2021年5月6日木曜日

2021.05.06 わが友に贈る

新聞休刊日

諸法実相抄 P1359
『たえて弘めん者をば衣を以て釈迦仏をほひ給うべきぞ、諸天は供養をいたすべきぞかたにかけせなかにをふべきぞ大善根の者にてあるぞ』

【通解】
(三類の強敵による大難に)耐えて、妙法を弘める人を、釈迦仏は必ずや衣で覆い守ってくださるであろう。諸天は必ず、その人に供養するであろう。また肩にかけ、背中に負って守るであろう。その人こそ、大善根の人である。

☆君も立て——若き日の挑戦に学ぶ 第4回「戸田第2代会長就任」 師弟不二なれば、何事も成就す
【「若き日の日記」1951年(昭和26年)1月7日から】
未来、生涯、
いかなる苦難が打ち続くとも、
此の師に学んだ栄誉を、
私は最高、最大の、幸福とする。

◇環境に支配されるな
70年前の1951年(昭和26年)5月3日、戸田城聖先生が第2代会長に就任した。先生は就任式の席上、生涯の願業として、75万世帯の弘教を掲げる。
式典が終わると、戸田先生の胴上げが始まった。若き池田大作先生は、とっさにその輪に入り、戸田先生を懸命に支えた。
「5・3」までの道は険しかった。戸田先生の事業が苦境に陥る中、ただ一人、恩師に仕え、恩師を守ったのが池田先生である。
「戸田と伸一という師弟がつくった、この期間の秘史のなかに、その後の創価学会の、発展と存在との根本的な要因があった」
小説『人間革命』第4巻「秋霜」の章には、50年(同25年)から、翌年初めに至る師弟の日々が「秘史」と記されている。入信から4年に満たない若き池田先生が、師を支え続けた激闘。ここに、弟子が刻むべき広布の魂がある。
池田先生が、戸田先生の経営する出版社・日本正学館に初出勤したのは、49年(同24年)1月3日であった。5月には、少年雑誌「冒険少年」(同年10月号から「少年日本」と改題)の編集長に就任する。
「先生の会社を、日本一の会社にしたい」(『若き日の日記』、1949年6月3日)
文筆の仕事は、池田先生のかねての憧れであった。原稿の依頼や校正など、一人で何役もこなした。"日本一の雑誌に"と、全精魂を注いで仕事に打ち込んだ。
「『冒険少年』八月号の割り付けも大体終わる。ほっと一息だ」(同、同年6月8日)
「明日は学校(夜学)にゆきたい」(同、同年6月13日)
この時期、大世学院(現・東京富士大学)の夜間部で学びながら、編集長としての激務に取り組んだ。「冒険少年」は、子どもたちの人気を博した。野村胡堂、小松崎茂など、名だたる作家や挿絵画家らが雑誌を飾った。池田先生も「山本伸一郎」の名で、ペスタロッチやジェンナーの伝記を書いている。
池田先生は恩師の会社に勤務していた時の信条について、こうつづっている。
「環境に支配されるのか、自分が環境を支配していくのか——そこに人間の戦いがある。私は、みずからが模範になろうと思った」
当時の日本社会は、経済政策の激動期にあった。資金に余裕がない中小企業は、ばたばたと倒れていった。戸田先生の出版社にも影響が出るようになった。
そんな時だった。池田先生は、いつもの下車駅である東京・水道橋駅のプラットホームで、小さな広告を発見した。そこには、「少年日本」の文字が。愛弟子の奮闘に応える、戸田先生の真心の結晶だった。
だが、戸田先生の出版事業は、厳しい状況が続いた。同年10月25日には、一切の休刊を余儀なくされる。"秋霜"の中、池田先生は、戸田先生を心身共に支え続けた——。

【「若き日の日記」1951年(昭和26年)1月11日から】
信仰あるが故に、鉄鎖と、火宅の
人類の中にあって、我此土安穏の、
自由の人生を、歩み得る。

◇ただ題目を抱きしめて
「君には、本当にすまないが、夜学は断念してもらえないか」——1950年(昭和25年)の年頭、戸田先生は池田先生に言った。池田先生は、前年秋から夜学を休み、戸田先生の会社を支えていた。
池田先生は答えた。「はい。先生のおっしゃる通りにいたします」。恩師に青春の一切をささげる覚悟に揺るぎはなかった。
しかし同年8月22日、戸田先生が経営する信用組合に、大蔵省(当時)から業務停止が通達された。戸田先生は、学会の理事長を辞任。池田先生は、"私の師匠も新しい理事長になるのか"との不安を戸田先生にぶつけた。戸田先生は答えた。「苦労ばかりかけてしまう師匠だが、君の師匠は、ぼくだよ」
池田先生は、弟子の誓いを歌に託した。
「古の/奇しき縁に/仕へしを/人は変れど/われは変らじ」。それに対し、戸田先生は二首の返し歌を贈った。
「幾度か/戦の庭に/起てる身の/捨てず持つは/君の太刀ぞよ」
「色は褪せ/力は抜けし/吾が王者/死すとも残すは/君が冠」
戸田先生は、自らも憔悴する中、「これ以上、痩せてはいかんよ」と、誰よりも池田先生の体を気遣った。「身体、痩せてくる。自分でよくわかる。病魔に負けては、絶対にならぬ」(同、1950年6月11日)。夏には、体重が13貫(約49キロ)を切ってしまう。
池田先生は毎夜、御書を繙き、自らを奮い立たせた。この頃の日記には、「仏になる道には我慢偏執の心なく南無妙法蓮華経と唱へ奉るべき者なり」(御書557ページ)など、頻繁に御書の一節が書きとどめられている。恩師を支えた苦闘は、御書を心肝に染めての闘争だったのである。
また、祈りに徹し、1日1万遍の唱題も実行した。一念に億劫の辛労を尽くして、戸田先生が一日も早く苦境を脱し、広布のために縦横無尽の指揮が執れることを祈り続けた。
「時間さえあれば、すべて題目。ただただ、題目を抱きしめて、この世の残酷な苦難をはね返し、戸田先生が第二代会長に就任される道を、命を賭して、切り開いていったのである」

【先生が記した自身の心得】
一、折伏を常になす事
一、勤行を怠らざる事
一、建設、成長を忘れざる事
(「若き日の日記」1951年(昭和26年)2月12日から)

◇「苦楽」を分け合う縁
信用組合の整理は至難を極めた。戸田先生は一部の債権者から告訴されていた。逮捕もされかねない状況にあった。
51年(同26年)1月6日、戸田先生は池田先生を自宅に呼び、「私に、もし万一のことがあったら、学会のことも、事業のことも、いっさい、君に任せるから、全部、引き受けてくれないか」と後事を託している。
絶体絶命の窮地であったが、翌月、状況が一挙に好転する。大蔵省から、組合員の総意がまとまるならば、組合を解散してもよいという通達がきたのである。
同省の担当者は、「故理事長(戸田先生)の人格の内なる光をいまだに忘れることができない」と振り返っている。事態を切り開く一つの要因は、恩師の誠実な対応、監督官庁の関係者をも魅了する人格の輝きにあった。
同年3月11日、信用組合は解散。この日、創価学会の臨時総会が開催された。戸田先生は烈々と宣言した。
「一国広宣流布の秋は今であります。既に、東洋広宣流布の兆しも現れた。仏勅を被った創価学会の闘士こそ、先陣を切って進むべき時が、遂に来たのであります」
その日、池田先生は日記に記した。
「皆は知らぬ。而し、吾人は、いかほど先生を陰でお護りして来たことか。吾れは泣く。吾れは嬉し。先生の師子吼に」(同、1951年3月11日)
恩師の師子吼に弟子の心は躍った。先生は、同志と共に対話に走り抜いた。その折伏の喜びをつづっている。「一幅の御本尊送りの喜びは、筆舌に尽くせぬ、最高度の幸福感である」(同、同年4月8日)
そして、"師恩の対話"の最高の上げ潮で迎えた5月3日、先生は自らの弘教をもって、恩師の会長就任の日を飾ったのである。
師弟に徹すれば、一切を"苦楽の勝利劇"へと変えることができる——。戸田先生の第2代会長就任までの「秘史」は、池田先生がそのことを証明した「後世永遠の明鏡」である。
戸田先生は、会長就任の記念の写真の裏に、和歌をしたためて池田先生に贈った。
「現在も/未来も共に/苦楽をば/分けあう縁/不思議なるかな」