2021年5月2日日曜日

2021.05.02 わが友に贈る

創価の連帯は
人類を照らす大光!
幸福と平和の哲理掲げ
未来までの凱歌の物語を
朗らかに綴りゆこう!

松野殿御返事 P1389
『命終りなば三日の内に水と成りて流れ塵と成りて地にまじはり煙と成りて天にのぼりあともみえずなるべき身を養はんとて多くの財をたくはふ、此のことはりは事ふり候ぬ但し当世の体こそ哀れに候へ』

【通解】
(人間は)命が終われば三日のうちに、その体は水となって流れ、塵となって大地にまじり、煙となって天に昇り、あとかたもなく消えてしまう。(しかるに、末法の衆生は)そのようにはかない、わが身を養おうとして、多くの財産を蓄える。このことは昔から言い古されてきたことであるが、現在のその有様は、あまりにも哀れでならない。

名字の言 絵手紙の発祥の地 2021年5月2日
婦人部の友から自作の絵手紙を頂いた。風に揺れる一輪の花の絵に、こんな文章が添えてあった。「ほしいのは どんな風にも折れない しなやかな心」。絵と言葉が一体となり、送り手の思いが、より伝わってきた▼「絵」の漢字には「会」の文字が入っている。古来、「絵」の字源には「絵は会なり」という意識があったという。そう考えると、先の花の絵手紙が、わざわざ会いに来て、励ましてくれたようにも思えて、胸が熱くなった▼絵手紙の発祥の地は、東京都狛江市といわれている。1981年に日本で初めての絵手紙教室が開かれ、その後、絵手紙が全国に広がったそうだ▼79年9月、池田先生は同市の友を激励しようと、自ら足を運んで会いに行った。その日は「敬老の日」だった。先生は、広布草創から強盛な信心を貫いてきた友を称賛。同志と一緒に勤行し、未来部員のためにピアノを演奏するなど、終始、渾身の励ましを送った▼その模様は、翌日の本紙で報道された。紙面には、記念に撮影した集合写真と共に、先生が同志に贈った言葉も掲載されていた。「正法と共に 民衆と共に 広布の山に 登りゆくことだ」。それは、全国の読者に送った、先生からの"絵手紙"でもあった。

寸鉄 2021年5月2日
「世間の留難来るとも・とりあへ給うべからず」御書。何があろうと信心
会長の偉大さは自らの姿で青年を啓発したこと—博士。これ人材育成の要
善の志は無駄にならぬ—詩人。広布への道は一家の大福運に。勇んで挑戦
社会的孤立は健康損ねる—研究。会わずとも心は結べる。電話等を上手に
野菜から食べる—順番を変えるだけで血糖値抑制効果。賢き食生活を日々

☆誓いをつなぐ 第1回 西大阪総県
全国の津々浦々に刻まれる、池田先生の励ましの足跡。その原点を誇りに、広宣流布一筋に生き抜く宝の同志がいる。その誇りを受け継ぐ青年がいる。「誓いをつなぐ」と題して、各地の広布史と師弟共戦の継承のドラマを紹介する。

◇常勝の源流 庶民の都
西成総区、大正総区、住吉総区、住之江総区から成る西大阪総県は「庶民の都」。
"ええ格好"は通用しない。学歴も肩書も助けにならない。どれだけ足を運んだか。親身に話を聞き、励ましたか。「有言実行」だけが信用される。
若き日の池田先生は、ここで人の心をつかんだ。「常勝」と世界が仰ぐ関西の大行進はここから始まった。
花園旅館。昭和20年代から、戸田城聖先生と池田先生が、関西指導の拠点とした宿舎は、西成区花園南にあった。
1952年(昭和27年)8月16日。池田先生が、戸田先生と共に初めて出席した大阪の座談会は、大正区三軒家西で開かれた。65年前の、あの「大阪の戦い」でも、池田先生の励ましの足跡が西大阪のここかしこに残る。

◇「常勝の源流」
この誇りと自負を持つゆえに、西大阪の友は、どんな戦いも負けじ魂で勝ち越えてきた。

◇「全てに勝ちゆけ」
仏法は勝負——。
85年(同60年)1月25日、池田先生は西大阪文化会館(現・住之江文化会館)を訪れ、強く訴えている。「西大阪の日」の淵源となった歴史である。
折しも1月25日は、先生が事実無根の公職選挙法違反の容疑で逮捕された「大阪事件」の無罪判決から23年の"勝利"の記念日。
先生は、会館の落成を祝福し、西大阪の友を「関西広布発展の原動力」とたたえつつ、こう語り掛けた。
「全てに勝ちゆく人生であっていただきたい。健康で長生きをすることも、仕事を立派に成し遂げることも、人生の勝負です。盤石な家庭を建設することも、地域や職場等で麗しき人間関係を築きゆくことも、全てが人生の戦いであり、勝たねばなりません」
「一人一人があらゆる点で、大なり小なり勝利の実証を示し切っていく人生であってほしい。その原動力が信心なのです」

藤本洋子さん(総区婦人部主事)は当時、会館の地元・住之江区の婦人部長だった。就任は約半年前。経済苦や病などと闘う友を励ます立場だが、自身もまた、電話の下請け工事を営む夫の収入は不安定で、家計は苦しかった。
家族5人で市営住宅での生活。それでも、活動から一歩もひかず、弱音は絶対に吐かなかった。
会館建設の歓喜を胸に、"池田先生に報恩の報告をしよう"と、皆が心一つに広布に駆ける中で決まった先生の訪問。集いの当日は、早くから喜びにあふれる同志で会館が埋まった。「先生は『いいところに会館が建って良かったね』と声を掛けてくださいました。地域に信頼を広げ、毎月、勝利のご報告をしようと決めました」と藤本さん。
あの「大阪の戦い」で池田先生が御書講義を前進の車軸としたように、住之江の婦人部も、毎月の御書研さんを拡大の力にした。
「勝利の結果をもって集おう」と励まし合い、この年、住之江は関西の折伏の戦いに先駆する。
その後も藤本さんは、経済的には決して楽ではなかったが、夫の4度の大病も乗り越えた。
今年の1月2日には、折伏を実らせた。いつも人を励ます藤本さんの姿を、ずっと心にとどめてきた女性という。
「今、元気に学会活動に走れる。これが一番の功徳やね」
この一言に象徴される、広宣流布一本の潔い信心こそ、西大阪の強さ。池田先生と共に築いた伝統である。

この心を受け継ぐ青年の陣列も頼もしい。
総県総合女子部長の山下清美さんも、85年の訪問をはじめ、池田先生と西大阪の縁を聞いて育った。
現在は小学校の教諭。だが、採用試験を突破するまでは苦闘の連続だった。不合格通知が届き、友人が合格したと耳にするたびに"私には力がないのかな"と落ち込んだ。
そんな時も、山下さんには、家族がいた。自分のことのように涙を流して励ましてくれる婦人部・女子部の同志がいた。「絶対に仏法に無駄はないで!」と。
小学校の常勤講師を務めながら白蓮グループ、部長や本部長として広布の活動に全力。7度目の挑戦で合格をつかんだ。「勝つまで戦うことが勝利の鉄則。そう確信することができました」
進路や仕事に悩む友に親身になれるのも、これまでの苦労があったからと思える。かつての自分が励まされたように、今、語り掛ける。
「長い人生だから、絶対に意味がある。『仏法は勝負』。信心根本に頑張ろう!」
そんな山下さんの激励で、教員採用試験に合格するなど、信心で人生を開いていく友も陸続と現れてきた。
「気取らず、包み隠さず、何でも話すことができる。それが西大阪の特長です」と山下さん。人情厚き西大阪の伝統は、確かに引き継がれている。

◇激励行は幾たびも
85年に住之江を訪れた後も、池田先生の西大阪への激励行は続いた。大正文化会館を訪問したのは86年(同61年)11月12日のこと。
「近隣が大事だよ。近隣のことも祈るんだよ」。そう語った先生は、この時、自ら会館の向かいにある自転車店に足を運び、店主と歓談している。
勤行・唱題し、「大正区の永遠の宿命転換を祈ったよ」と。
そして「誇りあれ 庶民の都の 大正区 ああ寂光の 舞台広げん」など、2首の歌を詠み贈った。
88年(同63年)3月19日には、落成したばかりの西成文化会館を電撃的に訪問した。
「ごめんやす!」
突然、現れた先生の姿に、同志の喜びが爆発した。「皆さんの家は狭いでしょうから、ここを自分の家と思って使ってください」。先生のユーモアに、明るい笑いの花が咲く。
先生は「皆さんが幸福になるように」と、西成広布の伸展を祈念し、共に唱題した。
それからちょうど8年後の96年(平成8年)3月19日には、住吉文化会館を車で視察。商店が並ぶ小道や住宅街など、住吉の広布の舞台を見つめつつ、同志の幸福と無事安穏を祈念した。
以来、住吉の友は、先生の車が通った道を「常勝ロード」と名付け、師弟不二の誓いを年々歳々新たにしてきた。間もなく25周年の節を刻む。
御聖訓に曰く「源遠ければ流長し」(御書1180ページ)。
「源流」の我らが勝ち続ければ、関西は永遠に「常勝」であり続ける——これが西大阪の使命であり、決意である。