2021年5月27日木曜日

2021.05.27 わが友に贈る

御書を開けば
胸中に太陽が昇る。
一切を勝ち開いていく
不屈の力と智慧が湧く。
"実践の教学"で進もう!

兵衛志殿御書 P1095
『真実の経の御ことはりを代末になりて仏法あながちにみだれば大聖人世に出ずべしと見へて候、喩へば松のしもの後に木の王と見へ菊は草の後に仙草と見へて候、代のおさまれるには賢人見えず代の乱れたるにこそ聖人愚人は顕れ候へ』

【通解】
真実の経の理によれば、時代が末法となり、仏法が非常に乱れたときには、大聖人(仏)が必ず世に出現するとあります。たとえば、松は霜が降りてのちも枯れないので木の王といわれ、菊は、ほかの草が枯れたのちにも、なお花を咲かせるので「仙草(せんそう=妙なる草)」といわれるのと同じです。世の中が平穏なときには、だれが賢人であるか分からない。世の中が乱れているときにこそ、聖人と愚人はあきらかになるのです。

名字の言 「大田区」の名の由来 2021年5月27日
東京・大田区の区名には由来がある。もともと「大森区」「蒲田区」という二つの区があった。それが1947年3月に合併。「大」と「田」の一字ずつを取って命名された▼池田先生は少年時代の思い出を双方の地で残している。大森で家業の海苔製造業を手伝い、家計を助けるために始めた新聞配達では早朝の蒲田を駆けた。終戦後に座談会で池田先生が戸田先生と出会ったのは47年8月。「大田区」が誕生して最初に迎えた夏だった▼かつて研修会のため来日した海外の同志が大田区を訪れた折、話したことがある。「"オオタ"と聞くと私たちは真っ先に"池田先生の故郷だ!"と思います」。大田の友は応じた。「師の故郷を世界に宣揚したい。その思いで地域に尽くしてきました」▼御書に「名は必ず体にいたる徳あり」(1274ページ)と。名前は単なる記号にとどまらない。その名に意味を持たせ、輝かせようと努力する中に、価値創造の生き方もあろう▼戸田先生は池田先生に語った。「私は城聖、君は大作だ。一緒に、偉大な『創価の大城』をつくろうではないか!」。師弟に連なる同志の奮闘によって今、「創価」の名は平和・文化・教育の連帯を象徴するものとして世界に轟いている。

寸鉄 2021年5月27日
「妙と申す事は開と云う事なり」御書。今日も祈り強く仏の生命輝かせ前進
世田谷の友が奮戦。攻めの拡大で勝利の活路を。勇気と執念で語り抜け!
神奈川女性部の日。正義の友が動けば栄光の朝がさあ対話の旋風を今こそ
岡山女性部の日。何があっても朗らかに!希望の懸け橋を築く声掛け皆で
公明のリードで16歳以上分はワクチン既に確保。命守る対策さらに総力を

☆誓いをつなぐ 第4回 大阪・常勝大阪総県
◇「今」を勝て 師弟の旗を掲げて
大関西が誉れとする「常勝」の名を冠した総県——それが常勝大阪総県(笹森総県長、浅井女性部長)だ。広布の舞台は、大阪市北東部の2区と隣接する2市。常勝守口県、門真王者県、旭総区、鶴見総区から成る。
同総県の友が心に刻むのは1979年(昭和54年)4月24日。池田先生が第3代会長を辞任した日である。第1次宗門事件の嵐がすさび、師弟を離間させようとする悪侶や反逆者らの謀略が渦巻いていた。
この夜、急きょ、大阪本部長会が守口門真文化会館(現・守口文化会館)で開かれた。"なんで、先生が辞めんとあかんのや!"——悔しさと苦しさの中で、関西の同志は誓った。
"たとえ会長を辞められようと、関西の私たちにとって、師匠は永遠に池田先生だ!"
会長辞任のその日に、どこよりも先生と苦楽を共にしてきた関西は、巌窟王のごとく、反転攻勢の闘争を開始した。「4・24」は今、「常勝大阪・師弟誓願の日」として刻まれている。

◇師匠を求めて
「あの4月24日のことは忘れられません。ただただ、池田先生に付いていくぞという思いだけでした」
そう語る岡林幹男さん(総県副総合長)は当時、門真で男子部の本部長。紛動された退転者も出る中、同志と励まし合い、必死に広布を前に進めた。
3カ月後の同年7月、守口と一緒だった組織が「門真圏」として出発。12月に圏の総会が決定する。
しかし、池田先生は大勢が集まる会合で指導することを制限され、聖教新聞にも、指導や動向がほとんど報じられない。
岡林さんらは必死に祈る中、"自分たちから先生にぶつかるしかない"と思い至る。同志の決意を記したアルバムを学会本部に届けることに決めた。地域の農家にお願いし、男子部の有志で門真名産のレンコンを収穫。12月、アルバムとともに携え、男子部の代表7人で東京へ向かった。
学会本部に集うと、先生から思わぬ伝言が届いた。
「聖教本社で会おう」
先生は聖教新聞本社(当時)で、「よく来たね!」と、一人一人、力強い握手を交わしたのである。
この出来事は門真全体に喜びの波動となり、「先生と共に!」の関西魂を点火した。直後に関西戸田記念講堂で開かれた圏総会は、3200人の友が集まる、驚くほどの盛会となった。
池田先生の励ましは、これだけで終わらなかった。
翌80年(同55年)3月9日、門真の同志600人余が学会本部に集った。全員が折伏を完遂していた。
勤行会の途中、先生が会場に現れた。「門真の皆さんがいらっしゃると聞いたので」。ピアノで3曲を演奏。全員で万歳を叫んだ。この日が永遠に輝く「門真の日」となった。
岡林さんらが、あのレンコンを収穫した畑の上には今、門真文化会館が立つ。
岡林さんは言う。
「師匠を求める心と行動があれば、どんな困難も打ち破っていけます。これからも生涯、師弟共戦で進みます!」

◇学会の強さを知る
「守口の日」の淵源は、81年(同56年)9月20日に行われた守口圏の家族祭。この日、池田先生は「守口の尊くして、大切な方々が、ついに自分は、勝てりという凱歌の人生を飾ることを請い希って、御祝いの言葉とさせて頂きます」と万感のメッセージを贈った。
限りない師の励ましを胸に、広布と人生の坂を越えてきた守口の同志。田坪己代子さん(守口本陣圏副女性部長)もその一人だ。
61年(同36年)11月に母と入会。地道に歩み続けてきた広布の道に、子や孫たちも続いていることが何よりの喜びだ。
孫の安蔵香菜さんは今、圏女子部長を務めている。
19歳で白蓮グループに。悩みに親身に耳を傾けてくれる先輩に囲まれ、陰の会員奉仕に徹する任務の中で、学会の強さは先生と同志の絆にあることを学んだ。祖父母や両親が信心に励む理由の一端を知ることができた。以来、仏法対話にも率先。入会を決意する友人も現れてきた。
大学を卒業後、念願だったアパレル関係の会社に就職。多忙を極め、思うように学会活動ができないことに悩んだが、女子部の先輩と共に"活動ができる部署に"と祈りを合わせる中、希望した部署への異動を勝ち取る。社のSDGsを推進する業務も兼任し、職場で信頼を集める。
「祈った通りの結果に、信心の確信を深めることができました」
何があっても題目根本に、今度は自分が人を励ます存在にと、報恩感謝の思いで激励に奔走している。

◇あの地この地に
大阪には、どこを訪ねても池田先生との歴史があり、ドラマがある。
56年(同31年)の"大阪の戦い"で先生が訪問した家は、8000軒といわれる。友の励みになるならと書をしたため、寸暇を割いてハガキにペンを走らせた。祈って動いて書いて話して、友の心に勇気の炎を燃やし、広布の錦州城の礎を築いていった。
先生は当時、旭総区の友にも、「大勝」「勇戦」と揮毫して贈った。
83年(同58年)3月、それを関西の宝として大切に保管していた友が、"池田先生のもとにお返ししたい"と、来阪中の先生に届けた。先生は再び筆を執り、新たに「大勝」「勇戦」と大書し贈呈。「勇戦」が記された同18日は「旭総区の日」である。
「勇戦」ありてこそ「大勝」あり——これが、総区全体の合言葉となった。
81年(同56年)3月17日に先生は、鶴見区を訪問。喫茶店で友と懇談した後、近くの「板原会館」で行われていた鶴見本部女子部の勤行会に足を運んだ。
「今、皆さんが一番願っていることを祈りましょう」と呼び掛け、居合わせた友と勤行。この日が後に「鶴見総区の日」となった。
——門真にも守口にも旭にも鶴見にも、あの地この地に、語り尽くせぬ先生との原点が輝く。師弟の祈りと行動に徹した時、どんな困難も勝ち越える無限の力が湧き上がる。それを、常勝大阪の同志は命に刻んでいる。
常勝とは何か——。かつて先生は関西の友に呼び掛けた。それは「断固として『今を勝つ』ことだ。『今日を勝つ』ことだ」と。
「常勝」の名に懸けて、いかなる逆風にも、師弟の旗を掲げ、完勝の突破口を切り開く! 常勝大阪の揺るがぬ決意である。