勇気が湧く。
不屈の力が溢れる。
「行学の二道」で
勝利の活路を開け!
聖愚問答抄上 P498
『一遍此の首題を唱へ奉れば一切衆生の仏性が皆よばれて爰に集まる』
◇希望の明日へ
悪知識とは、善知識の反対で、ウソつきであり、人々をだまし、良い心を壊す存在である。そして悪の方向へ、不幸の方向へと、人々を陥れ、正しい仏法の実践を何かと妨げ、邪魔しようとする。こうした悪知識を鋭く見破り、だまされることなく、どこまでも善知識を求めていくことがいかに大切であるか、御書には繰り返し仰せになっている。
☆随筆 我らの勝利の大道No.51 若獅子よ勝ちまくれ
今も鮮やかに蘇る。
昭和二十六年の七月十一日の水曜日、私は二十三歳の一青年として、東京・西神田の学会本部に飛び込んだ。服も靴も、雨にずぶ濡れになったが、"いよいよ新たな出発だ"と、命の炎は燃え盛っていた。
この日、師匠・戸田先生のもとに約百八十人の精鋭が集い、男子部の結成式が行われたのである。
先生は開口一番、誰も想像だにせぬ挨拶をされた。
「今日、ここに集まられた諸君のなかから、必ずや次の創価学会会長が現れるであろう。その方に、私は深く最敬礼をしてお祝い申し上げたい」
「広宣流布は、私の絶対にやり遂げねばならぬ使命であり、各自に、その尊い地位を自覚してもらいたい」
それは、師匠と弟子が心を一つに広宣流布の大願を立てる「師弟共戦」の大宣言であり、厳粛なる「師資相承」の儀式であった。
先生の一言一句を、私は全生命で受け切った。
さらに先生は言われた。
「我々の目的は、日本一国を目標とした小さなものではない。日蓮大聖人は、遠くインドまで、大白法を伝えるよう御命令である」
青年が師匠に吋き従っていくのではない。青年が師匠と同じ責任を分かち合うのだ。青年が師の心を我が心とし、率先して遠大なる未来の道を開きゆくのだ。
御聖訓には「総じて予が弟子等は我が如く正理を修行し給え」(P1367)と仰せである。
仏法の「誓願」とは、競い起こる障魔を覚悟の上で、師匠と不二の勇気に奮い立つことである。その時、弟子の生命は、自らの小さな殻を打ち破り、仏に等しい力と智慧を、雄渾に漲らせていけるのだ。
ともあれ、青年部の結成は、まさに「青年学会」の誕生そのものであった。
そして、この「青年学会」は、常に後継の人材の瑞々しい誓願とともに生まれ変わり、生き生きと新生の力を滾(たぎ)らせていくのだ。