2011年11月30日水曜日

2011.11.30 わが友に贈る

新入会の友を大切に!
悩みや意見や要望を
じっくりと聴くことだ。
一人に心を砕いてこそ
広布の未来は開かれる。

妙一尼御前御消息 P1252
譬えば一人にして七子有り是の七子の中に一子病に遇えり、父母の心平等ならざるには非ず、然れども病子に於ては心則ち偏に重きが如し

◇希望の明日へ
日蓮大聖人の仏法では"死んで仏になる"のではない。これがもっとも大事な点である。"生きているうちに仏になる"。その"一生成仏"のための信心である。"死後の幸福"を強調する念仏などとは、根本的に違う。"生きているうちに"絶対の幸福境涯を築き、固める。今世で最高にすばらしい人生を満喫する。そのための仏道修行なのである。

☆豊島、台東、墨田、目黒区合同総会「真の人間組織こそ宗教の基盤」S62.12.12
◇納得、対話の「和合」の絆を
また、仏法には「和合僧」という言葉がある。この「和合僧」、また「僧」については、多くの海外の会員や知識階屑の方々から深い関心が寄せられている。いつの日か、詳細に論じさせていただくつもりであるが、本日は「組織」に関連して、少々ふれておきたい。
「和合僧」とは、「和合衆」ともいい、出家して仏道修行に励む比丘および比丘尼の集まりのことをいう。
もともと「僧」は、「僧伽(そうぎゃ=サンガ)」の略で、「衆」「和合衆」等と漢訳され、それ自体、団体を意味している。後世、中国や日本では、仏門に入った個々の人をいうようになったが、本来は、四人以上(三人または五人以上との説もある)の比丘が一緒に集って修行する団体のことをいったのである。
竜樹はその著『大智度論』で、「僧伽」について次のように述べている。
讐えば大樹の叢聚(そうじゅ)するに、これを名づけて林(りん)と為す。一一(いちいち)の樹は名づけても林とは為さず。一一の樹、除いては亦(また)林も無きが如し。かくの如く、一一の比丘、名づけて僧とは為さず。一一の比丘、除いては亦僧もなし。諸の比丘、和合するの故に、僧の名は生ず
すなわち、たとえていえば大きな樹が群生していれば、林と呼んでいる。一本一本の木のみでは林とは呼ばない。ただし、一本一本の木を除いてしまうと、林として成立はしない。同様に、一人一人の比丘は僧とは呼ばない。また、一人一人の比丘を除いても僧は存在しえない。多勢の比丘が集まり、和合しているがゆえに僧の名が生じるのである。
これに関連して日亨上人は「一人を僧といはず四人已上の共行集団を僧といひ和合を僧といふ定義なれば、其共心同行の団体中に自ら異義を唱えて退くも不可なり、況んや他を教唆して同心共行を破するに於いてをや、提婆達多が釈迦牟尼仏に反抗する為に・仏弟子の一部を誘拐して新教団を組織したるは・提婆の破和合僧罪とて・其罪の尤(もっとも)なるものなり、現代に於いては破和合僧又破和合講に通用すべし」(富要一巻)と述べている。
一人を僧といわないで、四人以上の行を共にする集団を僧といい、和合を僧というのが定義であるから、その心を共にして行を同じくする団体の中にあって、自分勝手に異義を唱え、退転することは許されない。ましてや、他の人をそそのかして、同心共行(同し心で行を共にすること)を破ることはあってはならない。提婆達多が釈尊に反抗するために、仏弟子の一部を誘拐して新教団を組織したことは、破和合僧罪のもっとも大なるものである。現代においては、「破和合僧」、また「破和合講」も、その罪にあたるといえよう──と。
広くいえば、仏道修行に励み、妙法広布に進みゆく地涌の友の集いである学会も、「和合僧」の団体である。その団結を乱すことは「破和合僧」に通じるといえる。
この「破和合僧」は、五逆罪、三逆罪の一つにあげられており、その罪はもっとも重く、深い。その因果は厳しく、必ず堕地獄となるのである。