2022年4月13日水曜日

2022.04.13 わが友に贈る

奮闘する新社会人の友よ
決して焦らず進もう!
青春時代の労苦は
飛躍へのバネとなる。
笑顔忘れず 着実に!

種種御振舞御書 P918
『利剣をもてうりをきり大風の草をなびかすが如し、仏法のおろかなるのみならず或は自語相違し或は経文をわすれて論と云ひ釈をわすれて論と云ふ』

【通解】
それはまるで利剣で瓜を切り大風が草を靡かせるようなものであった。彼等は仏法に暗いばかりでなく、あるいは自語相違し、あるいは経文を忘れて論といい、釈をわすれて論というありさまであった。

名字の言 "ソクラテス的対話"の大切さ 2022年4月13日
かつて本紙のてい談や文化欄等にも登場した著名な哲学研究者・稲垣良典氏は、取材した折、時代や社会の動向を見据えつつ"ソクラテス的対話"の大切さを強調していた。"創価学会の皆さんにリードしていただきたい"との期待も▼ソクラテスの対話(問答法)は「産婆術」に例えられる。知恵や徳は既に相手の中に宿っている。だから与えようとするのではなく、それが目覚め、生まれるよう手助けする語らいのことだ▼池田先生が歴史学者トインビー博士と出会って、来月5日で50周年。先生は、それを一つの原点とし、世界の指導者・識者と文化や宗教の垣根を越えて、人間主義の対話を重ねてきた。一級の知性と編んだ対談集は約80点を数える▼大学で教壇に立つ友人が、先生の対談集を読んだ感動を語っていた。「池田SGI会長は、信仰の確信を一方的に語るのではなく、質問に心を砕き、一流の人物の知恵や経験を見事に引き出しておられる。対話の内容はもちろんだが、対話の姿勢にも教えられることばかり」と▼どんな人に対しても誠実に振る舞い、心の善性を引き出し、友情と信頼を固く結び合っていく。我らもそうした対話を広げ、平和の礎を築いていきたい。師の行動に学びながら。

寸鉄 2022年4月13日
創価の集いは人間が蘇生する力を引き出す—識者 皆で座談会週間の成功を
「溌剌な人の元では全てが活気に溢れる」ペルシャ箴言。幹部は満々たる生命力で
妙法は上へ上へと向上していく法である—恩師。朗々たる題目で日々前進
7割がコロナ禍で直接の交流減少感じる—調査。乾いた心潤す友好対話へ
勤務先の"災害予測図"、未確認が4割超と。避難経路等は命綱。日頃から

☆輝きの瞬間 4月の広布史
◇1951年4月20日 聖教新聞の創刊
東京・信濃町の世界聖教会館の正面玄関にある「聖教新聞 師弟凱歌の碑」には、池田先生の言葉が刻まれている。
「広宣流布とは言論戦である。仏法の真実と正義を叫ぶ、雄渾なる言葉の力なくして、創価の前進はない」
事業が最大の苦境に陥った1950年8月24日、戸田先生は広宣流布の将来を見据え、新聞創刊の構想を池田先生に語った。
それから8カ月後の51年4月20日、聖教新聞は誕生した。戸田先生が第2代会長に就任する2週間ほど前のことである。
同年3月17日、戸田先生を中心に発刊に向けての企画会が開催され、「聖教新聞」との名称が決定した。この日の日記に、池田先生は記している。
「日本一、世界一の大新聞に発展せしむる事を心に期す。広宣流布への火蓋は遂にきられた」
創刊当時の発行部数は5000部。旬刊(10日に1度の発行)、2ページ建ての出発だった。編集室は新宿・百人町から市ケ谷のビルへ移った。机二つだけでいっぱいの小さな部屋だった。
この一室で制作された新聞が、学会の勢いを加速させた。その後、聖教新聞は発展を遂げ、71年1月4日から現在の日刊12ページ建てとなった。
池田先生は、「わが愛する同志への手紙」との思いで、小説を書き、詩や和歌を詠んだ。間断なき執筆闘争は、読者の心を希望の光で照らし続けてきた。
90年7月19日、聖教新聞は「1万号」の節目を刻む。この年の暮れ、宗門は広布破壊の謀略を露わにした。聖教新聞は破邪顕正の論陣を展開し、宗祖違背の体質を明らかにしていった。
来月、創刊71年。この間のさまざまな社会の変化に、本紙は対応してきた。「聖教電子版」には現在、世界210カ国・地域からアクセスがある。
時代からの挑戦に対して、聖教新聞はこれからも力強く応戦していく。「仏法の真実と正義を叫ぶ」との使命のままに。

◇1952年4月28日 御書発刊の聖業
来月の4月28日、御書発刊から70周年の佳節を迎える。
戦時中、軍部政府の弾圧によって、多くの学会幹部が退転した。"広布を進めるためには一人一人が御書を心肝に染め、揺るがぬ信心を築く以外にない"——。第2代会長に就任した翌月の1951年6月、戸田先生は御書発刊を発表した。
当時、宗門には「一生成仏抄」「生死一大事血脈抄」など、重要な御抄が欠落した不完全な御書しか存在しなかった。
だが、学会の御書編纂に対する宗門側の対応は、"了承するが援助はしない"。この時、宗門が力を注いでいたのは、「梵鐘(寺の鐘)」の鋳造だった。結局、学会が一切の費用と校正作業の人員を出し、御書発刊に総力を挙げた。
当時、池田先生は、依然として厳しい状況にあった恩師の事業を支えていた。その中で、御書発刊の資金調達や御書に使う紙や表紙の羊皮の手配、印刷所との交渉など、聖業の成就に走り抜いた。
連日連夜にわたる校正作業を経て、立宗700年の日の52年4月28日、御書は発刊された。恩師は述べている。
「今度の事業は、じつにたいへんだった」「学会の名誉、盛衰にまでひびいてくることを思いながら、かならず完成してみせる確信だけは終始不変だった」
発刊の際、戸田先生は池田先生に御書を贈った。その見返しに、恩師は一首の和歌をしたためた。
「山を抜く 力はみちたり 若き身に 励み闘へ 妙法の途に」
その後、世界広布の伸展とともに、御書は10以上の言語で翻訳・出版される。仏法研さんの喜びは今、地球を包む。
昨年11月には、最新の研究を踏まえて「御書新版」が発刊された。この月の本部幹部会に、先生はメッセージを寄せている。
「地球文明の針路を示す確固たる希望の聖典が求められてやまない今こそ、教学という最も普遍的な生命尊厳の哲理を掲げて、世界市民の大連帯をいよいよ広範に築いていく時であります」

◇1982年4月15日 常勝の魂光る「神戸の日」
「神戸の日」の淵源である、1982年4月15日、神戸市立中央体育館で行われた「本部幹部会」は、劇的な集いとなった。今年で40周年を迎える。
当初は兵庫の幹部会として、聖教新聞にも告知記事が掲載されていた。それが本部幹部会に変更となったのである。
前年秋、四国から本格的な反転攻勢が開始された。神戸での本部幹部会は、その集大成であった。新たな前進を開始する号砲が、兵庫から打ち鳴らされたのである。
兵庫の同志はこの日に向け、ブロック1の弘教を達成し、意気軒高であった。そして当日の朝、急きょ、池田先生の出席が、兵庫のリーダーに伝えられた。
参加者たちは、そのことを知らないまま会場へ。先生が舞台袖から入場すると、爆発的な拍手と歓声が場内を包んだ。先生の提案で、万歳が行われ、婦人部のひまわり合唱団が歌を披露した。
会長辞任の本部総会以降、先生の本部幹部会の出席は、79年11月、81年7月の2回のみ。長時間のスピーチは一度もなかった。およそ3年ぶりとなる、先生の本部幹部会の指導が始まった。
冒頭、ユーモアを込めて、「皆様方の祈りをはじめ、代表の幹部が『ぜひとも兵庫の幹部会に出席願いたい』とつきまとうので、参加させていただいた次第です」と語ると、会場から拍手が起きた。
そして、「兵庫の広布の地は、最も重要な地であることは論を待たない」と強調。さらに、大確信の励ましを送った。
「多くの御書に、魔と戦い、難を乗り越えよとの御金言が説かれています」「師子のごとき力を持ち、ありとあらゆる社会のなかにあって、堂々と生き抜いていける自分をつくることだ」
この兵庫の滞在中、先生は「今後10年間、兵庫に力を入れるよ」と。ちょうど10年目となる91年8月、兵庫池田文化会館が堂々と開館。大震災から不死鳥のごとく立ち上がり、復興の歩みを重ねてきた兵庫は、関西、全国を牽引する、広布模範の天地である。

◇1978年4月 15日 埼玉文化合唱祭 23日 三重文化合唱祭
1978年は全国各地で合唱祭が企画されていた。その開幕を飾ったのは埼玉である。
4月15日、大宮市(現・さいたま市)で埼玉文化合唱祭が開催。小鳥がさえずり、春の日差しが降り注ぐ、"歌の祭典"となった。
「母」「人間革命の歌」などが次々と披露され、埼玉の友の躍動の歌声が、青空に響き渡った。
出席した池田先生は、音楽や歌声は万人の心を結ぶ"文化の懸け橋"となることを強調し、学会の文化運動の意義を語った。
「学会の合唱祭や文化祭の重要な意味は、それを通して一人ひとりが信心を磨き、友情を深め、強い確信に立ち、発心の契機にしていくことにこそあります」
合唱祭の終了後、先生は地元の寺の住職らと懇談の機会を設けた。当時、宗門の悪僧らによる学会攻撃が各地で強まっていた。先生は会員を守るため、矢面に立ち、生命を削り続けた。
23日には、午前・午後の2回にわたって開催された三重文化合唱祭に出席。当初、学会の師弟の絆を嫌う宗門を刺激しないよう、婦人部の愛唱歌「今日も元気で」は歌わない方向になっていた。
三重の母たちにとって、到底、納得できることではなかった。"師匠を求める私たちの思いがこもった歌を、どうして歌うことが許されないのか!"。この怒りにも似た思いが通じ、「今日も元気で」は合唱祭で歌われることに。発表を聞き、歓喜で涙を浮かべるメンバーもいた。
(♪うれしい時も かなしい時も
 かわす言葉は
 先生 先生 われらの先生
会場の三重研修道場に、師弟共戦の誓いの合唱が轟いた。先生は友の演技をたたえつつ、語った。
「互いにひとたび決めた道、信心の道、同志の誓いの道を忘れないで前進したい。私たちは、朗らかに信心の功徳を満喫しながら人生を送るのである」
78年は、先生が数多くの学会歌を制作した年でもある。宗門からの理不尽な攻撃が続く中、不屈の地涌の歌声が列島に広がった。