2022年4月15日金曜日

2022.04.15 わが友に贈る

急激な気温低下に注意し
外出時の服装など工夫を。
体調を崩さないように
十分な睡眠を取り
聡明な生活を心掛けよう。

御義口伝巻下 P781
『法華経を持ち奉る処を当詣道場と云うなり此を去つて彼に行くには非ざるなり』

【通解】
法華経を受持する所を「当詣道場」というのである。この娑婆世界を去って、極楽浄土等の他の国土へ行くことではない。

名字の言 苦難に遭うたび思い出す「母の背中」 2022年4月15日
「なつかしい母の背中」という題名のエッセーを、詩人・三木卓氏がつづっている。3歳の時にポリオを患い、左足にまひが残った。母はそんな息子を背負い、いくつも病院を駆け回った▼結局、左足は治らなかった。だがその後の人生で苦難に遭うたび、「よく、母親の背中を思い出した」と氏は書いている。"わが子のために"との行動が、背中のぬくもりを通して生きる力を与えたのだろう(『もういちど考えたい 母の生きかた 父の生きかた1』ポプラ社)▼3人の子をもつ女性部員が、ステージ4の乳がんと診断されたのは2007年の春。「5年後の生存確率は約2割」と宣告され、抗がん剤を投与する通院治療が始まった▼「仏間には、いつも朗々と祈る母の"背中"がありました」と子どもたちは語る。その背中を見て一緒に勤行するようになり、題目の声に母の無上の愛を感じたという。女性部員は寿命を延ばし、最期まで広布に生きる姿を見せた▼池田先生は「親の背中を見ながら、子は育ち、信心という『志』を受け継いでいく」と教える。子育てとは究極、親の生きざまを示すこと。先の3人の子は長男が今春就職し、次男と長女も勉学に励む。負けそうな時は、かつての母の"背中"を思い出す。

寸鉄 2022年4月15日
「志をかさぬれば、他人よりも色まさり」御聖訓。生涯信心を貫く人が勝者(新1690・全1221)
「神戸の日」40周年。常勝の旗頭の誇りで先駆の拡大を!新時代を断固開け
誰もが等しく仏子であり宝塔である—戸田先生。無限の可能性を共に開花
自粛の影響で高齢者の心身機能低下が顕著。軽い柔軟でもOK。健康第一
情勢悪用した義援金詐欺相次ぐ。メールやSNSで横行と。冷静に対処を

〈社説〉 2022・4・15 連載「ぶら〜り文学の旅」が好評
◇良書との出合いが人格を磨く
本紙の連載コラム「ぶら〜り文学の旅」(村上政彦執筆、水曜日付6面・月2回)が50回を超えた。
文学に関心を抱く読者からは「『本を手にして想像の旅に出よう』との書き出しで始まるこの連載をいつも楽しみにしています」等の声が寄せられている。
本連載の狙いは、日本文学の名作とその舞台となった地域を取り上げつつ、文学の魅力を再考しようとするもの。毎回、作品の内容や地域の特徴について、執筆者の視座を交えつつ、軽妙な筆致で紹介している。
これまで、美しい景色と悲しい恋物語を描いた名作『雪国』(川端康成)、明治の文学史を彩る純愛小説『野菊の墓』(伊藤左千夫)、生の現実をまがまがしくつづった芥川賞受賞作『岬』(中上健次)など、多くの名著を紹介する一方、随筆家・武田百合子の『富士日記』、ノンフィクションの名手・山際淳司の『スローカーブを、もう一球』、川崎洋の詩集『海があるということは』と幅広い分野を扱ってきた。
北海道在住の友人読者からは「子どもたちや保護者が、日本文学の名作に触れていく『入り口』になるようなコラムの内容だと思います」との反響があった。
学会員の兄から聖教新聞の購読を勧められた、この70代男性は、かつて中学校の国語教員を務めていた。現在、自宅を「図書館兼子ども食堂」にし、「人生を通じて活字文化に触れていく若い世代を育成したい」との志を貫いている。
優れた文学作品は、子どもたちの想像力を育み、良き心を養う。人生を豊かにする——読書に親しむ人々に共通する実感であろう。
世界の作家や文学者と対談を重ねてきた池田大作先生は、こう述べている。
「時代を変えるのは、武力、権力よりも、言論の力、文化の力です。また、そうでなければならない。言葉の力は、人の『心』を変える力があり、その変革こそ、恒久的にして本質的な歴史の前進になるからです」
「良書との出合い」は人格を磨き、人間の精神を高める。
今月末、47都道府県を網羅して終了予定の同連載は、来月から「海外編」として、より多彩な作家・作品を取り上げていく。
これからも、しなやかな知性と豊かな人間性を育む、良質な文学作品を紹介していきたい。

☆ヒーローズ 逆境を勝ち越えた英雄たち 第18回 レオナルド・ダ・ヴィンチ
〈レオナルド・ダ・ヴィンチ〉
苦労せざるものは幸運に値せず。
何事もまずやってみよう!
経験してから先へ進むのだ。

創価大学の本部棟ロビーに立つ「レオナルド・ダ・ヴィンチ像」。台座を含む高さ4・8メートルの堂々たる威容は「ルネサンスの巨人」をたたえるのにふさわしい。
画家、科学者、音楽家、舞台演出家、軍事顧問……。一人の人間とは思えぬほど、多彩な分野で秀でた才能を発揮したレオナルド・ダ・ヴィンチ。「モナ・リザ」や「最後の晩餐」などの不朽の名作を生んだことで知られるが、現存する作品は少なく、そのほとんどが未完成だ。今月で生誕570年を迎える彼の生涯は、今なお多くの謎に包まれている。
人呼んで「万能の天才」。だが決して恵まれた環境にいたわけではない。1452年4月、イタリアのフィレンツェ近郊のヴィンチ村に生まれたダ・ヴィンチは、家督を継ぐ資格がなく、正式な学校教育を受けることができなかった。複雑な計算やラテン語は苦手で、自身を「無学の人」と言うこともあった。
内に秘めた無限の可能性を引き出したもの——それは、飽くなき探究心と向学心にほかならない。
彼は自らを「経験の弟子」と称し、ノートに「私の専門分野に必要なのは他者の言葉ではなく経験である」「私はまず実験をしてから先へ進む」等と記した。
14歳のころ、フィレンツェの指導的芸術家ヴェロッキオに弟子入りし、卓越した才能が開花する。
当時の代表的な作品が、師匠に協力して制作した「キリストの洗礼」。ダ・ヴィンチは精巧な天使を描き、ヴェロッキオを驚愕させる。同時期に単独で手掛けた「受胎告知」は、天使の羽を、実際の鳥の羽を思わせるほど忠実に表現した。
さらには、師匠から絵画技術のみならず、鋳造、数学、工学など多くのことを学び、後の成功の基礎を築いていった。
「苦労せざるものは幸運に値せず」「ありとあらゆる仕事もわたしを疲らせようとはしない」——ダ・ヴィンチの生き方は「万能の天才」が「努力の天才」だったことを物語っている。

〈レオナルド・ダ・ヴィンチ〉
障害は私を屈せしめない。
あらゆる障害は
奮励努力によって打破される。

師ヴェロッキオから独立し、30歳になったダ・ヴィンチは、活動の舞台をフィレンツェからミラノに移す。
この地で過ごしたのは17年。画家として「最後の晩餐」等の制作に取り組みながら、ミラノ公の結婚を祝う舞台演出や、教会建築など、多方面で活躍を見せ、宮廷から高く評価された。「黒死病」として恐れられたペストが大流行した際には、都市構造の改革を構想している。
ミラノ時代は自身の研究に一段と打ち込んだ期間でもあった。その分野は解剖学をはじめ、工学、物理学、水力学など多岐にわたる。
彼の思考をたどる上で手掛かりとなる手稿は、現存するもので7200枚以上あるとされる。それらは「人間の観察力と想像力のすさまじさを見せつける比類なき記録」と評され、内容は研究分野の考察から計算式や寓話、絵画のデッサン、人体のスケッチまで万般に及ぶ。
人生論ともいうべきダ・ヴィンチの手記には——
「鉄が使用せずして錆び、水がくさりまたは寒中に凍るように、才能も用いずしてはそこなわれる」
「障害は私を屈せしめない。あらゆる障害は奮励努力によって打破される」等——とある。
現状に甘んじず、経験と実践を重んじる彼の信念は、晩年になっても変わらなかった。
1499年、フランス軍の侵攻によりミラノを去ることになったダ・ヴィンチは、各地を転々とする。その中でフィレンツェ政府から依頼を受け、政庁舎の大広間を飾る壁画「アンギアーリの戦い」に着手。「モナ・リザ」もこの頃に制作を開始したと考えられている。また、運河の工事や解剖学の共同研究を行うなど、挑戦と探究の姿勢は衰えることはなかった。
ダ・ヴィンチが生きたイタリアのルネサンス期は、政治的には未曽有の混乱期にあった。それでも彼は、67歳で人生の幕を閉じるまで、自らが決めた使命の道を真っすぐに歩み抜いた。「星の定まれるものは左顧右眄しない」と。
「可愛想に、レオナルドよ、なぜおまえはこんなに苦心するのか」とは、ノートに残された魂の叫びである。彼の仕事のほとんどは未完成に終わった。だが、この言葉こそ、前進を止めなかったダ・ヴィンチの「創造的人生」を象徴していると言えよう。

〈レオナルド・ダ・ヴィンチを語る池田先生〉
生きている限り、
使命の行動を「続ける」。
この決心が人生の天才をつくる。
正義も幸福も「続ける」という
一言の中に凝縮している。

かつて池田先生は語ったことがある。万般の学問に価値創造の探究を広げていったダ・ヴィンチの姿は、恩師・戸田城聖先生と二重写しになる、と。
そして、ダ・ヴィンチの生涯や言葉、作品を通し、世界に平和・文化・教育の光を広げてきた。
1994年6月には、イタリア・ボローニャ大学で「レオナルドの眼と人類の議会——国連の未来についての考察」と題して講演。仏法の知見から、人間革命の哲学に通じる「自己を統御する意志」と、月々日々に新たなる完成を目指す「間断なき飛翔」こそ、彼から学び、継承していくべき精神遺産であると述べた。
99年11月、創価大学の本部棟ロビーにダ・ヴィンチの立像が設置された。先生は除幕式直後の集いで、ダ・ヴィンチ像の研ぎ澄まされた眼に言及。青年たちに「森羅万象を見通しゆく『探究の眼』」「生き生きと輝きわたる『創造の眼』」「何ものにも臆さぬ『信念の眼』」「遠大な未来を展望しゆく『哲学の眼』」をもってもらいたいと訴えている。
さらに、先生自身が創立した東京富士美術館の海外文化交流特別展として、2015年に「レオナルド・ダ・ヴィンチと『アンギアーリの戦い』展」が実現。同展はその後、京都、愛知、福岡などでも開催された。
ダ・ヴィンチの箴言を紹介した創価の同志への指導も数多い。
「彼は死を目前にして、なお『私は続ける』と書いている。
最後まで『努力』、どこまでも『挑戦』、限りなき計画と実行の『持続』『連続』——この、たゆまぬ前進が、『天才』の実質であった。
生きている限り、私は『戦う』。使命の行動を、私は『続ける』。この決心が、人生の天才、幸福の天才をつくっていく。
正義、健康、勝利、幸福、和楽、栄光——すべて、この『私は続ける』という一言の中に凝縮している」(1992年6月28日、イタリア芸術音楽祭でのスピーチ)
「『困難なにものぞ。努力の前には如何なる困難もなし』
わが愛する『創価ルネサンス』の旗手たちよ、どんな困難も恐れるな! 我らには『勇猛精進』の努力がある。最強無敵の『法華経の兵法』がある」(本紙2012年12月7日付「随筆 我らの勝利の大道」)
2008年12月、後継の友に贈った長編詩で先生は詠んだ。
若き私の心に響いた
レオナルドの言葉——
それは
「新しいものを
新たに
自分で創ろう」であった。