2011年8月28日日曜日

2011.08.28 わが友に贈る

「臆病にては
叶うべからず」
さあ勇気、勇気だ!
語った分だけ
功徳の花が咲く!

御義口伝巻上 P720
今日蓮が唱うる所の南無妙法蓮華経は末法一万年の衆生まで成仏せしむるなり

◇希望の明日へ
善と悪、仏と魔はつねに一緒に現れる。気をつけないと、見分けがつかなくなる。魔ほど恐ろしいものはない。その魔を見極めるのが仏法である。魔と戦い、勝つための仏法である。見極める力、勝つ力は命がけの信心からしか生まれない。魔を見極めなければ、本当の戦いはできない。

▽法華経は「讃むる言こそ多く候へ」御書。戦う同志を讃えてこそ広布は加速
▽「副役職」の友が偉大な勝利の原動力。長と呼吸を合わせ桜梅桃李の活躍を

☆随筆 我らの勝利の大道No.56 三世の生命の旅路
今年の四月二十九日、東北各地の主要会館で、復興祈念勤行会が行われた。大震災の四十九日の追善の意義も込めた法要であった。
ある会館に来られた方は、最初、感情を失ったように無表情であった。しかし、皆と一緒に勤行するなかで、その人は感泣されたという。
──津波で家族を失い、もう涙も出ないと思っていた。しかし同志と共に祈る中で、なぜか泣けて泣けて仕方がなかった。自分にも人間の感情が残っていたと思ったら、もう一度頑張ってみようという気持ちが湧き上がってきた、と。
こうした姿に接してきた東北の婦人部のリーダーが、凛と語っていた。
「祈ることは、慰めでも、逃避でもありません。現実に立ち向かうことであり、希望なのです」
学会員の祈りは、強い。また深い。そして温かい。
亡くなられた方々への追善とともに、生きている方々がより生命力を増して、生き生きと勇気に燃えて前進していくための転機が、創価の法要なのである。

蓮祖は、『いきてをはしき時は生の仏・今は死の仏・生死ともに仏なり』(P1504)と仰せくださっている。
誰もが身近な人の死に接すれば、悲しい嘆きの心が生じるのは当然の人情であろう。御書には、"聖人"にも死別の嘆きはあると示されている。
だが、仏法の生死観に基づけば、死は最後の別れではない。大聖人は、伴侶や子どもなど、最愛の肉親を失った門下に対して、必ずまた霊山で再会できるとお約束くださっている。
千日尼への御手紙には、『(ご主人の)故阿仏房の聖霊』は『霊鷲山の山の中に多宝仏の宝塔の内に東むきにをはす』(P1319)とも綴られている。
御本尊を拝すれば、亡き家族と深い生命の次元で対話できる。
また、依正不二の法理に照らして、霊山とは、妙法を唱える家族の生命それ自体といえる。

霊山とは御本尊並びに日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者の住所を説くなり』(P757)とある通りである。
故人の生命は、わが胸中に融合し、一体不二の力を漲らせて生きられるのだ。