれた。
さらに、「組織」について、現代的な意味あいも含めて、次のように解説しているものもある。
「企業体、学校、労働組合などのように、二人以上の人々が共通の目標達成をめざしながら分化した役割を担い、統一的な意志のもとに継続している協働行為の体系と定義することができる。すなわち、分化した機能をもつ複数の要素が、一定の原理や秩序のもとに一つの有意義な全体となっているものの意であるから、広義には、動物や植物の場合にもひとつひとつの細胞が集まって成り立つ場合、綱胞組織とか人体組織というように用いられる。組織は個人なしには存在しえず、単なる個人の総和以上のものである」(『世界大百科事典16』平凡社)と。
未来の広布の細織を抑う青年たちに、何らかの示唆ともなれば、と思い、「組織」について、いくつかの角度から紹介させていただいた。どうかご了解願いたい。

2011年11月25日金曜日

2011.11.25 わが友に贈る

「一の師子王吼れば
百子力を得て」
青年の師子吼こそ
時代を創る活力だ。
堂々と正義を叫べ!

経王殿御返事 P1124
法華経の剣は信心のけなげなる人こそ用る事なれ鬼にかなぼうたるべし

◇希望の明日へ
大聖人の仰せ通り、御本尊を信じ、唱題し、身命を惜しまず折伏・弘教に励む−−その学会員は必ず仏となる。その大確信で進んでいただきたい。そして、悠々と、御本仏の弟子としての偉大な力を発揮していただきたい。

☆豊島、台東、墨田、目黒区合同総会「真の人間組織こそ宗教の基盤」S62.12.12
◇生死の姿に信仰の証
寒いところ、また遠いところ、このようにご参集いただき、まず心から「ご苦労さま」と申し上げる。きょうは、戸田先生ともゆかりの深い豊島が中心となっての合同総会である。謹んでお祝い申し上げたい。
現在、豊島は、確実な「信心即生活」の前進がなされている。まことに慶賀にたえない。
私のもとには、毎日、数多くの手紙が寄せられる。内容はさまざまであるが、総じてそれらは、率直な会員の"声"であり、一通たりとも決してムダにしてはいけないと思っている。民衆の"眼"は鋭い。幹部の言動を、じつにこまかく観察し、とらえている。
きょうは、台東、墨田、目黒の代表、そしてドクター部のメンバーも集っておられる。いずれのりーダーもまた、すばらしい方々であると確信する。(拍手)

人間の「生」と「死」は、一つのドラマである。
過日、草創以来の功労者で、静岡の圏副指導長の片平繁一さんが亡くなった。片平さんは、昭和二十九年(一九五四年)に入会。三十一年には清水で初の男子部・隊長に就くなど、地域広布の発展に見事な足跡を残された。私にとっても忘れられない同志の一人である。
草創期に青年部員として、ともに活躍された大勢の方々を、私は今もって覚えている。かりに名前は思い出せなくとも、会えばそくざに"一緒に戦ったあの人だ"と、脳裏によみがえってくる。片平さんの訃報に接したときも、"あっ、あのまじめな方が……"と、瞬間的に思い起こした。子息は、たしか市議会議員をされていたと思う。
片平さんは、昭和五十七年、肝硬変で倒れた。手術で牌臓も摘出し、医師からは「あと一年もてば、幸運です」と言われたという。その後、九回もの入退院を繰り返すが、とうてい、それから五年も生きるとは想像できなかったようだ。
そうしたなか、片平さんは退院すると、必ず座談会などの会合に出席し、個人指導にも足しげく通った。入院中は「元気になりたい。座談会に出たい。退院して個人指導にあたりたい。眠っている人を奮い起こしたい」というのが口ぐせだったという。
"眠っている人"とは、たんに睡眠をとっている人ではない。信心が休みになっている人のことである。
つねづね申し上げていることだが、人は年とともに老い、徐々に病を患うようにもなる。若いうちに、また健康なうちに、思う存分、広布のために働き、永遠の福徳を築けることほど幸せはない。青春を無為に過ごし、あとで悔やみ、苦しむのは、自分自身である。
尊い一生である。未来に悔いを残し、後悔するような人生であっては、決してならないと申し上げておきたい。

片平さんの死去は、去る五日のことであった。その前日、長男の博文さんを枕もとに呼び、「これだけは、言い残しておきたい」と、次のように遺言した。
「(池田)先生に伝言をたのむ。こんど生まれてくるときは、各国語をマスターして、広宣流布に役立つ人間として生まれてきます。先生、三十三年間、ありがとうございました」
──そう語ると、眠るように目を閉じ、深夜、夫人に見守られ、従容と息をひきとったという。享年六十四歳であった。
まことに立派な人生のドラマである。いかなる高位高官、また著名人であれ、このような安らかな臨終を迎えられるかどうか──ここに、人生の最重要の課題が残されている。
この「生死」の問題に光をあて、解明しきった大法が妙法である。片平さんの安祥たる死の姿こそ、真実の信仰をたもった証とはいえまいか。
私は訃報を聞き、衷心から追善の唱題をするとともに、和歌を詠み、贈らせていただいた。また、先ほどスピーチに先立ち、唱題したのも、あらためて学会本部で追善したいとの思いからであった。

2011年11月24日木曜日

2011.11.24 わが友に贈る

副役職の友こそ
広布発展の原動力!
学会は全員が主役だ。
皆で讃え励まし合い
異体同心の大前進を!

一生成仏抄 P384
衆生の心けがるれば土もけがれ心清ければ土も清しとて浄土と云ひ穢土と云うも土に二の隔なし只我等が心の善悪によると見えたり

◇希望の明日へ
成仏は、どこまでも自身の正しき信心、正しき仏道修行によって決まるのである。もちろん、追善供養の意義からいえば、自らが強盛に信心に励むことによって、亡くなった方をも仏界に導くことができる。しかし、あくまで信心が根本である。まして"僧侶に拝んでもらわなければ成仏できない"などという教えは、御書にも六巻抄にもいっさいない。大聖人、日興上人等の教えに反した葬式仏教の邪義である。

▽「新聞長」の奮闘に感謝!勇気と信念の論陣を社会へ。皆様こそ真の言論人
▽苦しい事があっても明朗たれ−恩師。我らは地涌の菩薩。破れぬ壁はない
▽悪いものは読めないよ。頭が腐るから−武者小路、青年よ古今の名著に挑め

2011年11月23日水曜日

2011.11.23 わが友に贈る

多宝会・宝寿会
錦宝会の友ありて
学会は大発展!
広布の大功労に感謝。
健康・長寿を祈る!


法華経題目抄 P947
妙とは蘇生の義なり蘇生と申すはよみがへる義なり

◇希望の明日へ
末法において、民衆を救い、世界に正法を弘め、広宣流布していく−−その仏とは日蓮大聖人であり、大聖人直結の民衆自身である。"民衆こそ仏"なのである。大聖人の仏法を口にしながら、その本義と正反対の民衆抑圧を繰り返す人間には、大聖人の仏法の根本がわからない。根本が狂っている。それに対し、大聖人の仰せ通りに進む学会員は、必ずや金剛不滅の仏身であり、広布への行動は、そのまま尊貴なる仏の振る舞いである。

☆戸田城聖 質問会
質問:入信して以来、平和な家庭生活ができますように、また折伏ができますようにと、毎日五千べんの題目をあげてきたのですが、最近、会社の上役を折伏したのがもとで圧迫され、生活に困るのですが、その理由についておうかがいします。

それは、あなたの折伏の目的が間違っているのです。折伏というものは、自分が幸福になりたいからやるというのではなく、御本尊様の功徳に歓喜し、相手の境遇に同情して、慈悲の心をもって折伏するのが、ほんとうの折伏する者の態度です。
利己的な動機で折伏しても、結果はでません。折伏はうれしさのあまり行ずるところに、しぜんと功徳があふれてくるのです。

2011年11月22日火曜日

2011.11.22 わが友に贈る

社会の荒波と戦う
壮年部の労苦に感謝!
青年学会建設へ
皆に安心を与える
頼もしき黄金柱たれ!

上野殿御返事 P1561
願くは我が弟子等大願ををこせ

◇希望の明日へ
何によって仏になれるか。「妙法蓮華経の五字」によってである。妙法を強く信じ、唱える信心によってである。僧侶のおかげでもなければ、形式によってでもない。成仏とは、自分自身が獲得する境涯であり、"自分の宝"にはかならない。絶対に、他から"与えられるもの"ではない。

☆折々の指導No.16 会館は民衆の幸福の城〈会館の防災についての報告に対して〉
しっかり頼む。無事故・安全を勝ち取るうえで、労を惜しんではいけないよ。
学会の会館は、民衆の『幸福の城』だ。
平和と文化を広げる『外交の城』だ。
勝利へ打って出る『攻めの城』である。
歴史をつくる戦いは全部、城が中心だ。
会館を守り、運営に携わる創価班、牙城会、白蓮グループの皆さん。壮年部の王城会、婦人部の香城会、会館守る会の皆さんなど、広布を支えてくださる全ての方々に、心からの感謝を捧げたい。
自宅を広布の会場として提供してくださっている皆様方にも、深く御礼申し上げたい。
この方々こそ、学会の宝だ。生々世々、わが生命に幸福の大宮殿を開きゆくことは、御書に照らして絶対に間違いありません。 私は、毎日、一生懸命、全同志の健康と無事故を、そして大福運に包まれるよう、朝晩、ご祈念しています。これが私の使命であり、根本的精神です」

2011年11月21日月曜日

2011.11.21 わが友に贈る

朝の深き祈りから
勝利の一日を出発!
一行でも御書を拝し
希望に燃えて進もう!
創価とは価値創造の道。

崇峻天皇御書 P1173
人身は受けがたし爪の上の土人身は持ちがたし草の上の露

◇今週のことば
時代を変える
創価青年大会、万歳!
新たな拡大の潮流だ。
若き地涌の熱と力で
地域のルネサンスを!

2011年11月21日

◇希望の明日へ
成仏は、あくまでも自身の正しき信心、正しき仏道修行によって決まる。葬儀等によって決まるのではない。

☆質問14 困っている友人に、声をかけられませんでした。

勇気という「エンジン」で前へ前へ!
まず一歩を踏み出せ! 行動すれば必ず開ける

心の中に、すばらしい考えや、計画、思いやりをもっていたとしても、それを「実行」する勇気がなければ、現実には、何も実を結ばない。結局、心に何もなかったことと同じになってしまう。
だから、「勇気」は人間にとっての「原動力」であり「エンジン」なのです。
勇気がある人は力強く、前へ前へ進んでいける。自分が描いていた「山」を登り、「谷」を下り、自分のめさす理想へ、希望へと向かっていける。まさに「勇気」の二字が「力」となっていく。勇気をもっていない人は、堕落、敗北、横道にそれてしまう。苦しいことから逃げて、楽をしようとする。
だから勇気のない人は、人のために尽くせない。自分を向上させられない。立派な仕事をなしとげられない。ちょうど、「壊れたエンジン」をもっているようなものです。

詩人であったドイツのシラー
一人立てる時に強き者は、真正の勇者なり」と。
青春時代から、私が大事にしてきた言葉です。
反対に、付和雷同は「悪」です。みんながこうしようと言うから、何となく、ついていく。みんながこれでいいんだという堕落の方向に行ってしまう。これがこわい。これが日本人の最大の欠点の一つでもある。

題目は「勇気」の原動力です。勇気のエンジンに「火」をつけるのが題目です。その題目をあげるのも、また勇気なのです。
ともあれ、勇気は、人間が正しく生きぬき、正道を歩む「力」です。
たとえば、人類・国家のために、「どうすればいちばん平和になるか」を考え、行動する。そういう信念の勇気もある。
社会のため、多くの人の人生のために、「どうすれば皆が幸せになれるか」を考え、行動する。そういう人間愛の勇気もある。
また、いちばん身近な生活のなかで、「子どもたちのために」という母親とか学校の先生の思い。「友人のために」という友情。そういう地道な日常での勇気もある。
「大きな勇気」も、「小さな勇気」も、勇気には変わりがない。「人のため」という崇高な心に変わりはない。

信念のためには、いかなる迫害にも屈しない。それを「勇気」と言う。
正しい信仰をもち、その信念のために行動する人が勇者なのです。自身の胸中に、大宇宙の根本のリズムを保っている「勇者のなかの勇者」です。
その「一人」がいれば、「太陽」が昇るのです。
自分の生活に。
自分の家庭に。
自分のクラスに。
自分の社会に、国に、世界に。
だから諸君は、自分のなすべき課題に向かって、「まず一歩を踏み出せ!」と私は言いたいのです。
(『青春対話1』から)

2011年11月20日日曜日

2011.11.20 わが友に贈る

躍動の青年大会。
新しい人材が
立ち上がる時だ!
わが使命の舞台で
勝利の旗を振れ!

開目抄下 P232
善に付け悪につけ法華経をすつるは地獄の業なるべし

◇希望の明日へ
学会員は成仏という"絶対の幸福への軌道"を進んでいる。この軌道を狂わせ、軌道から脱落させようとするのが悪知識、悪友である。言葉たくみに近づき、美しき仏子の世界を壊そうとする。こうした悪人は、断固として寄せつけてはならないのである。善知識、善友となる学会の前進に、いよいよ"親しみ近づいていく"−−そこに、「幸福への軌道」は、より盤石になり、加速度もついてくることを確信していただきたい。

☆折々の指導No.015 誠実で光るリーダーたれ(各部の代表に)
「すべて、何をやるにしても、大事なことは、折伏精神だよ。
その点をはずしたら、人は育たない」

「学会は、真面目で、真剣で、皆の幸せを願う世界だ。皆のことを心配し、皆のために苦労・努力する。それが創価学会だ」
「幹部になればなるほど、誠実にいきなさい。
口だけ上手、それではいけない。真実の行動、懸命な行動がなければいけないよ。
そして、ひとたび広宣流布の戦いに挑んだならば、『仏法は勝負』だ。
同志の皆さんのことを思えば、負けるわけにはいかないじやないか。
断じて勝つために、どうすればいいのか──皆で題目をあげ、団結をして、智慧を出すのだ。
今こそ、広宣流布の基盤を盤石にしていくことだ」
「戸田先生にお応えしようと、私も広布の道を開くために、苦労したよ。真剣だった。
真剣な人には、誰もかなわない。誠実な人には、必ず結果が出る。
その人によって学会は支えられてきたし、学会はまた、築かれていくんだよ」

2011年11月19日土曜日

2011.11.19 わが友に贈る

貴女の朗らかな声が
皆に希望を広げる!
創価の女性に最敬礼!
婦人部・女子部ありて
民衆の幸の城は磐石!

富木殿御返事 P962
但生涯本より思い切て候今に飜返ること無く其の上又遺恨無し諸の悪人は又善知識なり

◇希望の明日へ
仏法では「不改本位の成仏」と説く。これは九界の凡夫が、それぞれの本来の位を改めることなく、そのまま即身成仏するとの教えである。各人が生活しているその場所で、そのままの姿で、生きていること自体が楽しいという絶対的幸福境涯を開くことができるのである。だれ人をうらやむ必要もない。何を嘆く必要もない。「足下を謝れ、そこに泉あり」との言葉があるが、御本尊を持ち、広布に進む、ほかならぬわが地域が、わが家庭、わが人生の舞台が、そのまま常寂光土(永遠の仏の国土)と輝いていくからである。このことを確信し、堂々と、朗らかに、自分自身の所願満足の歴史を刻んでいっていただきたい。

☆我らの勝利の大道No.63 東北は人類の希望の光(5/5)
「学会は、人材をもって城となすのだ」とは、懐かしき仙台の青葉城址で恩師が叫ばれた遺訓である。
この師子吼を、胸に響かせながら私は詠んだ。

人材の
 城を築けと
  決意ます
 恩師の去りし
  青葉に立つれば

一城築けば、次の一城ヘ──私は、まっしぐらに走った。守りに入れば停滞を生むだけだ。
我らの城は、何よりも「攻めの城」である。
月月・日日につよ(強)り給へ」(P1190)、
今一重強盛に御志あるべし」(P1220)と仰せ通りに、いよいよ「決意ます」前進あるのみだ。
「新世紀の歌」と共に、東北と私を結ぶ歌が「青葉の誓い」である。
師の遺言の通り、千代に、いな万代までも崩れぬ、永遠不滅の「人材の城」を築く誓いを託したのだ。
東北の友は、今日という一日も勇んで、使命の最前線に躍り出る。その誓いの行進は、必ずや創価の新世紀を開きゆくに違いない。
牧口先生の友人でもあった、東北の偉人の新渡戸稲造博士は語った。
「一日の業は百年の基礎をも作るべし」
東北の勝利こそ、日本の勇気の泉である! 人類の希望の光である!
東北が晴れ晴れと栄えゆくことこそが、未来に「福光」の輝きを放ちゆく人間勝利の大道なのだ!

忍耐と
 最後の勝利は
  必ずや
 われの心に
  東北健児に

──冬を迎えます。風邪などひかれませんよう、大切な大切な全同志の健康と無事故、そして御多幸を、妻と共にいやまして祈ってまいります。合掌

2011年11月18日金曜日

2011.11.18 わが友に贈る

「悪は多けれども
一善にかつ事なし」
全同志の奮闘に感謝!
広宣流布の大願へ
青年を先頭に大行進を!

持妙法華問答抄 P466
命已に一念にすぎざれば仏は一念随喜の功徳と説き給へり

◇希望の明日へ
各人の生命には、仏界という金剛不壊の生命の境界がある。それは、いわば、まばゆいばかりの無量の"財宝"で飾られた、永遠不滅の幸福の宮殿である。信心をし、題目を唱えることによって、その生命の宮殿に入っていくことができる。つまり、自分自身の生命の宮殿を、燦然と輝かせていくことができると大聖人は仰せである。

▽栄光の創立記念日、万歳。後継が躍動する100周年へ師と共に晴れ晴れと船出

☆我らの勝利の大道No.63 東北は人類の希望の光(4/5)
東北が生んだ近代日本を代表する思想家・吉野作造は、「活動力の本源は何処までも之を宗教的信仰に求めねばならない」と喝破した。
今、東北創価学会が、信仰の活力と団結力をもって、社会に貢献を重ねていることに、どれほど多くの方々が共鳴と信頼を寄せてくださっていることか。
私のところには、自らが被災され、試練の生活を続けるなかにあって、生命を奮い立たせ、友のもとへ足を運ばれる報告も、一つまた一つと寄せられている。
先日も、ある県の支部長会の模様を伺った。
その集いで、一人の女子部リーダーの発言に、会場は感動に包まれたという。震災でお父様を亡くされた、この乙女は語った。 「苦しいのは、私だけではありません。もっともっと大変な方々がおられる。父は、私にそのことを教えてくれたのです」
この華陽の友は、悲しみを乗り越え、同世代の友を入会に導いた。
何と崇高な「福光」の拡大であろうか。

亡くなられたお父様も、きっと笑顔で見守っておられるに違いない。
仏法では、親子の「同時の成仏」が厳然と明かされている(P746)。
戸田先生も、しみじみと言われていた。
「最愛の人間の死という悲しみに直面した時の決意は、最も強く、最も尊く、最も大きい力がある」と。
大聖人は、若くして父を亡くした南条時光に対し、「いよいよ強盛なるべし。さるほどならば聖霊・仏になり給うべし、成り給うならば来りてまほ(守)り給うべし」(P1512)と仰せになられた。
どんなに苦しい難があっても、いよいよ強盛な信心に立って、広宣流布のため、人びとのため、社会のために戦い続ける。それが、亡き家族への最高の供養ともなる。
そこに、生死を超えて家族が一体となり、永遠に福徳に包まれ進みゆく常楽我浄の道が開かれる──。
これが、御本仏の絶対のお約束である。

東北出身の作家・志賀直哉が、何よりも大事にしていたもの──。それは「ファイティング・スピリット」であった。
すなわち、これから為すべきことに、断じて挑み、断固として勝ってみせるという「戦う精神」である。
わが東北の草創の父母たちは、どんなに悪口罵詈されようと、「新世紀の歌」を歌い合いながら、戦う精神の究極である「師子王の心」を取り出して、激戦に立ち向かってきたのだ。
師弟の「破邪顕正」の闘魂は、今、青年学会の後継の陣列に意気高く受け継がれている。私は嬉しい。

2011年11月17日木曜日

2011.11.17 わが友に贈る

寒さ対策を万全に!
風邪をひかぬよう
手洗い・うがいなど
賢明な体調管理を。
どうか健康第一で!

二乗作仏事 P594
師子身中の虫の自ら師子を食うが如し、外道には非ず多く我が仏法を壊りて大罪過を得ん

◇希望の明日へ
仏法では、人生の目的を成仏にあると説いている。生命論的に言えば、"成"とは「開く」という意義である。自己の生命にもともと備わっているもっとも尊厳な"仏"の生命を開く−−もっとも尊極な生命、大歓喜の生命、大いなる知恵の生命を輝かしていくことが大事である。よく世間一般で、死んだ人を"成仏"したなどというが、大きな間違いである。

☆我らの勝利の大道No.63 東北は人類の希望の光(3/5)
東北の誇り高さ要衝の地・福島を舞台に、私は『新・人間革命』「福光」の章を懸命に綴ってきた。
お陰様で、そのなかで『新・人間革命』の新聞連載も、大きな節目を刻ませていただいた。読者の皆様方のご支援に心から感謝申し上げたい。<十一月三日付で通算四千七百二十六回となり、山岡荘八氏の『徳川家康』の四千七百二十五回(余話含む)を超え、日本一の連載回数となった>
連載は、新たに「共戦」の章に入る。創価の師弟が共に心を合わせ、共に戦いを起こすのだ。
無名にして偉大な同志だち、苦楽を分かち合う真正の弟子たちの大闘争を、永遠に語り継ぐための民衆の叙事詩である。
それを思えば、一回一回の執筆にも渾身の力が宿るのだ。
いかなる苦難に遭おうと、人間の無限の可能性の炎は、断じて消えない。
最も苦しんだ人が、最も幸福になる!
最も苦労した人が、最も偉大な勝利者と輝く!

これが日蓮仏法の心だ。
私か対談した、中国の「国学大師」と仰がれる饒宗頤先生が語っておられた。
「蓮華は泥中にあっても、それに染まらず、美しい花を咲かせるという『如蓮華在水』は、法華経における主要な正義であり、教育といえましょう」と。
東北のわが同志は、この仏法の本源的にして根本の法理を体現されている。
かの釈尊が「法華経」を説き顕したのは、古代インド・マガダ国の都の「東北」に位置した霊鷲山であった。そのインドから見て「東北」に位置するのが、日本である。
御書には、「法華経は東北の国に縁ふかし」(一三〇九ページ)と記されている。
この法華経に有縁の日本の東北の同志が、いかなる逆境も勝ち越えて、広宣流布の総仕上げの使命を果たしゆくことは、仏眼に照らして、必然といっても決して過言ではあるまい。
私は、ひたぶるに祈る。
仏天から最大に信頼されゆく東北よ、寿量品に説かれるままの「我此土安穏」の天地たれ!
未来永劫に希望の旭日を昇らせゆく民衆の天地よ、皆が幸福を勝ち開く「衆生所遊楽」の宝土たれ!

2011年11月16日水曜日

2011.11.16 わが友に贈る

仏法は道理だ。
「信心即生活」の
賢明なリズムこそ
人生勝利の直道!
強き祈りで進め!

閻浮提中御書 P1589
仏法を信じて今度生死をはなるる人のすこし心のゆるなるをすすめむがために疫病を仏のあたへ給うはげます心なりすすむる心なり

◇希望の明日へ
大聖人と釈尊の仏法の違いは、あえて、たとえれば、釈尊の仏法では、ロッキー山脈の高峰をめざすように仏界の高みへ一歩一歩登っていく。特別に優れた人が仮にたどりついたとしても、それだけで人生が終わってしまい、他の人を救うこと、社会への貢献などは難しくなってしまう。大聖人の仏法は、足元のわが身、わが生命の大地を開拓して仏界の宝を掘り出していく。仏界の"宝の蔵"を開いていく。そのカギが題目であり、信心の一念である。また山でいえば、ただちにヘリコプター等で山頂に到着し、そこから悠々と下界を見下ろしながら、仏界の風を社会に送っていくのが、大聖人の仏法であるとたとえられるであろう。

☆我らの勝利の大道No.63 東北は人類の希望の光(2/5)
東北には、創価学会の折伏精神の源流がある。
東北には、三代の師弟が築いた人材の城がある。

愛する大東北よ!
宮城、岩手、青森、秋田、山形、そして、福島の誉れの友よ!
あの東日本大震災から八ヵ月……。
わが東北の同志は、いずこにあっても、信心という「心の財」を抱きしめ、生きて生きて、生き抜いてくださっている。
一人の友のため、地域のため、郷土のため、未来のために、戦って戦って、戦い抜いてくださっている。

大難に負けない東北の「勇気の人びと」「不屈の人びと」を仰ぎ見よと、世界中が感嘆している。
東北の「負げでたまっか!」は、関西の「負けたらあかん!」と共に、世界の同志の共通語となった。
まさに「試練の中で人間は断固と立ち上がる」という希望の法則を、人類史に実証されているのが、尊き東北の皆様方である。

なかんずく、東北の健気な母たちのご苦労が偲ばれてならない。私の胸には、日蓮大聖人の御賞讃の仰せが迫ってくる。
「大風が草をなびかし、雷が人を驚かすような世の中にあって、貴女が今まで信仰を貫き通されてきたことは、不思議なことです。
根が深ければ葉は枯れず、泉に玉があれば水が絶えないというように、貴女の信心の根が深く、いさぎよき玉が心に輝いておられるからでしょう。何と尊いことでしょうか」(御書一四七九ページ、通解)
この御文さながらの東北の母たち、女性たちの深く強く清らかな信心を、蓮祖が御照覧であられることは、絶対に間違いない。
留学中の仙台で、生涯の宝とする師弟の出会いを刻んだ中国の文豪・魯迅は、「深くねばり強い戦いに勝るものはありません」と語っていた。
仙台での魯迅の記念碑設置に際し、足を運んだ許広平夫人も述懐している。
「世の中に難しいことなどありません。それは人間の心が堅忍か否かにかかっているのです」と。
その「粘り強さ」と「人間の心の堅忍さ」を、我らの東北の友は、何と神々しく発揮されていることか。
東北だからこそ、耐え抜くことができた。
そして東北だからこそ、勝ち抜くことができる。

後世の歴史に、必ずや希望の鑑として刻印されるであろう。
「人々が重大な難問に立ち向かう決意を固めると、最大の歴史形成力が始動する」──これが、英国の慧眼の歴史家トインビー博士の洞察であった。
ゆえに私は信ずる。
前代未聞の試練に屈せず、雄々しく応戦する大東北から、新しき偉大な民衆世紀が開かれゆくことを!

2011年11月15日火曜日

2011.11.15 わが友に贈る

リーダーは
共戦の同志を
仏の如く大切に!
感謝と賞讃の心こそ
偉大なる前進の力!


御義口伝巻上 P737
今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は与如来共宿の者なり、傅大士の釈に云く「朝朝仏と共に起き夕夕仏と共に臥し時時に成道し時時に顕本す」と云云

◇希望の明日へ
成仏こそ、真実の成功であり、それが永遠の長者なのである。仏という長者の持つ財とは何か。それは"法財"である。あらゆる"善法"を身に備えている。あらゆる"万徳"を具足している。いっさいの障魔を倒し、いっさいの知恵に達し、心は大海のごとく広く永遠に自在の境涯を楽しんでいる。要するに「生命の大力」に満ちた存在−−それが出世間の長者、仏である。

☆我らの勝利の大道No.63 東北は人類の希望の光(1/5)
民衆の
 歌声とどろく
  その中を
 馬上もゆたかに
  法旗かかげて


杜の都・仙台に生まれ育った大詩人の土井晩翠翁は、青年たちのために多くの歌を作り、贈った。
「いざゆけ若人明朗と」
「いざゆけ若人敢然と」
「青春盛りの歓喜に満ちて 無限の希望に溢れて行かん」

若き魂の歌声があるところ、佗しい落胆などない。常に新たな開拓が始まる。
今、全国各地の創価青年大会でも、若人の弾ける命の合唱が躍動している。これほど力強く頼もしい、青春の凱歌があろうか。
思えば、五十年前(昭和三十六年)の十一月、私は大好きな東北の同志と、大空に届け、未来へ響けと、声高らかに歌を歌った。

♪ひらけゆく大空に
  舞う若鷲
 日本の柱 師のもとに
 苦悩にあえぐ
  ともどちを
 救わん 地涌の誇りもて


私の提案に応えて、真剣にして誠実な東北青年部が作成してくれた歌である。
「東北健児の歌」という題であった歌に、私は加筆し、「新世紀の歌」と命名させていただいた。
そこから、新世紀を開きゆく民衆の歌声と足音が、東北発で日本全国に轟きわたっていったのである。
あの日、あの時、「広宣流布の総仕上げは我らの手で!」と、わが東北の友は誇りも高く叫んだ。その人間王者の師子吼は、二十一世紀の今こそ、勇気凛々と高鳴っているのだ。

2011年11月14日月曜日

2011.11.14 わが友に贈る

新聞休刊日

諸法実相抄 P1360
日蓮一人はじめは南無妙法蓮華経と唱へしが、二人三人百人と次第に唱へつたふるなり、未来も又しかるべし

◇希望の明日へ
人生には、さまざまな花がある。富の花や、名声の花に酔いしれる人も多い。権勢の花や、安逸の花に溺れる人も少なくない。しかし、それらの花は、無常の移ろいを免れることはできない。また、自己満足の閉ざされた喜びのみで消え去ってしまう場合も多い。いくら華やかであっても、虚飾に彩られたものは、決して長続きはしない。また、人生の深き価値の結実もありえない。だが、たとえ地味であっても、正しき信仰に徹していくなかで咲かせた、わが生命の花は、何物にも侵されることはない。永遠にして尊極なる成仏の境界へと、必ず実を結んでいく。三世永遠の幸福の実をつけることができる。それは、自分のみにとどまることなく、民衆の大地に、蘇生と歓喜と希望の種子を、かぎりなく蒔き、広げていくことができるのである。

2011.11.13 わが友に贈る

語った分だけ
仏縁が広がる!
動いた分だけ
功徳が積まれる!
共に勝利の一日を。

上野殿御返事 P1544
今の時法華経を信ずる人あり或は火のごとく信ずる人もあり或は水のごとく信ずる人もあり、聴聞する時はもへたつばかりをもへどもとをざかりぬればすつる心あり、水のごとくと申すはいつもたいせず信ずるなり

◇今週のことば
誉れの「創立の日」を
全世界の友と祝賀!
師弟の魂は無敵なり。
創価の大城を
永遠に勝ち護れ!

2011年11月13日

◇希望の明日へ
悪世にあっては、正しきものには妨害があり、進むものには抵抗がある。当然の道理である。像法時代の天台ですら、あれだけの風雨を受けた−。仏法の目的は成仏にある。そして大聖人は、身命を捨てるほどの難との戦いがあってこそ成仏できると仰せである。難ありて、初めて成仏がある。悪口されればされるほど、仏の境界に近づける。これほど、ありがたいことはない。その意味で、むしろ苦難があればあるほど、心から喜び勇んでいく。その心が、まことの信心である。

2011.11.12 わが友に贈る

さあ 対話拡大の時!
いよいよの精神で
大生命力を奮い起こせ!
粘り強く朗らかに
偉大な勝利劇を!

御義口伝巻下 P784
桜梅桃李の己己の当体を改めずして無作三身と開見すれば是れ即ち量の義なり

◇希望の明日へ
師弟の道を全うし、自身も成仏の大道を進む。他の人も成仏という歓喜の大道に導いていく。これが仏法を奉じた人の根本の目的である。この目的が定まっているか否か−。目的への一念が、はっきりと定まっている人は強い。何があろうとも、すべてが成長への糧となる。その人には、動揺もなければ、愚痴もない。ふざけや要領が自らの損失であることが明らかに見えてくる。そして、苦しみは勇気を、悩みは知恵を、友の嘆きはかぎりなき慈愛を、わが胸中に開いてくれる。

2011年11月11日金曜日

2011.11.11 わが友に贈る

学会の会館は
地域の安心と幸福の城。
宝城を守る友に感謝!
火災・戸締りに注意し
絶対無事故の日々を!

開目抄下 P235
我が弟子に朝夕教えしかども疑いををこして皆すてけんつたなき者のならひは約束せし事をまことの時はわするるなるべし

◇希望の明日へ
成仏は、いかなる緑をもつかで決まってしまう。"一乗を説く"ことの大事な所以がここにあるのであり、同時にこれを説く人の存在が大事になってくる。ゆえに、善緑をもつか、悪縁に触れるかが、信心修行における幸、不幸への分岐点となる。

▽不可能とは臆病者の言い訳−英雄ナポレオン。偉大な歴史を残せ!信心は勇気の異名

☆折々の指導No.015 誠実で光るリーダーたれ(各部の代表に)
すべて、何をやるにしても、大事なことは、折伏精神だよ。
その点をはずしたら、人は育たない」
学会は、真面目で、真剣で、皆の幸せを願う世界だ。皆のことを心配し、皆のために苦労・努力する。それが創価学会だ
「幹部になればなるほど、誠実にいきなさい。
口だけ上手、それではいけない。真実の行動、懸命な行動がなければいけないよ。
そして、ひとたび広宣流布の戦いに挑んだならば、『仏法は勝負』だ。
同志の皆さんのことを思えば、負けるわけにはいかないじやないか。
断じて勝つために、どうすればいいのか──皆で題目をあげ、団結をして、智慧を出すのだ。
今こそ、広宣流布の基盤を盤石にしていくことだ」
「戸田先生にお応えしようと、私も広布の道を開くために、苦労したよ。真剣だった。
真剣な人には、誰もかなわない。誠実な人には、必ず結果が出る。
その人によって学会は支えられてきたし、学会はまた、築かれていくんだよ

2011年11月10日木曜日

2011.11.10 わが友に贈る

男女学生部の友よ!
知識は世界に求め
実践は足元から!
勇気と慈悲の剣もち
大指導者と羽ばたけ!

四条金吾殿御返事 P1122
法華経の文字を拝見せさせ給うは生身の釈迦如来にあひ進らせたりとおぼしめすべし

◇希望の明日へ
御本仏の門下である学会員は、妙法の宇宙大の力用を、信心によって、各人の人生の上に無限に顕現し証明していくことができる。仏界という、くめどもつきぬ大歓喜の境界に住しつつ、スケールの大きな自在の人生を開ききっていけるのである。御本尊を持った以上、何物も恐れる必要はない。何物をも嘆く必要はない。要は、何があろうとも、妙法を信じ、妙法を唱え、"わが身が南無妙法蓮華経の当体である"との大確信を貫いていくことである。"われ、仏子なり"との誇りを胸中に掲げきっていくことである。

▽外交を一生の地盤とせよ−恩師。人と会い、語れ!固く結んだ友情こそ財産

☆新時代第53回本部幹部会、SGI総会へのメッセージ(4/4)
古代ローマの哲人は、人知れず後輩に尽くす気高き高齢の友、まさしく多宝の父母のことを、「次の世代に役立つようにと木を植える」人と讃えました(キケロー著『老年について』)。
わがSGIは、「自分自身が花を咲かせようという気持ちでなくして、全世界に妙法という平和の種を蒔いて、尊い一生を生き抜こう」との心で出発しました。
大聖人が仰せの如く『いまだこりず候』(P1056)との不屈の大精神で、幸福勝利の種を、いよいよ喜び勇んで蒔いていくことを、深く決意し合って、私のメッセージといたします。
皆様、どうか、お元気で!