2021年5月5日水曜日

2021.05.05 わが友に贈る

「やり遂げた」体験が
大きな自信につながる。
苦難に怯まず挑戦を!
その勇気の一歩が
栄光への扉を開く!

日厳尼御前御返事 P1262
『水すめば月うつる風ふけば木ゆるぐごとくみなの御心は水のごとし信のよはきはにごるがごとし、信心のいさぎよきはすめるがごとし』

【通解】
水が澄めば月が映り、風が吹けば木が揺らぐようなものである。人の心は水のようなものであり、信心が弱いのは水が濁っているようなものである。信心が潔いのは水が澄んでいるようなものである。

名字の言 小さな後押しが大きな進歩に 2021年5月5日
長所をほめれば人はどれほど力を発揮するか――。ノンフィクション作家の佐山和夫さんが、英語の教師だった頃の体験をつづっている(「潮」5月号)▼授業中、何人かの生徒を指して教科書を読ませてみると、普通よりちょっとうまい生徒に出会う。そんな時、すかさず「上手いじゃないか。発音も抑揚もいいぞ」と声を掛けた。練習してきた生徒は照れながらも、うれしそう。大切なのは、その後。何日か経って、再び同じ生徒を指してみる。すると間違いなく、読み方が格段にうまくなっていたという▼自分の努力に気付いてもらえば、誰だってうれしいし、やる気が出る。特に若い世代は、自信を持つと急速に伸びることが多い。"小さな後押し"が"大きな進歩"を呼ぶ、可能性にあふれた宝の人たちだ▼仏法では、肉眼・天眼・慧眼・法眼・仏眼の「五眼」を説く。信仰で生命を磨けば、物事を敏感に感じ取り、深く見通せるようになると教えている。どんな人にも、その人にしかない使命が必ずある。そう信じて祈れば、相手の長所を見つける「心の眼」が開かれる▼"人材を育てる人が真の人材"との自覚で、青年や未来っ子を励まそう。きょう5日は、その誓いを深め合う「創価学会後継者の日」。

寸鉄 2021年5月5日
青年育む学会には平和の未来を開く力が―議長。後継者の日。大河を益々
豊島の日。断じて勝つ!これが三代有縁の天地伝統。皆で東京凱歌必ず
正義の陣列・神奈川の日。我らが完勝の決定打を!さあ"いざ鎌倉"の闘魂で
「屢談話を致さん」御書。共感の語らいが立正安国の道と。電話も真剣勝負
コロナ長期化で鬱症状の子が増加と。些細な変化見逃さず。周囲で耳傾け

〈社説〉 2021・5・5 「創価学会後継者の日」
◇心通う未来部ファミリー懇談会
きょう5日は「創価学会後継者の日」。1976年のこの日、大阪で行われた鳳雛会・未来部の記念勤行会が淵源である。今年で制定から45周年を迎えた。
88年8月、長野研修道場で行われた第1回未来部総会には、池田先生が出席。席上、先生は学会創立100周年を展望し、「本日は、100周年という、すばらしき学会の黄金時代への幕が開かれた」「諸君は見事に、"黄金の歴史"で飾っていただきたい」と、次代を担う友に期待を寄せた。
師の呼び掛けに応えようと、全国各地で、"後継の育成"に力が注がれてきた。
信越では、本年2月から3月にかけて「未来部ファミリー懇談会」を実施。男女青年部の未来部担当者らが、未来部員の家庭を訪問し、家族を交えながら、最近、頑張っていることや、両親の信仰体験、青年部の体験などを楽しく語り合った。
"サイコロトーク"や"連想ゲーム"など、メンバーの興味に合わせた内容を青年部が企画。創意工夫が光る集いに、各所で笑顔の花が咲いた。
終了後には、多くの喜びの声が寄せられた。
新潟の女子中等部員は「以心伝心ゲームがとても楽しかった。女子部のお姉さんから信心の体験が聞けて、とても良かった」と。
長野の男子中等部員は、「堅苦しくなく、趣味や、祈りについて話せた。今度は男子部の担当者と一緒に、信心を学び深めたい」と決意を述べた。
今回の懇談会では、同席した親が自然と、自らの発心の動機や信心の原点を語ることができたのも特長だ。
青年部も聞き手となって親子の語らいに加わり、自らの体験を語っていた。
世代の近い担当者が語る赤裸々なエピソードは、未来部員の共感を得やすい"信心の手本"になるだろう。
池田先生は30年前、長野青年研修道場で行われた第4回未来部総会で言葉を継いだ。
「どうか、皆さんは、生涯、学会とともに、世界一、心美しい同志とともに、歩みきっていただきたい。そこに『最高の人生』がある。『永遠の勝利者』への道がある」
未来の大樹が深く広く、信心の根を張れるよう、先輩たちが励まし歩く労作業は、学会の盤石な明日を創りゆく。
創立100周年を開く大事な今この時、新たな世界を担い立つ人類の宝に、心からのエールを送ろう。

☆ロータスラウンジ――法華経への旅 第24回 分別功徳品第十七
◇信心を貫けば、必ず最後には「所願満足」となる――これが「分別功徳」の深義
法華経について、皆で学び、深めよう――「ロータスラウンジ――法華経への旅」の第24回は、「分別功徳品第十七」です。

■大要
「如来寿量品第十六」での説法を聞いた菩薩たちが、それぞれの境涯に応じて功徳を得ます。その功徳を12段階に分別(区別)して説くことから「分別功徳品」と言います。それでは内容を追ってみましよう。

●シーン1
その時、会座では、仏が自らの寿命の劫の数が長く遠いことを、このように説くのを聞いて、無量・無辺・無数の衆生たちは、大いなる利益を得ました。
釈尊は、弥勒菩薩に告げます。
「私が仏の寿命が長く遠いことを説く時――。
①六百八十万億那由他恒河沙に等しい衆生が、無生法忍(常住の生命を確信する境涯)を得た。
②その千倍の菩薩が、聞持陀羅尼門(聞いた教えを忘れない力)を得た。
③一つの世界の微塵の数に等しい菩薩たちが、楽説無礙辯才(礙りなく自由自在に、相手の楽うところにしたがって、正法を説ける力)を得た。
④一つの世界の微塵の数に等しい菩薩たちが、百千万億無量の旋陀羅尼(悪を止め、善を進める精神力)を得た。
⑤三千大千世界の微塵の数に等しい菩薩が、能く不退(退くことのない境涯)の法輪を転じた(教えを弘めた)。
⑥二千中国土の微塵の数に等しい菩薩たちが、能く清浄(清浄なる境涯)の法輪を転じた。
⑦小千国土の微塵の数に等しい菩薩たちが、八生して(8回生まれ変わって)、阿耨多羅三藐三菩提(この上ない完全な覚り)を得るであろう。
⑧四つの四大州の微塵の数に等しい菩薩たちが、四生して阿耨多羅三藐三菩提を得るであろう。
⑨三つの四大州の微塵の数に等しい菩薩たちが、三生して阿耨多羅三藐三菩提を得るであろう。
⑩二つの四大州の微塵の数に等しい菩薩たちが、二生して阿耨多羅三藐三菩提を得るであろう。
⑪一つの四大州の微塵の数に等しい菩薩たちが、一生して阿耨多羅三藐三菩提を得るであろう。
⑫八つの世界の微塵の数に等しい菩薩たちが、皆、阿耨多羅三藐三菩提を求める心を起こした」
このように釈尊が、菩薩たちの得る12の大功徳を説く時、空から花が、集まっていた諸仏、そして宝塔の中の釈尊や多宝仏、そして大菩薩や人々に降り注ぎ……と、妙なる現象が記されていきます。

●シーン2
釈尊が、弥勒菩薩に告げます。
「仏の寿命が、長遠であることを聞いて、少しも疑わずに信じる人は、無量の功徳を得るであろう」
具体的な例えを挙げて語ります。
「完全な覚りを求めて、八十万億那由他劫の間、五波羅蜜(大乗の菩薩が実践し獲得すべき布施、持戒、忍辱、精進、禅定の五つの徳目)の修行をしたとしても、その人の功徳は、少しも疑わずに(仏の寿命が長遠であることを)信じた人の功徳に比べて、百分、千分、百千万億分の一にも及ばないだろう」
法華経、なかんずく寿量品を信じ持つ功徳は、計り知れないことを表現しています。

●シーン3
さらに、弥勒菩薩に語ります。
「仏の寿命が長遠であることを聞いて、その言葉の真意を理解する人は、限りなく仏の智慧に近づくであろう。ましてや、この教えを聞き、人にも聞かせ、自ら持ち、人にも持たせたりして供養する人の功徳は、無辺であり、一切種智(仏の最高の智慧)を生じるであろう」
再度、弥勒菩薩に呼び掛けます。
「仏の寿命が長遠であることを聞いて、深く信じ理解するならば、仏が霊鷲山で人々に囲まれて説法しているのを見るであろう。
その娑婆世界は、瑠璃の平らな大地に、道は金で、宝の樹が林立し、菩薩たちが住んでいるのを見ることであろう。
そのように感じられるのは、深く信じ、理解している姿である」
いかなる供養をするよりも、信じる功徳の方が計り知れないことが示されます。
今度は、釈尊が、自身が入滅した後の功徳について語ります。
「私が入滅した後、この経を聞いて、歓喜の心を起こすならば、先に述べた深く信じ理解する人と同じ功徳を得るだろう。
まして、この経を持ち、読誦するならなおさらである」
仏の滅後に、この経を受持し、弘める人は、仏に衣食住などの莫大な供養をしたのと同じ功徳を積んでいることが記されます。
さらに釈尊は、弥勒菩薩に語ります。
「まして、この経を持ち、その上、布施・持戒・忍辱・精進・一心・智慧を行ずる人の功徳は、虚空に果てがないように無限であり、速やかに一切種智に到達するであろう」
「この経を受持し、読誦する人は、菩提樹の下に座して既に阿耨多羅三藐三菩提の境涯に近づいているのであり、仏に対するように供養されてしかるべきである」
――このように「分別功徳品」では、無量の功徳が説かれています。

■自我偈の功徳
日蓮大聖人は「自我偈は二十八品のたましひなり」「自我偈の功徳をば私に申すべからず次下に分別功徳品に載せられたり、此の自我偈を聴聞して仏になりたる人人の数をあげて候には小千・大千・三千世界の微塵の数をこそ・あげて候へ」(御書1049ページ)と仰せです。
日々、読誦している「自我偈」の功徳は計り知れないのです。

【『法華経の智慧』から】 広宣流布に生き抜く人生こそ最高
私は、あらゆる迫害に耐え、あらゆる障害を乗り越えて、正法を弘め、学会を守った。ゆえに御本尊から偉大な功徳を頂戴した。同じ御本尊を拝んでいても、こちらの信心が弱ければ、こみあげてくる真の「大歓喜」は味わえない。信心しだいで、功徳が違ってくる。一人一人、千差万別の功徳です。これを「分別功徳」というのです。
また、それぞれの信心、境遇、宿命などによって、功徳の現れ方は違うが、信心を貫けば、必ず最後には「所願満足」となる。これが「分別功徳」の深義です。

他人の幸福のために、自分を捧げていく。自由意志で、「菩薩の戦い」に打って出る。その時に、我が生命に「不死」の大生命力が涌現してくる。仏の「永遠の生命」が満ち潮のように、生命を浸してくる。生活だって、よくならないわけがない。
その意味で、唱題できることが、弘教できることが、広宣流布に働けること自体が、最高の「功徳」なのです。「南無妙法蓮華経と唱うるより外の遊楽なきなり」(御書1143ページ)です。(普及版<下>「分別功徳品」)

【コラム】 不退の地
「分別功徳品」の偈文に、「不退の地に住し」(法華経498ページ)とあります。
これは弥勒菩薩が、釈尊の説法を理解したことを表明した箇所になります。
不退とは退かないことです。しかし、退かないで、単に止まっている状態を表しているわけではありません。
池田先生は「『進まざるは退転』『戦わざるは退転』です。この『不退の境涯』を得られれば、その人はもう勝利者です」と語っています。
現実には、一歩も進めていないように思えることもあるでしょう。しかし、諦めずに挑み続けるならば、必ず勝利の突破口は開けます。
私たちは、御本尊へのひたぶるな祈りで、生命力を湧き立たせて、前へ前へと進み続けることができます。諦めずに戦い続けることができるのです。
私たちには信心がある!――この希望と勇気の境涯こそ、不退の地といえるでしょう。