勇気の信心で勝った!
学会歌も高らかに
新たなる勝利へ
威風堂々と出発!
法華行者逢難事 P965
『かかる濁世には互につねにいゐあわせてひまもなく後生ねがわせ給い候へ』
◇希望の明日へ
社会的にいかに立派に見える人であっても、また自分は著名人である、地位や学歴がある、敦学力があるなどといっても、謗法と戦う心がなければ成仏はない。正法を信奉する学会にあって、「破和合僧」の工作をしたり、自分の地位を守るために組織を利用し、広宣流布と学会員の信心を妨げようとする人間に対しては、厳として戒め、厳として祈り、戦っていかねばならない。遠慮したり、怖がったり、恐れたりしては絶対にならない。仮にその人が今までは先輩であったとしても、謗法はどこまでも謗法であると厳しく見抜いていくことである。
☆質問15 勤行しても、なかなか願いが叶いません。
祈り続ければ必ず幸福に!
仏法は道理。信心即生活。現実の努力が花開く
「祈りとして叶わざるなし」の信心です。しかし、祈ってすぐに叶うのは"手品の信仰"だ。「明日、宝くじに当たりたい」「明日のテストで百点を取りたい」と祈って、簡単にそうなるものではない。
仏法は道理であり、信心即生活です。信心即現実だ。現実のうえで、努力もしないで、安易に願いが叶うわけがない。
また、信心の度合いも一人一人違いがあるし、もっている宿命も一人一人違う。しかし、祈っていくことによって、必ず「よい方向へ」「よい方向へ」と、本格的な希望が開けていくことは間違いないのです。
御本尊の功徳には「顕益」と「冥益」がある。
「顕益」というのは、病気とか、人間関係とか、何か問題が起こった時に厳然と守られ、すみやかに解決できる利益です。
「冥益」とは、木がゆっくりと育つように、また海の水が満ちていくように、次第に福運を積み、豊かな大境涯を築いていく。毎日、見ていても変わっていないようで、何年間か長い目で見た場合には、厳然と幸福になっている。成長している。それが「冥益」です。
「顕」とは、はっきり目に見えるということ。「冥」とは、なかなか目には見えないことを意味する。
何かあっても「祈り続ける」ことです。そうすれば、必ず幸福になる。
その時は、自分が思っているような解決をしなくても、もっと深いところ、あとから考えると、「いちばんよかった」という方向になっていたことがわかるものです。これがすばらしい「冥益」です。
たとえば、「きょう腹いっぱい食べて、一生、飢えて暮らす」よりも、「今すぐには腹いっぱい食べられなくても、一生涯、悠々と食べていける」人生のほうが、はるかによい。日蓮大聖人の仏法は、そのようなものです。
やった分だけ自分が得をするのです。もちろん、信仰をしなくても、生きていくことはできるでしょう。しかし、自分ではどうしようもない宿命もある。生命の弱さに振り回される場合もある。そういう自分を変えて、"ああ、私の人生はすばらしかった"と心から言えるようにならなければ損です。
戸田先生は言われた。
「われわれは何のために生まれてきたのか。それは『衆生所遊楽(衆生が遊楽する所)』と法華経にあるように、遊びに来たのである。だから、人生を楽しまなければ、つまらないではないか。御本尊を信じきった時に、生きていること自体が楽しい、何をやっても楽しいという人生になるのである」と。
生きていること自体が楽しい──こういう境涯を「絶対的幸福」と言います。信仰を貫き通せば、必ずそうなっていくのです。
(『青春対話I』から)