いつも青年!
若き命よ燃え上がれ!
今から、ここから
不屈の師弟の勝利舞を。
立正安国論 P24
『如かず彼の万祈を修せんよりは此の一凶を禁ぜんには』
◇希望の明日へ
人間としてもっとも尊貴な人生とは、何か−−。大聖人は、仏に成ることこそが、永遠の幸福であり最高の人生と仰せである。"妙法の当体"たる自分自身を輝かせていく生活である。華やかではなくとも、まじめに信心に励んだ人、真剣に広宣流布に励んだ人、不滅の大法とともに生き抜いた人こそが、真の勝利者であり勝利王なのである。
☆豊島、台東、墨田、目黒区合同総会「真の人間組織こそ宗教の基盤」S62.12.12
日蓮大聖人の御在世当時には、信心の大きな組織はなかったと思われる。信徒の数も限られており、本格的な意味での「組織」は必要なかったのであろう。
しかし、大聖人は、今日の組織のあり方、意義等を照らしだすような御文を、随所で述べられている。
たとえば「寺泊御書」には、『心ざしあらん諸人は一処にあつまりて御聴聞あるべし』(P951)との有名な一節がある。──妙法を信じ、広宣流布への"志"をいだいて進む人たちは、一処に集まって、法義を聴聞しなさい──と。
広布への尊い"志"も、なかなか一人で堅持していくことはむずかしい。そこで、皆で集まって、仏法を研鎖し、励ましあうことが大切となる。きょうもこうして、妙法流布をめざす使命の人々が"一処"に集い、たがいに信心の決意を固めあっている。大聖人がお示しのとおりの正しい姿であると確信してやまない。
学会の組織は、どこまでも広宣流布の推進のためにある。また一人一人の信心の"成長"と"成仏"への軌道をささえ、守りあっていくためにある。その意味で、広布の組織とは数限りない「善知識」の集いであるといってよい。
大聖人は「三三蔵祈雨事」P1468)で、冒頭から「善知識」の必要性を強調しておられる。
『夫(そ)れ木をうえ候には大風吹き候へどもつよきすけ(扶)をかひ(介)ぬれば・たうれず、本(もと)より生(お)いて候木なれども根の弱きは・たうれぬ』──木を植えた場合、たとえ大風が吹いたとしても、強い支柱で介添えすれば倒れない。反対に、もともと生えている木であっても、根が弱いものは倒れてしまう──。
『甲斐無き者なれども・たすくる者強ければたうれず、すこし健(けなげ)の者も独(ひとり)なれば悪しきみちには・たうれぬ』──人間においても同じである。力弱くふがいない者であっても、助ける者が強ければ倒れない。逆に、少々壮健な者でも独りであれば、悪い道では倒れてしまう──。
これらは道理である。だれ人も異論はないにちがいない。仏法の教えはつねに、こうした万人が納得せざるをえない"道理"の延長線上に説かれている。このことをあらためて確認しておきたい。
すなわち成仏の道においても、たとえ最初は信心弱き者であっても、強いささえを得れば倒れない。反対に、なまじっか自分は信心が強いと思っていても、三障四魔の吹き荒れる悪路を一人で歩みとおすことは容易ではない。そのために、どうしても同志が必要である。善知識が必要であり、信心の組織が必要となる。
もちろん成仏は一人一人の修行であり、努力による。他のだれをも頼らず一人立って歩みきる覚悟が必要である。組織や同志は、その個人の修行を励まし、啓発しあうという意義をもつ。あくまでも個人の成仏の完成を助ける補助の役割である。そしてまさに、この補助の役割であるがゆえに重要なのである。
さらに『されば仏になるみちは善知識にはすぎず、わが智慧なににかせん、ただあつ(温)きつめ(寒)たきばかりの智慧だにも候ならば善知識たいせち(大切)なり』──ゆえに仏になる道は善知識にまさるものはない。わが智慧が何の役に立とうか。ただ暑さと寒さを知るだけの智慧だけでもあるならば、善知識を求めて近づくことが大切である──と。
仏の道は甚深であり、その智慧ははかりがたい。それにくらべれば、どんなに賢く見えても凡夫の智慧など、わずかなものである。ゆえに成仏する道は正しき善知識につく以外にない。そうすれば、善知識の力で、誤りなき成仏への軌道を進んでいけるのである。
大聖人が『わが智慧なににかせん』と仰せのごとく、いかなる大学者であっても、仏法のことは仏法者に学ぶ以外にない。どんな大科学者、大医学者も、自分の生命、人生を解決できる智慧があるわけではない。また、大政治家、大富豪であるといっても、絶対的な幸福への法則を知っているわけではない。
にもかかわらず、皆、わずかばかりの「わが智慧」をたのみ、謙虚な求道の心を見失う。ここに不幸の因がある。
知識イコール幸福ではなく、富イコール幸福でもない。また地位や名声イコール幸福でもない。わかりきっているようにみえて、この厳粛な事実に深く鋭く目をこらす人は少ない。しかし、この一点にこそ、だれもが人間の報復の精髄を明かした仏法を、真摯に求めていかねばならない電要なゆえんがある。
そして仏法を求めるとは、具体的にはすぐれた善知識を求めることとも言えよう。大聖人が『仏になるみちは善知識にはすぎず』と断じておられるとおりである。
「善知識」とは、本来、人を仏道に導き入れる"善因縁の知識"をいう。知識とは知人、友人の意味である。仏、菩薩、二乗、人天を問わず、人を善に導き、仏道修行を行わせる、正直にして偽りなき"有徳"の者が善知識である。当然、人界の私どももまた、立派な善知識の働きとなる。
善知識の働きには、修行者を守って安穏に修行させ(外護)、またたがいに切磋琢磨しあい(同行)、さらに仏法の正義を教えて善行へ向かわせること(教授)などがある。
すなわち「勤行をしましよう」「会合に行きましょう」「御書を拝読しましょう」等々、広宣流布のほうへ、御本尊のほうへ、妙法と成仏のほうへと"指し導く"指導者の皆さま方こそ、尊き「有徳」の善知識なのである。
その反対が「悪知識」である。本日はそのくわしい意義は略させていただくが、一つだけ申し上げれば、たとえ信心している幹部であっても悪知識となる場合がある。
つまり、指導者が仏子を見くだしていばったり、ふざけ半分であったり、責任感がなく、いいかげんであったり、成長が止まっていたりしたら、そのもとにある人々の信心の成長をもじゃましてしまう。純粋な後輩が伸び伸びと活躍し成長することもできない。それでは、あまりに無慈悲であり、かわいそうである。
こういう指導者の本質として、たとえ言葉はたくみであり、表面を飾ろうとも、心は保身と驕慢である。その魂胆は、人々に自分を尊敬させ、人々の心を自分へと向かわせるところにある。
すなわち善知識が、友を「妙法」の方向へ向かわせるのとは対照的に、黒く卑しき心の悪知識は「自分」へと向かわしめるだけなのである。「法」が中心ではなく、自分のずるがしこい「エゴ」が中心となる。この一点を鋭く見きわめていかねばならない。悪知識に紛動されれば、悪道へとおもむかざるをえないからだ。
また、こうした"虚飾の仮面"をかぶった信心なきリーダーは、時とともに、いつか広布の大道から逸脱し、姿を消していくものだ。これが大聖人御在世の時代以来、変わらざる方軌であり、私の四十年間の経験的事実でもある。