溌剌とした挨拶は
皆に活力を送る。
朗らかな交流を生む。
新天地で出発した友よ
周囲を照らす太陽たれ!
最蓮房御返事 P1343
『我等が居住して一乗を修行せんの処は何れの処にても候へ常寂光の都為るべし、我等が弟子檀那とならん人は一歩を行かずして天竺の霊山を見本有の寂光土へ昼夜に往復し給ふ』
【通解】
私たちが住んで、法華経を修行する所は、どんな所であれ、常寂光の都となるであろう。私たちの弟子檀那となる人は、一歩も歩むことなくして、天竺の霊鷲山を見、本有の寂光土へ昼夜に往復されるのである。
名字の言 病苦さえ笑い飛ばすような正岡子規の心 2022年4月5日
作家の正岡子規は病と闘いながら執筆を続けた。だが彼の文章には、それを感じさせない明るさがある▼ある時は病床でガラス細工の金魚が入った置物を見て、こうつづった。「痛い事も痛いが綺麗な事も綺麗ぢや」(『墨汁一滴』岩波文庫)。病苦さえ笑い飛ばすような彼の心は、実に伸びやかで自由だった▼宮崎県西都市のある女性部員は3年前、夫が若年性アルツハイマー病を発症した。記憶を失う不安、つらさ、いら立ちで表情は変わり、暴言を浴びせる夫に戸惑い、涙したことも。懸命に祈った。すると、一緒に学会活動に励んだ楽しい日々が次々とよみがえった。"二人で積んだ「心の財」は永遠に消えない"。そう確信して祈り、夫に接すると、症状が落ち着き、笑顔まで見せてくれるように▼人の名前も字も忘れた夫だが、命に深く刻んだ題目は忘れなかった。今、夫妻の日課は朝夕の唱題。そして地域のマラソン大会に向けて練習に汗すること。「私たち、今が一番幸せかも」と照れ笑いする彼女の姿が印象的だった▼人の幸・不幸を決めるのは誰かではない。自分の心だ。心を強くし、豊かにすれば、どんな試練さえ幸福の糧にしていける。仲むつまじい夫妻の歩みが、それを物語っていた。
寸鉄 2022年4月5日
列島彩る「女性部総会」。部結成1周年に喜び集う今こそ平和の連帯を拡大
外に味方をつくれ—戸田先生。青年よ誠実一路の行動で信頼と友情広げよ
真に必要な学問はどう生きるべきかの学問—文豪トルストイ 学会は"人生の総合大学"
歩きスマホは危険!視覚障がい者と正面衝突のケースも。油断が大事故と
感染禍でがんの検診控え多し—医師。早期発見・治療が不可欠と。聡明に
☆君も立て——若き日の挑戦に学ぶ 第15回「夕張炭労事件〈上〉」 心の暖炉に希望の火を赤々と
◇【学生部への指針】
一、戦う学生部たれ!
一、正と邪を、はっきりさせる学生部たれ!
一、学生部、ここにあり、という旗を立てよ!
(「第1回全国学生部幹部会」〈1997年4月15日〉のスピーチから)
◆いわれなき弾圧
「16年前のあの日、僕は、北海の地にいた。吹き上げる人間讃歌の声を阻む、かたくなな勢力は、あの時も怒濤となって、荒れ狂っていた」——。1973年(昭和48年)6月30日、池田先生は、学生部結成16周年に際し、メッセージを寄せた。そこには、16年前に起こった「夕張炭労事件」での真情が克明に記されていた。これは、学生部結成と切り離すことのできない歴史である。
「青年らしく、貧しき人々の家々を訪ね、窓辺に勇気の花を咲かせ、心の暖炉に希望の火を赤々と灯した。この人々のために、僕は邪な行為を憎んだ。分厚い壁を前に、一歩も退くことは、できなかった」
「夕張炭労事件」が起きたのは57年(同32年)。同年5月、炭労(日本炭鉱労働組合)が、新たな民衆勢力として躍進する学会を敵視する方針を打ち出した。相前後して、北海道最大の炭労組織・夕張炭労が、本格的な学会員の排斥に動き出した。
当時、炭労といえば「泣く子と炭労には勝てない」といわれるほど、組合員に対して絶大な権力を誇っていた。
夕張での学会員に対する圧力は、前年の夏頃から始まっていた。参院選で、学会推薦の候補が台頭したことがきっかけだった。炭労の組合は、学会員の日常生活の細部にまで首を突っ込んだ。圧力は次第に陰湿化し、悪意のビラがあちこちに貼られ、有線放送を使ってあらぬ中傷まで流された。
組合に所属する学会員の勤務態度は非常に良好であり、一人一人が職場で実証を示していた。"仕事で貢献しよう""地域を良くしよう"と活動する学会員に対する圧力は、いわれなき弾圧にほかならなかった。
大人だけでなく、子どもまでもが村八分にされた。当時のメンバーは手記につづっている。「私たちがとやかく言われたり、いじめられたりするのは、少しも苦しくありませんでした。でも、子どもが仲間に入れてもらえない、と小さな胸を痛めている姿、じっと我慢している姿を見るたびに涙が後から後から流れました」
信心の世界が、最高に愉しく、美しい。
指導に行くことは、結局、自身が、
指導を受けに行くようなものだ。
【「若き日の日記」1957年(昭和32年)6月1日から】
◆タンポポの笑顔
夕張に弘教の波が広がり、地区が誕生したのは1955年(昭和30年)秋のこと。夕張地区は文京支部に所属した。
57年(同32年)1月13日、文京支部長代理だった池田先生は、厳寒の夕張を初めて訪れた。
先生は、札幌から汽車で鹿ノ谷駅に到着。辺りは猛吹雪だった。当時は石炭の汽車で、先生の顔、コートは、すすで汚れていた。
「みんなが大変ななか、どんな思いで東京まで来ているか、それを分かち合おうと、きょうは汽車で来ました」と、先生は語った。
夕張に到着する前日、先生は日記につづっている。「厳しき、怒濤にたゆまず、挑みゆく師弟」「明日は、独り北海道だ」(『若き日の日記』、1957年1月12日)
この時、先生は「山口開拓指導」の陣頭指揮を執っており、山口訪問の予定も控えていた。激務の合間を縫って夕張を訪れ、一人一人の心に"希望の明かり"をともしたのである。
ある男性には、格言を贈った——「見るもよし 見ざるもよし されど我は咲くなり」。誰がどう見ていようが、見ていなかろうが、自ら決めた信念を貫く。それは、恩師・戸田先生を支え抜く池田先生の生き方そのものであった。
また、ある女性に対しては、「ふまれても ふまれても なほ咲くタンポポの笑顔かな」と、ノートに記した。"どんなことがあっても明るく前進を"との強い思いが込められていた。
5カ月後、炭労から学会員への弾圧は、いよいよ激しさを増していった。
ある炭鉱では、組合の役員が"創価学会の信心は、組合の団結を崩している。このままでいけば、組合を辞めてもらうより仕方がない"と迫った。
夕張の学会員の多くは、炭鉱で働く組合員である。会社と組合はユニオンショップ制で、組合員の資格を失うことは、即会社からの解雇を意味していた。しかし、メンバーたちは、弾圧に屈することなく、求道の炎をいっそう燃やした。
6月27日、北海道炭労は「創価学会撲滅闘争」なるスケジュールを打ち出し、7月からの3カ月間で、学会員の改宗に当たることなどを示した。それは、一宗教団体への弾圧にとどまらず、「信教の自由」という人間の権利を踏みにじる、卑劣極まりない暴挙であった。
池田先生は、夕張の同志が直面している状況を聞くと、深く心に誓った。
"彼らを断じて守らねばならぬ!"
炭労は学会に対し、"公場対決"を要求。その日は7月4日と決まった。6月29日には、地元紙による紙上討論会が学会と炭労の間で行われることになった。
28日、池田先生は北海道の地を踏む。28・29日と札幌で討論会に出場する幹部らを激励し、「何事も学会精神だ。討論会といっても、根本は折伏精神です」と勝利の要諦を伝えた。
討論会が終わると、録音テープを聞きながら、先生は言った。
「成功だったね、こちらの勝ちだ」
時を同じくして夕張から電話が入った。炭労側から"公場対決"中止の申し入れがあったのである。先生は、すぐさま夕張へと向かった。
◆「先駆の誇り」を託す
「私が来たからには、もう心配することはありません」——。夕張に到着した池田先生は、弾圧に苦しんできた同志を抱きかかえるように激励した。
「創価学会は、真実の民衆の団体です。初めから勝負は決しているのです」
夜の会合では、「うるし千ばいに蟹の足一つ入れたらんがごとし」(新1435・全1056)との御書の一節を引いた。信心で積んだ福徳も、少しの謗法で無に帰することを例えた御文である。
先生はこう強調した。
「どんな障魔も、この純粋な信仰で打ち破ることができるのです。正義の学会を弾圧するものは、御書に照らして衰退することは間違いありません」
先生の渾身の励ましは、夕張の同志の勇気を沸き立たせた。
6月30日、先生は2度にわたり、炭労との会見を申し込むが、炭労側は会うことすら拒んだ。対決から逃げ、会見を拒否する炭労に対し、先生は追撃の手を緩めなかった。それは、この先も、炭労が学会員への弾圧を続けかねなかったからである。先生は、7月1日に札幌で、2日に夕張で予定されていた、炭労への抗議集会の準備を入念に進めた。
30日の朝、先生は東京に宛てて1通の電報を打つ。「新しき世紀を担う秀才の集いたる学生部結成大会、おめでとう。会長先生のもとに、勇んで巣立ちゆけ」
その日、東京・麻布公会堂で開催される、歴史的な学生部結成大会に向けたものだった。青年室長だった先生は、この日を心待ちにしていた。恩師の悲願でもあった学生部の結成に向け、学生たちを支え続けてきたからである。
夕張炭労事件が吹き荒れる中にあって、前月の5月には、学会の"先駆の自覚"を持つことを学生たちに直接訴えた。6月に入ると、中心者と結成大会について懇談。10日には、結成の日に向けて奮闘する学生たちに、"存分に戦って、立派な大会を開いていただきたい"と万感の励ましを送った。
そして30日、先生が北海の地を奔走する中、学生部は、大きな期待を受けて産声を上げたのである。
夕張炭労事件の渦中で生まれた学生部の使命は、庶民を守り抜く慈悲と英知のリーダーの輩出にほかならない。
結成から65年の間、池田先生は学生部に深い慈愛を注ぎ続けてきた。部結成60周年に際して、激変する時代を生きる学生たちに、こう期待を寄せた。
「真の地涌の学徒には、悲嘆も、失望も、諦めもない。ただあるのは、前へ前へと進みゆく、逞しき楽観主義と不屈の負けじ魂である」「一閻浮提広宣流布という永遠の人間共和の大建設を、私は全世界の創価家族と共に、すべて『先駆の誇り』の学生部に託したい」
英知の学生部が、"人間共和の大建設"へ民衆の連帯を広げゆく時、未来の大空は希望と平和の光に包まれていくに違いない。