2022年4月30日土曜日

2022.04.30 わが友に贈る

一つの縁を大切に。
旧友も新しい友も
真心によって絆は強まる。
笑顔と誠実の振る舞いで
温かな交流を広げよう!

南条兵衛七郎殿御書 P1498
『二心ましまし人の聞にはばかりなんどだにも候はばよも日蓮が弟子と申すとも御用ゐ候はじ』

【通解】
二心が残っていて、人の風聞に心が揺らぐようなことがあるならば、よもや日蓮の弟子であると言ったとしても、受け入れられないであろう。

名字の言 読書を「旅」に例えると、書店は? 2022年4月30日
「こどもの読書週間」が23日から始まった(5月12日まで)。今年の標語「ひとみキラキラ 本にどきどき」には"輝く瞳や本を好きな気持ちをずっと持っていてほしい"との願いが込められている▼長引くコロナ禍は子どもの読書量に変化を与えているようだ。昨年の学校読書調査によると、5月の1カ月間の平均読書冊数は、小・中学生が過去31年間で最多になった。タブレット端末の配布で電子書籍に親しむ子どもが増え、ステイホームで読書の時間もできたからだろう▼タブレット端末でも手軽に本が選べる時代だが、随筆家の若松英輔氏は、読書の楽しみ方として、「書店」の魅力を訴える▼インターネットは目的の本を買うのに適している。一方、書棚にいろんなジャンルの本が並ぶ書店に行けば、目的の本という「決まった場所」ではなく、「思いもよらなかった場所」への切符を手にすることができる。読書を「旅」に例えると、書店は「駅」である、と(『本を読めなくなった人のための読書論』亜紀書房)▼大型連休に、家族で書店に立ち寄るのもいい。もちろん電子書籍でも構わない。良書と共に、わが子と有意義な"旅"へ! 子どもの心を育み、瞳の輝きを守るのは、大人の使命である。

寸鉄 2022年4月30日
人類社会結ぶ創価の連帯に敬意—元国連上級代表 世界同時の民衆の大行進
広宣流布は常にリーダー率先なり。自身の行動で歓喜のうねりを同志へ!
未来に仏果を成就せんこと疑いあるべからず—御書。苦労は全て幸の因に(新1775・全1337)
各地で人流の増加に警戒高まる。マスク・手洗い・密の回避など対策緩めず
昼夜の寒暖差大。羽織れる衣類を持つ等、外出時も工夫を。健康こそ第一

〈社説〉2022・4・30 きょう「図書館記念日」
◇「知の宝石箱」で素敵な出あいを
タレント・彦摩呂さんのおなじみのフレーズを借りれば、「知の宝石箱や!」と表現できようか。
図書館。そこには、人類が積み重ねた英知がある。国境も、時空も超えた世界がある。時に、人生さえ左右する出あいがある。
4月30日は「図書館記念日」。図書館法が公布された1950年(昭和25年)の同日にちなみ設定された。
インターネットや電子機器の発達で、現代社会では"リアル本"に触れずとも著作物にアクセスすることが容易になった。一方、文部科学省の直近調査(社会教育調査、2018年度)では、全国の図書館数は、16年間で2割以上増えて3360に。登録者は前回(3年前)の同調査から7・7%増加し、3379万人だ。少子高齢化の進行を考慮すれば、"リアル本"の需要は高まっているとも言えまいか。
図書館自体も近年、居心地にこだわるなど"進化中"だ。カフェ併設の館も各地に生まれている。
「金沢海みらい図書館」(石川県金沢市)は、斬新なデザインで「グッドデザイン賞」を受賞。海外でも、世界の優れた図書館として紹介された。建築家・安藤忠雄氏が建設・寄贈した子ども向け図書館「こども本の森」(大阪市、岩手県遠野市、神戸市)は、まさに宝石箱。足元から天井まで壁一面に本棚が並ぶなど、好奇心を刺激する仕掛けがちりばめられている。
池田先生は未来部員に対して、"本棚の探検"を、次のように勧めている。「近づくと、本は『読んでみて』と語りかけてきます。この小さな声に耳をかたむけ、手に取って開いてみてください。きっと新しい発見があるはずです」(『希望の大空へ』)
折しも「こどもの読書週間」(4月23日〜5月12日)。親子で各地のユニークな図書館に足を延ばすことも貴重な体験となろう。
小説『新・人間革命』に、こんな場面がある。山本伸一がある日、自宅の本箱の扉を取り外し、本の背表紙がむき出しに並ぶようにした。妻に語る。「子どもが背表紙を見て育てば、本への興味ももつようになるし、抵抗なく書物になじめるじゃないか。(中略)家に本があるかないかで、精神形成のうえでは大きな違いがある」(第2巻「民衆の旗」の章)
「知の宝石箱」には、"人間の精神"という無上の宝を、より輝かせる可能性が秘められている。

☆君も立て——若き日の挑戦に学ぶ 第16回「夕張炭労事件〈下〉」 まことの「師子」か、試される時
【同志への指針】
勝つとは
 深き祈りと
人の三倍 努力することだ
(「第2回 北海道青年部総会」〈1994年8月〉を記念し贈った言葉)

◆学会は日本の潮
「わが学会は日本の潮であり、その叫びは師子王の叫びである」——若き池田先生は、北海道・札幌の中島スポーツセンター(当時)で高らかに訴えた。1957年(昭和32年)7月1日の「札幌大会」である。
この年、「夕張炭労事件」が起き、炭労(日本炭鉱労働組合)による夕張の同志に対する迫害の嵐が吹き荒れた。
北海道炭労が「創価学会撲滅闘争」を打ち出した翌日の6月28日、青年室長だった先生は北海道へ向かい、北の大地を奔走しながら同志を鼓舞した。その激励に、夕張の友は立ち上がった。「信教の自由」を踏みにじろうとする人権侵害を断じて許すわけにはいかなかった。
7月1日に札幌、2日に夕張で、炭労への抗議の大会が行われた。
札幌大会の当日、心配する戸田先生から池田先生のもとに電話が入った。池田先生は応じた。「私たち弟子が立派に戦いますから、ご安心ください」
広宣流布の若き闘将は、師匠に北海道の大勝利を報告しようと、大会に向けて入念な準備に当たっていたのである。
札幌大会は月曜日の夕刻からの開催だった。それにもかかわらず、全道から約1万3千人が集い、会場は熱気に包まれた。
大会では、炭労の組合から脅迫まがいの圧力を受けながら、信心を貫き通す壮年が体験発表することになっていた。大舞台での発表ということもあり、極度に緊張する壮年。先生は「元気いっぱいの声があれば、何の心配もいらないよ」と、万感の励ましを送った。
その言葉に背中を押され、壮年は堂々と正義を主張した。
札幌大会で登壇した先生は、"学会は日本の潮"と高らかに宣言し、御書を拝した。
「大悪おこれば大善きたる」(新2145・全1300)
「大悪は大善の来るべき瑞相なり」(新1969・全1467)
闇が深ければ深いほど、広布の夜明けは近い——それは、人権闘争の矢面に立つ先生の大確信でもあった。

【「若き日の日記」1957年(昭和32年)3月6日から】
可哀想な人を、護りたい。
善人を、盛り上げたい。
正義の人を、支えたい。

◆無名の庶民の時代に
札幌大会が終わり、先生は夕張へと移動した。
1957年(昭和32年)7月2日の昼過ぎには、青年部員たちが夕張の街頭でデモ行進を行い、夕刻、「夕張大会」が開催された。炭労の幹部らが、大会を傍聴しにやってきた。
池田先生は、炭労の幹部らに堂々と述べた。「最後まで、学会の主張を、はっきりと聞いていっていただきたい。終わってから懇談をいたしましょう」
最後まで主張を聞いた幹部たちは、終了後、先生に語った。「学会の主張は、よくわかりました」「私どもとしては、決して浅はかな行動は取りませんから、安心してください」
"夕張の同志を守り抜こう"——先生の強い一念によって成功を収めた「札幌大会」「夕張大会」は、夕張炭労事件の大きな転換点になった。やがて炭労側は、学会員を排除する方針を改めていく。広布の理想で結ばれた庶民の団結が、不当な弾圧を打ち破ったのである。
先生は当時を振り返り、さらなる決意を記している。
「無名の庶民の真の英雄たちが、人生の勝利の讃歌を、高らかに謳い上げていける時代をつくらねばならぬ」
57年8月18日、札幌・美香保グラウンド(当時)で、第1回北海道体育大会「若人の祭典」が盛大に開催された。戸田先生と池田先生が出席し、歓喜の中で、夕張に支部が誕生したことが発表された。夕張炭労事件に打ち勝った北海道の同志が、広布に飛躍する姿を示すイベントとなった。
翌々日には、夕張に戸田先生を迎えて支部結成大会が行われた。その日の祝賀会で、恩師は、愛弟子に歌を歌うよう言った。池田先生は立ち上がった。

♪人馬声なく草も伏す
 川中島に霧ふかし
 
「霧の川中島」(作詞・野村俊夫)であった。武田信玄と上杉謙信の、川中島での4度目の戦いを題材にした歌だ。
 
♪雲か颱風か秋半ば
 暁やぶるときの声
 まなじりさきてただ一騎
 馬蹄にくだく武田勢
 
信玄と謙信は壮絶な決戦を繰り広げたが、炭労は、若き池田先生の勇ましい"馬蹄"の音を聞くと、逃げ失せた。
戸田先生は、この歌を「夕張の歌」と言明した。"健気な学会員を苦しめる者は絶対に許さない"——創価の師匠の厳愛に会場は包まれ、夕張の同志たちは感涙を抑えることができなかった。

◆「心配ないよ」
「権力というものは、一切をのみ込んでしまう津波のようなものだ。生半可な人間の信念など、ひとたまりもない。死を覚悟しなければ、立ち向かうことなど、できないよ」
57年6月初旬、戸田先生は自宅で池田先生に語った。炭労対策の指示を仰ぎにきた愛弟子に対し、創価の師匠の獄中闘争に触れ、法難の原理について教えた。
その約1カ月後、"権力の牙"が学会に襲い掛かった。「大阪事件」である。
7月3日、池田先生が大阪府警によって不当逮捕された。4月に行われた参院選の大阪地方区補欠選挙で、責任者だった先生が選挙違反行為を指示したという、全くの事実無根の容疑であった。
5年後、無実が証明されるが、背景には、民衆勢力として伸長する学会を陥れようとの権力の謀略があった。
逮捕の前日、「夕張大会」を終えた先生は札幌へ移動。翌3日の早朝、近くの公園を青年たちと散策しつつ語った。
「いよいよ、大阪へ行かなくてはならなくなった」「何がどうなっても、君たちは、戸田先生を守り抜いてくれ」
青年が全責任を担って、師匠を、学会を守り抜く——呆然として言葉を失う友に、学会青年部の魂を訴えた。
そして池田先生は、千歳空港(当時)から飛行機に乗り、羽田経由で大阪へ向かった。
先生がまだ夕張にいると思い、個人会場に駆け付けた同志もいた。すでに先生の姿はなかった。その場にいた女性幹部は涙ながら語気を強めた。
「きょう、室長は無実の罪で大阪府警に出頭することになっています」
「何も悪いことなんかしていない。そういう状況の中でも、夕張の皆さんを守るために最後まで戦ってくださったのよ。絶対このご恩を忘れてはいけない」
羽田に着いた池田先生は、大阪行きの飛行機に乗り換える際、戸田先生と語らった。恩師は愛弟子の肩に手を掛けた。
「心配なのは君の体だ……。絶対に死ぬな、死んではならんぞ」
夕張炭労事件のさなか、池田先生は体に変調をきたしていた。「一日中、心臓の圧迫感あり。難儀」(『若き日の日記』、1957年6月3日)
この時、自らを鼓舞するかのように、広布への強い思いを記している。
「広宣流布の日まで、断じて、倒れまい。否、倒れたくないのだ」(同、同年6月4日)
弟子の身を案じる戸田先生は、池田先生の体を引き寄せた。「もしも、もしも、お前が死ぬようなことになったら、私も、すぐに駆けつけて、お前の上にうつぶして一緒に死ぬからな」
師匠の深い慈愛に触れ、池田先生は"師のため、同志のために力の限り戦おう"と誓った。
羽田をたつ際、池田先生は意気軒高に同志に言った。「心配ないよ。僕には、これがあるから!」
手に掲げたのは、戸田先生から手渡された小説『人間革命』だった。恩師が「妙悟空」のペンネームで著し、6月29日に発売されたばかりの本である。発行日は不思議にも7月3日であった。
"あとがき"には、「三類の強敵と闘い抜き、三障四魔を断破して、真の大利益・人間革命の真髄を把握されんことを希望する」とつづられていた。
池田先生は機中で読了すると、深く心に期した。"戸田先生は、師子であられた。なれば弟子であり、師子の子である私もまた、師子であらねばならない。いよいよ、まことの師子かどうかが、試される時が、遂に来たのだ!"
恩師が出獄して12年の節目を迎えた7月3日、"創価の師子の魂"が刻印されたのである。