仏法は親孝行の法。
笑顔で感謝を!
元気な声を伝えよ!
真心が最高の贈り物だ。
減劫御書 P1466
『殷の代の濁りて民のわづらいしを大公望出世して殷の紂が頚を切りて民のなげきをやめ、二世王が民の口ににがかりし張良出でて代ををさめ民の口をあまくせし、此等は仏法已前なれども教主釈尊の御使として民をたすけしなり、外経の人人はしらざりしかども彼等の人人の智慧は内心には仏法の智慧をさしはさみたりしなり』
◇希望の明日へ
大聖人の仏法は、悪しき権威・権力と、真っ向から戦う民衆の宗教である。退転者は、世間の権威にすり寄り、権力にこびへつらい、ただ見栄えと格好の良いほうへと、信念を捨て転身していく。その根底は卑しく、臆病な"保身"以外の何物でもない。要するに、権威に弱い自らの心に負けただけの話である。
▽折伏を行ずる人に強靱な生命力と無量の大福運が−恩師。自他共の勝鬨を
☆質問17 どうして差別やいじめがあるのでしょうか。
毅然と生きよ! その強さが「人権」
同じ「人間として」生きる心の豊かさを
外国人を「同じ人間」として見られない。それは心が貧しいからです。自分が「人間として」どう生きるかという哲学をもっていないからです。
哲学を学ばず、目先しか見ていない。欲望のままに貪る「餓鬼」の心、強い者にはへつらい、弱い者はいじめる「畜生」の心──その悪根性でできあがった社会であるから、人を差別する心、人権を無視する社会ができてしまった。
大事なのは「人間として」生きることです。
それなのに、多くの日本人は、「人間として」生きる前に、「日本人として」発想してしまう。心の狭い島国根性です。少しでも「異質」だと思うと排除したり攻撃する。その閉鎖性が、国際的にも孤立を招いているのです。
病苦と経済苦に疲れきった人。人間関係に押しつぶされ、人生に絶望した人。家族がパラパラで、すさんだ心の荒野をさまよう人。
光の当たらない、あらゆる苦悩をかかえた民衆に手を差し伸べ、ともに同苦し、ともに立ち上がってきたのが創価学会です。
諸君のお父さん、お母さんは、そういう「人間のための闘争」に生きてきた。名誉もいらない、地位もいらない、ただ「人間として」人間愛に生きぬいた。
泥沼のような醜い社会の中で、一筋に大いなる理想に生きぬいてこられた。最高に尊い方々なのです。
その「心」を諸君は受け継いでほしいのです。その「人間愛」を世界に広げてほしいのです。
〈高校生からの「私は障害があります。そのため、道や学校で笑われてしまいます。どうしたらいいか、自分にはわかりません」との質問に対して〉
結論から言えば、自分が強くなるしかない。それも人権闘争です。
人に同情されるのは、決して人権ではない。
「障害者も立派な人間だ」という誇りをもつことです。「自分としての使命があるのだ」との誇りをもつことだ。
それをあざけり笑うのは、笑う人が悪人なのであり、人権無視の悪の罪業を積んでいるのです。
それに負ければ、人権は崩れる。その強さが人権なのです。
毅然として生きることです。その「人格」が人権の根本です。人格は、お金とは違う次元の、いちばん重要な問題です。
物質的な幸福を追うだけでは、本当の平和はない。二十一世紀は、どうしても「人権の世紀」にしなくてはならない。目先の利害にとらわれない社会にしなくてはならない。
それには、まず自分が自分を大切にし、誇りをもって毅然と生きることです。その人が、他の人も大切にできるのです。
大河も最初の一滴から始まり、大海へと四ぐ。「人権の世紀」への流れは今、始まったばかりです。
(『青春対話1』から)