2021年5月24日月曜日

2021.05.24 わが友に贈る

◇今週のことば
人のつながりには
不思議な広がりがある。
身近な所に新たな扉が。
勇気の一声から
希望の波動を起こそう!
2021年5月24日

御講聞書 P816
『既に末法当時南無妙法蓮華経の七字を日本国に弘むる間恐れなし、終には一閻浮提に広宣流布せん事一定なるべし云云』

【通解】
すでに末法であり、南無妙法蓮華経の七字を日本の国に弘めているので、何の恐れもない。遂には全世界に広宣流布することは間違いないのである。

名字の言 前へ「時」を進める 2021年5月24日
鉄道ダイヤが正確な日本では時間通りの運行は当然と思いがちだ。それだけに数分でも遅れると、いらだつ利用者もいる▼ただ、この日ばかりは、待たされたことに憤慨した乗客はいなかっただろう。昨年3月14日。福島の原発事故の影響で不通だった区間の路線が、避難指示解除によってつながった。JR常磐線の上野・品川と仙台間の特急列車が9年ぶりに直通運転を再開。ある駅では「本当に本当に大変長らくお待たせをいたしました」と電車到着のアナウンスが。この日を待ち続けた"時の重み"が伝わってくる▼この不通区間だった地域に学会の双葉会館がある。本年3月、リニューアルオープンした同会館で「東北家族『希望の絆』総会」の中継が行われた。会場は改装までの長い間、東日本大震災発生の「2時46分」で針が止まったままの壁時計があった場所▼ある婦人は総会に集った同志の姿を見て、感動の涙が抑えられなかったという。"今日まで私たちは、厳然と「広布の絆」で結ばれ、共に前へ進んできた"と▼池田先生は「民衆と民衆の心の絆は、目には見えない。しかし、見えないがゆえに強い」と語る。創価の連帯が切れることはない。幸福を目指す私たちの前進が止まることもない。

寸鉄 2021年5月24日
「湿れる木より火を出し」御書。信心に不可能なし。腹を決めた祈りを今日も
東京の要・町田が力闘。特区の使命は連戦連勝!壁破るドラマをここから
愛知広布原点の日。堅塁の同志が健在なら学会は盤石。勝利開く一番星と
高温多湿の梅雨は自律神経を乱しやすい—医師。食事・睡眠等で賢く予防
接種の予約代行詐欺多し—金銭や個人情報求める話は全て罠!騙されるな

〈社説〉 2021・5・24 無意識の偏見に陥らない
◇万人尊敬の社会を目指して
自分では気付かぬまま、偏った見方や思い込みに陥る「無意識の偏見」(アンコンシャス・バイアス)が注目されている。人権問題の研究で知られるジェニファー・エバーハート教授は『無意識のバイアス』(山岡希美訳、明石書店)でアメリカの実情を踏まえ、偏見が「一人ひとりを個人として見ることから妨げている」と記した。
黒人女性の教授は飛行機での思い出を紹介している。5歳だった息子が搭乗客の黒人男性を見て、こう口にした。「あの男の人、飛行機を襲わないといいね」。驚いて理由を問うと「分からない」と。無意識のうちに、幼児にでさえ、黒人と犯罪の関連づけがされる現実に衝撃を受けたという。
同書には、ある町で黒人は人口の3割だが、警察官による取り締まりは6割を黒人が占めたとの調査記録も。肌の色、体重、人種、訛り、障がい、身長、性別など、あらゆる特徴にレッテルは貼られる。意識しなくても、簡単に、一瞬にして、バイアス(偏見)は人間を支配すると教授は指摘する。
克服していく方途を仏法の視座から考えたい。
法華経には不軽菩薩の姿が描かれている。その振る舞いは、表面的な人間の差異にとらわれなかった。何を見つめていたのか。誰しもが持つ「仏」の生命である。
不軽菩薩は、万人に"尊極な生命"が具わると確信し、出会う人々に礼拝した。その姿勢は出来事や状況に左右されない。揶揄され、悪口罵詈されるばかりか、時には杖で打たれたり、石を投げられたりしても実践を貫いた。
多様性がうたわれる現代、差異を認めようとする一方で、人は差異に執着してしまう。人は対象をありのままに見て、判断しているのではない。バイアスのかかった目で判断をし、対象を見ている。
不軽菩薩は「我は深く汝等を敬い、敢えて軽慢せず」(法華経557ページ)と誠意を尽くしたが、そこに強く自らを律する"能動性"を見たい。常に不軽の生き方を貫こうとする意識、実践の哲学は、自覚せずとも人の振る舞いにまで変化をもたらす力となろう。
国家、民族、文化・習慣、また、社会的な地位や立場、年齢、出自に関係なく、皆に「仏」を見いだす。これを常に立ち返る原点とすれば、バイアスの力を押し返し、万人が平等に尊敬し合う社会への道が開けていくにちがいない。

☆御書の旭光を 第28回 祈りからすべては始まる
【御文】
『頭をふればかみゆるぐ心はたらけば身うごく、大風吹けば草木しづかならず・大地うごけば大海さはがし、教主釈尊をうごかし奉れば・ゆるがぬ草木やあるべき・さわがぬ水やあるべき』(日眼女造立釈迦仏供養事、1187ページ)

【通解】
頭を振れば髪が揺らぐ。心が働けば身体が動く。大風が吹けば草木も揺れる。大地が動けば大海も騒ぐ。同じように、教主釈尊を動かせば、揺るがない草木があるだろうか。騒がない水があるだろうか。

【池田先生が贈る指針】
妙法の祈りの力は計り知れない。一切をより良く変えゆく根源の力用である。小さく推し量っては損をする。
広布の大願を起こし、大きく、強く、具体的に祈り、行動するのだ。友の幸福と世界の安穏を祈念する題目は、相手の法性に必ず届き、生命の奥底をも変革できる。
今日も強盛な祈りから勇んで価値創造を!

☆ロータスラウンジ——法華経への旅 第25回 随喜功徳品第十八
◇鍛えあげられた強き境涯が本当の永遠性の「随喜」
法華経について、皆で学び、深めよう——「ロータスラウンジ——法華経への旅」の第25回は、「随喜功徳品第十八」です。

■大要
初めて法華経を聞いて、随喜(信随して歓喜)する人の功徳について説かれます。それでは内容を追ってみましょう。

その時、弥勒菩薩が、釈尊に問います。
「もし善男子・善女人(法華経を信じる男女)が、この法華経を聞いて随喜するならば、どれほどの福徳が得られるのでしょうか?」
この問いに答える形で、「五十展転」の話が展開されます。
その時、釈尊は、弥勒菩薩に語ります。
「仏が入滅した後、出家・在家の男女や智者たち、また年配や若い人も、この経を聞いて随喜した。
そして、他の所、例えば僧が住む場所や閑静な所、都、村などに赴いて、自分が聞いたように、父母や親族、また友人たちのために、自分の力に応じて法を説いた。
さらに、それを聞いて随喜した人が、また他の所に赴いて法を説く。それを聞いて随喜した人が、また他の所で法を説いて……。
このように法を伝え広げ、順番に50番目の人に及んだとする」
「この50番目の善男子・善女人が法を聞いて随喜した功徳を今、説こう。よく聴きなさい。
四百万億阿僧祇の世界の六趣四生(六趣=地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天の六つの境涯。四生=胎生・卵生・湿生・化生の四つの生まれ方)のあらゆる衆生がいた。
ある人が福徳を求めて、衆生の一人一人の好みに合わせて、この世にある金、銀、瑠璃等の珍しい宝、そして車や七宝でできた宮殿を与えた。その人は、80年にわたって布施を続け、こう思った。
『衆生の好みに応じて布施をしてきた。しかし、皆、老い、80歳を過ぎて白髪になり、顔に皺がよって、死が近づいてきた。今、仏法でこれらの衆生を導こう』
そして、衆生たちを集め、教え、導き、阿羅漢果(小乗の覚り)を得させた。この人の功徳は、多いと言えるだろうか?」
弥勒菩薩が、釈尊に答えます。
「その人の功徳は無量無辺です。衆生の好むものを施す功徳だけでも無量だからです。ましてや、阿羅漢果を得させたのですから言うまでもありません」
釈尊が、弥勒菩薩に告げます。
「わたしは今、はっきりと語ろう。この人が得る功徳は、先ほどの50番目の人が、法華経の一偈を聞いて随喜した功徳の百分の一、千分の一、百千万億分の一にも及ばない。計算や譬喩によっても知ることができないほどである。
このように50番目の人が法華経を聞き、随喜して得る功徳ですら無量無辺である。ましてや、最初に法華経を聞いて随喜した人の功徳は、比べられないほど、無量無辺である」
さらにたとえを通して、弥勒菩薩に功徳の偉大さを教えます。
「もし、この経のために、僧の住む所に行き、あるいは座り、あるいは立って、少しでもこの経を聴き受ける人は、その功徳によって生まれ変わった所で、象や馬、珍しい宝の乗り物を得て、天宮に上ることができるだろう」と、物質的な幸福を得ることが説かれます。
また、「もし説法の場で、来た人のために自らの席を空けて勧め、法を聴かせるならば、その人は、生まれ変わって帝釈天や梵天、転輪聖王の位に就くことだろう」と、指導者になる福徳が説かれます。
続いて、「もし他人に法華経を一緒に聴こうと誘い、わずかでも聞くなら、この人は菩薩たちと一緒の所に生まれ変わり、賢くて智慧があり、誰もが喜ぶ姿となるだろう。生々世々、仏を見て法を聞き、教えを信受するであろう」と、智慧が豊かになり、色心の健康を得ると説かれます。
さらに、弥勒菩薩に、功徳の大きさの真理を教えます。
「一人に法華経を勧めて法を聴かせる功徳は、このように大きいのである。ましてや、熱心に法華経を聴き、説き、読誦し、しかも如説修行(説の如く修行)する人の功徳はいうまでもない」
——このように、「随喜功徳品」では、法華経を聞いて随喜する功徳が説かれています。

■五十展転
日蓮大聖人は、「五十展転」について、「一生の間に一回でも題目を唱えたり、また題目の声を聞いて喜び、さらにその喜びの声を聞いて喜び、このようにして50番目となる人は、喜びの心が弱いようだけれども、智慧第一の舎利弗の如き人よりも、文殊菩薩や弥勒菩薩のような大菩薩の如き人よりも、百千万億倍の功徳がある」(御書1199ページ、趣意)と仰せです。
50番目の人は、経典の文字通り考えれば、自分が随喜するだけで人には語っていません。それにもかかわらず、無量の大功徳があるのです。いわんや、歓喜して弘通に励む人の功徳は計り知れません。
大聖人は「五十展転とは五とは妙法の五字なり十とは十界の衆生なり展転とは一念三千なり、教相の時は第五十人の随喜の功徳を校量せり五十人とは一切衆生の事なり」(同799ページ)と述べられています。「五」とは妙法であり、「十」とは十界の全ての衆生です。妙法蓮華経の五字が喜び広がっていく時、一念三千の妙法が働き、万人成仏が成就されゆくことを教えられていると拝せます。
希望と励ましの対話を広げゆく時、「自他共に智慧と慈悲と有るを喜とは云うなり」(同761ページ)と仰せのごとく、世界中に喜びの花が咲き薫り、一切衆生が功徳を受け切っていくことができるのです。

【『法華経の智慧』から】 生命の根底が歓喜に
苦しみは、苦しみにつけ題目を唱える。悲しみは、悲しみのまま御本尊にぶつける。うれしきは、うれしさを開いて、感謝の唱題にする。悩みは悩みとして、大きく見おろしながら、前へ前へと行くのです。
御本尊を拝するということは、全宇宙を見わたし、見おろしていくようなものです。自分自身の苦しんでいる生命をも見おろしていける自分になっていく。
「随喜」と言っても、悩みがなくなるのではない。悩みがあるから題目が唱えられる。題目を唱えるから、生命力がわく。苦しみがあるから喜びがある。"幸せだけの幸せ"はありえない。"喜びだけの喜び"はない。
「仏法は勝負」なのだから、一生涯、戦いです。戦い続けられる強き強き自分をつくるのです。鍛えあげられた、その強き境涯が本当の永遠性の「随喜」です。信心があれば、何があろうと、生命の根底が歓喜になる。希望になる。確信になる。そして、勇んで、悩める人のもとへ飛び込んでいって、自他ともに「随喜」の当体となっていけるのです。(普及版〈下〉「随喜功徳品」)

【コラム】 下種仏法
仏種を説いて人々に信じさせることを「下種」といいます。日蓮大聖人は、成仏の根本法である南無妙法蓮華経こそ、万人を成仏へと導く仏種であると明かされ、民衆救済の道を開かれました。ゆえに、日蓮仏法を下種仏法といいます。
仏法対話は、人々の生命に成仏の根本法である仏種をまく尊き下種の振る舞いです。それは、万人の生命に本来具わる仏性を触発することです。とはいっても、相手から反発されることもあります。
池田先生は「相手がどうかではなく、こちらが妙法を讃え、聞かせていけば、それだけで大功徳になる。そう自覚していけば、またまた『歓喜』です」と語っています。
相手が信心をしようがしまいが、妙法を語った功徳は同じです。相手の反応に一喜一憂することなく、仏法を語る誇りと喜びを胸に、朗らかに対話を広げていきたい。そこに自身の境涯革命の直道があるからです。