「日蓮が弟子等は
臆病にては叶うべからず」
信心とは最極の勇気だ。
自他共の幸福境涯を開く
正義の語らいを広げよう。
(新1675・全1282)
最蓮房御返事 P1343
『劫初より以来父母主君等の御勘気を蒙り遠国の島に流罪せらるるの人我等が如く悦び身に余りたる者よもあらじ』
【通解】
この世界の初め以来、父母・主君のお咎めを受け遠国に流罪された人で、私達のように喜びが身にあふれている者は、まさかいないであろう。
名字の言 農業の世界の言葉「苗半生」とは? 2022年4月22日
春に降る雨の呼び名は多いが、今の時季は「百穀春雨」といわれる。さまざまな農作物を潤す、春の柔らかい恵みの雨。いよいよ本格的な農耕シーズンに入る▼農業の世界に「苗半生」という言葉がある。苗の時期の生育状況で、その後の成長や収穫が大きく決まるという意味。あらゆる植物に共通する方程式のようだ▼「人間でいえば『三つ子の魂百まで』ということですかね」と説明してくれたのは、北海道の野菜農家。「幼い時に形成された性格が年を取っても影響を与えることがあるように、野菜たちも苗の時期にクセがつくと、成長してもなかなか消えません。苗半生は自然と共に生きた先人の知恵の一つと思います」▼日蓮大聖人が「心田に仏種をうえたる」(新203・全286)と仰せのように、広宣流布に生きる私たちの対話は、友の心の田んぼ(心田)に幸福の種(仏種)をまく作業といえる。幸福の花を咲かせるには種をまいてからが重要であり、育てる努力を丁寧に重ねる必要がある▼コロナ禍も長期化し、ともすれば友人と疎遠になりがち。一人一人を大切にし、信頼の絆を強めていってこそ希望の未来は生まれる。新しい世界が開かれる。さあ、きょうも友の心に春風を送る対話を!
寸鉄 2022年4月22日
きょう本部幹部会が開始 会館・配信等で視聴。さあ「5・3」へ全員で大行進
「法華経を持ち奉るより外に遊楽はなし」御書。題目の人は強い。朗らか(新1554・全1143)
真の民衆運動は一人一人を高い精神へ導く—アメリカ学者 人間革命こそ時代の先端
地球の日。環境を守る事は我らの生命を守る事。依正不二の智慧を世界に
アレルギー対策の充実へ基本指針改正。公明が一貫して推進。更に強化を
☆栄光の共戦譜 第4回 1963年(昭和38年)「教学の年」
◇私こそ"広布の責任者"との自覚で
池田先生の第3代会長就任60周年を記念して発刊された年譜『栄光の共戦譜』には、黄金の"師弟の足跡"がとどめられている。本連載では、年譜を1年ごとに追いながら、現在の広布の活動に通じる"学会の原点"を確認していく。第4回は、「教学の年」と銘打たれた1963年(昭和38年)を掲載する。
◇「6・21」奄美大島の初訪問
1963年(昭和38年)6月20日、池田先生は5日間にわたる九州指導へ。21日、鹿児島県の奄美大島を初訪問した。
先生は会長就任以来、離島の友を激励して回りたいと念願していた。奄美大島を含めた奄美群島は、53年(同28年)12月にアメリカから日本に返還され、その後、仏法の種子が蒔かれた。
弘教の波が広がる中で、奄美の友は、学会に対する中傷を受け、村八分に遭うこともあった。しかし、悔し涙をこらえ、愛する島を走り抜いた。先生が来島する頃には、会員世帯は6000世帯を大きく上回っていた。
"広布のために苦労に苦労を重ねてきた同志を最高にたたえよう"——交通手段が発達していない当時、先生は小さなプロペラ機で徳之島に入り、そこから奄美大島まで船で渡った。
先生は到着するやいなや、総支部結成の手を打った。22日の午前、奄美大島会館の落成式が行われ、午後には、3支部(奄美大島支部、名瀬支部、古仁屋支部)から成る奄美総支部の結成大会が開催されたのである。
大会の席上、先生は、「自分を幸福にするのは、他人ではありません。科学でも、また、政治でもありません。自己自身の一念であり、自らの生命を開きゆく尊き信心にあります」と指導。時代の先端を行く"信心の勇者"として、最高の幸福境涯を開いていくことを念願した。
この日の夜、奄美の友に贈るため、戸田先生の和歌を次々としたためた。
「辛くとも 嘆くな友よ 明日の日に 広宣流布の 楽土をぞ見ん」
奄美の同志にとって、"師弟の誓い"こそが、地域を楽土へと転じる大きな原動力となった。魂の原点である6月22日は「奄美の日」として輝く。
◇「9・1」学会本部が落成
戦後、学会の再建に着手した戸田先生は、出版事業の事務所として、東京・西神田にあった3階建ての建物を購入。この2階に学会本部が置かれた。1951年(昭和26年)の男女青年部結成式など、草創の多くの原点が刻まれた。
戸田先生が第2代会長に就いた2年後の53年(同28年)11月、学会本部は信濃町に移転。第3代会長に就任した池田先生もここで指揮を執った。
63年(同38年)9月1日、新たな学会本部が信濃町に落成した。恩師の遺言であった300万世帯を達成した翌年のことである。池田先生は落成式で述べた。
「本部は、広宣流布の法城です。民衆救済に戦う勇者の城です」「不幸な人びとの味方となり、皆が、私こそ広布の責任者であるとの自覚で、堂々と指揮を執っていただきたい」
先生は、この本陣から、世界を舞台に"民衆救済のドラマ"をつづり残した。後に、9月1日は、学会本部落成の意義と「学会厳護」の誓いを込め、男子部人材グループ「牙城会の日」に制定された。
21世紀に入り、創価の連帯は192カ国・地域にまで拡大した。
世界広布新時代を迎え、先生は「生まれ変わったような、世界一の『創価城』『広宣城』をつくっていく。海外から来られた方々も、悠々と、ゆっくりできるような『本陣』を、一段と整備していく」と。2013年(平成25年)11月には、広宣流布大誓堂が完成した。
西神田、信濃町の学会本部で、創価の師匠が「慈折広宣流布大願成就」を祈り抜いた「学会常住御本尊」は、同大誓堂に安置されている。
今や学会の総本部は、民族や言語を超えて、世界中の同志が共に師弟の誓願をとどめる"師弟の大法城"となっている。
◇「10・18」民主音楽協会を創立
1963年(昭和38年)10月18日、民主音楽協会(民音)の創立記念演奏会が開催された。先生は出席できなかったが、この日、民音の首脳たちに述べた。
「私は、『世界の民音』に育てたいと思っている。『民音があって、音楽は蘇った』『民音があって、新しい、最高の音楽が生まれた』『民音があって、民衆の心と心が結ばれ、世界が結ばれた』と言われるようになるんだ」
先生は、61年(同36年)1月、アジア初訪問の旅へ。長兄が戦死したビルマ(現・ミャンマー)で平和を祈念した翌日、タイで音楽・芸術などの幅広い交流を目的とした団体の設立構想を語った。
人類が戦争と決別して平和を築くためには、民衆の相互理解を促進する芸術、文化交流しかない——それが、先生の確信であった。
名称を検討する段階では、「民衆音楽協会」との意見もあった。だが、"民衆こそが国家、社会の主人であり、音楽、芸術を育成する主役"と、「民主音楽協会」と提案したのは、先生である。
創立の折、民音のスローガンが発表された。その中にあるのが、「日本の音楽家を育成し、その優秀な作品、並びに演奏を、広く内外に紹介する」である。
民音は「東京国際音楽コンクール〈指揮〉」の主催を手掛け、同コンクールは、世界の若手指揮者の登竜門になった。
さらに、「学校コンサート」といった文化事業や、世界各地での文化交流を展開。民音の文化交流は112カ国・地域にまで広がっている。先生自ら、公演の出演者や関係者に激励も重ねてきた。
ある民音公演の後、先生は「文化」に寄せる万感の思いを記した——「文化は世界の永遠の虹/文化は人間の幸福の大地/文化は平和の絢爛たる大花」
◆年表◆ 1963年
〈1月8日〉
アメリカ・欧州・中東・アジア訪問(〜27日。アメリカ、フランス、スイス、イタリア、レバノン、タイ、香港)
アメリカでハワイ(8日)、ニューヨーク(13日)に支部を結成
フランスでヨーロッパ総支部、パリ支部を結成(16日)
香港の支部大会で香港を幸福の花園に変えゆくよう望む(26日)
香港から帰国する際、飛行機便が台北経由に変更となり、台湾の同志と予期せぬ対面。"冬は必ず春となる"と励ます(27日)
世界を一周する激励行となった
〈3月16日〉
青年部主催の初の弁論大会(東京)
〈4月5日〉
関西指導(〜7日。京都、大阪、和歌山)
〈5月3日〉
第25回本部総会(東京)
〈6月3日〉
東京第1本部幹部会(東京)
〈6月20日〉
九州指導(〜24日。鹿児島、宮崎)
徳之島から船で奄美大島を初訪問(21日)
奄美大島会館落成入仏式(22日)
〈7月28日〉
第1回言論部全国大会(東京)
〈7月30日〉
中部第2本部幹部会(長野)
〈9月1日〉
新学会本部落成式(東京・信濃町)
〈9月15日〉
京都大学に学ぶ学生部員に「百六箇抄」講義を開始(兵庫)
〈10月18日〉
民主音楽協会(民音)を創立
民衆のための新しい音楽運動の創造、音楽を通した国際交流の推進を掲げる
〈民音の海外との文化交流はこれまでに112カ国・地域に及ぶ〉
〈11月3日〉
関西・四国指導(〜5日。兵庫、愛媛)
関西文化祭(3日、兵庫・甲子園球場)
〈11月22日〉
九州指導(〜24日。鹿児島、福岡)
〈11月23日〉
ケネディ米大統領の不慮の死に対し、ホワイトハウスとアメリカのメンバーに弔電を打つ