百子力を得て」
青年の師子吼こそ
時代を創る活力だ。
堂々と正義を叫べ!
経王殿御返事 P1124
『法華経の剣は信心のけなげなる人こそ用る事なれ鬼にかなぼうたるべし』
◇希望の明日へ
大聖人の仰せ通り、御本尊を信じ、唱題し、身命を惜しまず折伏・弘教に励む−−その学会員は必ず仏となる。その大確信で進んでいただきたい。そして、悠々と、御本仏の弟子としての偉大な力を発揮していただきたい。
☆豊島、台東、墨田、目黒区合同総会「真の人間組織こそ宗教の基盤」S62.12.12
◇生死の姿に信仰の証
寒いところ、また遠いところ、このようにご参集いただき、まず心から「ご苦労さま」と申し上げる。きょうは、戸田先生ともゆかりの深い豊島が中心となっての合同総会である。謹んでお祝い申し上げたい。
現在、豊島は、確実な「信心即生活」の前進がなされている。まことに慶賀にたえない。
私のもとには、毎日、数多くの手紙が寄せられる。内容はさまざまであるが、総じてそれらは、率直な会員の"声"であり、一通たりとも決してムダにしてはいけないと思っている。民衆の"眼"は鋭い。幹部の言動を、じつにこまかく観察し、とらえている。
きょうは、台東、墨田、目黒の代表、そしてドクター部のメンバーも集っておられる。いずれのりーダーもまた、すばらしい方々であると確信する。(拍手)
人間の「生」と「死」は、一つのドラマである。
過日、草創以来の功労者で、静岡の圏副指導長の片平繁一さんが亡くなった。片平さんは、昭和二十九年(一九五四年)に入会。三十一年には清水で初の男子部・隊長に就くなど、地域広布の発展に見事な足跡を残された。私にとっても忘れられない同志の一人である。
草創期に青年部員として、ともに活躍された大勢の方々を、私は今もって覚えている。かりに名前は思い出せなくとも、会えばそくざに"一緒に戦ったあの人だ"と、脳裏によみがえってくる。片平さんの訃報に接したときも、"あっ、あのまじめな方が……"と、瞬間的に思い起こした。子息は、たしか市議会議員をされていたと思う。
片平さんは、昭和五十七年、肝硬変で倒れた。手術で牌臓も摘出し、医師からは「あと一年もてば、幸運です」と言われたという。その後、九回もの入退院を繰り返すが、とうてい、それから五年も生きるとは想像できなかったようだ。
そうしたなか、片平さんは退院すると、必ず座談会などの会合に出席し、個人指導にも足しげく通った。入院中は「元気になりたい。座談会に出たい。退院して個人指導にあたりたい。眠っている人を奮い起こしたい」というのが口ぐせだったという。
"眠っている人"とは、たんに睡眠をとっている人ではない。信心が休みになっている人のことである。
つねづね申し上げていることだが、人は年とともに老い、徐々に病を患うようにもなる。若いうちに、また健康なうちに、思う存分、広布のために働き、永遠の福徳を築けることほど幸せはない。青春を無為に過ごし、あとで悔やみ、苦しむのは、自分自身である。
尊い一生である。未来に悔いを残し、後悔するような人生であっては、決してならないと申し上げておきたい。
片平さんの死去は、去る五日のことであった。その前日、長男の博文さんを枕もとに呼び、「これだけは、言い残しておきたい」と、次のように遺言した。
「(池田)先生に伝言をたのむ。こんど生まれてくるときは、各国語をマスターして、広宣流布に役立つ人間として生まれてきます。先生、三十三年間、ありがとうございました」
──そう語ると、眠るように目を閉じ、深夜、夫人に見守られ、従容と息をひきとったという。享年六十四歳であった。
まことに立派な人生のドラマである。いかなる高位高官、また著名人であれ、このような安らかな臨終を迎えられるかどうか──ここに、人生の最重要の課題が残されている。
この「生死」の問題に光をあて、解明しきった大法が妙法である。片平さんの安祥たる死の姿こそ、真実の信仰をたもった証とはいえまいか。
私は訃報を聞き、衷心から追善の唱題をするとともに、和歌を詠み、贈らせていただいた。また、先ほどスピーチに先立ち、唱題したのも、あらためて学会本部で追善したいとの思いからであった。