2021年5月8日土曜日

2021.05.08 わが友に贈る

気遣いや心配りが
友の安心感を生む。
真心の声掛けで
大切な人たちと
温かなつながりを!

四条金吾殿御返事 P1118
『あしき名さへ流す況やよき名をや何に況や法華経ゆへの名をや』

【通解】
悪名でさえ流ものだ。まして善き名を流すのは当然である。ましてや法華経ゆへの名においてはいうまでもない。

名字の言 小学生の詩「お母さんの色」 2021年5月8日
ゴールデンウイークにラジオを聞いていると、「お母さんの色」という心がこもった言葉が耳に入ってきた。小学4年生の女の子の詩だった▼彼女はうたう。お母さんには、いろんな色がある、と。怒っている時は「赤」、悲しい時は「白」、笑っている時は「ピンク」、元気な時は「黄色」。そして「わたしは、ピンクの花を、咲かせたい」と結ぶ、ほほ笑ましい内容だった▼詩人の矢崎節夫さんは「言葉は、使う人の"心柄"が表れます」と語る。さらに、自分の言葉を最初に聞くのは相手ではなく自分自身であり、「心柄の表れるうれしい言葉」を使いたい。そうすれば、自分自身も、その言葉を聞いた人も幸せになる、とも▼御書の一節「言と云うは心の思いを響かして声を顕すを云うなり」(563ページ)を思い浮かべた人も多いだろう。言葉は、心の大地に咲く花。同じ咲かせるなら、きれいな花をたくさん咲かせたい。社会が不安に揺れ動くからこそ、温かな言葉を大切にする自分でありたい。心の大地を豊かに耕し、心柄——心の品格を磨くのが信仰である▼あすは「母の日」。全てのお母さんに「いつも本当にありがとうございます」と心からの感謝を込めて伝え、笑顔の花を満開に咲かせよう!

寸鉄 2021年5月8日
希望に生き抜いてもらいたい—戸田先生。挑戦の中に歓喜あり。祈り強く
常勝埼玉師弟の日。励ましの波を今こそ。「鉄桶の団結」で栄光の共戦譜を
「日蓮一度もしりぞく心なし」御書。何があろうと前へ!凱歌の劇を断固
子どもの数、40年連続減。皆が宝。長所を伸ばそう。広布後継の大樹と育て!
世界の経営者8割が気候変動に懸念と。政官業、市民の総力で対策加速へ

〈社説〉 2021・5・8 あすは「音楽隊の日」
◇困難を力に 希望の響き高らか
偉大な宗教があるところ、必ず偉大な文化、芸術が生まれる。
1954年(昭和29年)5月6日、池田先生の提案で音楽隊が結成された。周囲の反対の中、戸田先生だけが「大作がやるんだったら、やりたまえ」と後押しした。
3日後の5月9日、青年部の総登山に音楽隊が初出動し、学会歌を演奏。激しい雨が降る中、自前の楽器もなく、借り物での出動だった。とても万全とは言えない。それでも音楽隊員は「悪条件だからこそ、成功すれば、歴史に輝く壮挙になる!」と闘志を燃やし、同志を鼓舞。この日が後に「音楽隊の日」と定められた。
以来、67星霜。広布の楽雄たちはいかなる労苦もいとわず、仕事や勉学、学会活動などとの"三立""四立"に挑みながら、技術を磨き、心を磨いてきた。結成以来、吹奏楽団やマーチングバンド、合唱団、太鼓団など、全国に100を超える団体が誕生。各種コンクールでも「日本一」に輝くなど、堂々たる大発展を遂げた。
しかし、コロナ禍のこの1年は、練習や出動にも制限が生じた。各地の楽団では、SNSなどを駆使して互いを励まし、練習に挑戦。少しでも同志や社会に、勇気と希望を送りたいと知恵を絞り、前進してきた。過去の演奏を収録した映像や"リモート演奏"などを動画サイトで多数、配信。視聴者からは「聴くたびに涙があふれます」「前に進む勇気が出てきました」など、感謝と感動の声が寄せられた。
音楽関係の仕事に従事する関西吹奏楽団の友は、昨年4月の緊急事態宣言の発出で、仕事が全てキャンセルに。先が見えないなか、胸に迫ったのは師匠への誓いだ。"環境に断じて負けない""聴いてくれる人を鼓舞するような演奏を"と心を燃やし、同楽団のリモート演奏の編集を一手に担った。大きな反響が彼を励まし、さらなる前進の原動力に。今春、新たな仕事も勝ち取った。報恩の思いを胸に「今こそ、勝って師匠や同志に日本一の演奏を届けたい」と、さらなる飛躍を期す。
池田先生は「心は心でしか、温めることはできない。なかんずく、真摯に向上しゆく青年の楽音は、絶望の闇に震える友を蘇らせる光となり、熱となる」と。
いかなる時代の荒波にも負けない音楽隊の力強い音律が響くところ、断じて行き詰まりはない。

☆御書の旭光を 第23回 「忍難弘通」の魂を胸に
〈御文〉
『去ぬる建長五年の夏のころより今に二十余年の間・昼夜朝暮に南無妙法蓮華経と是を唱うる事は一人なり』(松野殿後家尼御前御返事、1393ページ)

〈通解〉
去る建長5年の夏のころから今(弘安2年)に至る20年余りの間、昼夜朝暮に南無妙法蓮華経と題目を唱えたのは日蓮一人である。

〈池田先生が贈る指針〉
日蓮大聖人は、全民衆の幸福と全世界の平和を願われ「立宗宣言」された。ただお一人で「忍難弘通」の大闘争を開始されたのである。
この「一人立つ」魂を受け継ぐのが創価の師弟である。大変なときにこそ、今ここから題目の師子吼を轟かせ、太陽の仏法の大光を放ちゆくのだ。そこに地涌の友は必ず集い来る。

☆誓いをつなぐ 第2回 広島戸田総県
◇平和の光放ち 我等は起つ
中国地方を代表する河川である太田川が滔々と流れ、豊かな自然が広がる広島戸田総県は広島東黄金区、広島西黄金区、安佐北区、喜多広島圏から成る。
広島東黄金区と広島西黄金区の広布の舞台は広島市安佐南区。ベッドタウンとして人口が増え続け、八つの大学・短期大学が立つ文教地区でもある。区内の広島広域公園は、Jリーグ・サンフレッチェ広島の本拠地で、アジア競技大会のメイン会場ともなった。
安佐北区は、市域の約4割を占める広大な地域。古墳や城跡などの史跡、文化財や名勝が点在し、安佐動物公園は家族連れに人気のスポット。
喜多広島圏は1市2町にまたがる。中国山地の山々に抱かれ、「三本の矢」の故事で知られる戦国の雄・毛利元就ゆかりの地である。
だが何といっても、広島戸田総県の誇りは、北広島町に広がる「中国平和記念墓地公園」。本年10月で開園25周年を迎える。2004年(平成16年)12月11日、園内の大朝平和講堂で、世界広布開拓の功労者をたたえる「世界顕彰之碑」が除幕された。後にこの日が、総県の日となった。

◇"人間蘇生の碑"
同墓園には、池田大作先生の発案で建立された「世界平和祈願の碑」がある。東経132度27分——広島の爆心地の真北に立っている。全世界の核兵器・核実験の犠牲となった被ばく者を追悼し、恒久平和を誓う意義が込められる。
6体のブロンズ像を制作したのは、フランスの世界的彫刻家ルイ・デルブレ氏。碑が除幕された5日後の1997年(同9年)6月6日、池田先生は、氏を東京牧口記念会館(八王子市)に歓迎した。
氏は語った。
「お話をいただいた時、すぐさま『群像で』と決めました。平和を実現するには、大勢の人が立ち上がらねばならないからです」
「彫刻家としての私の50年は、この作品のためにあったとさえ思っています」
先生は感謝した。
「偉大なる『人間蘇生の碑』であり、永遠なる『復活の碑』であり、未来へ向かっての『人間復権の碑』です!」
さらに碑の文字は、現代中国文学の大家・金庸氏によるもの。対談集を発刊するなど、先生と交流を重ねてきた氏は、要請を快諾し、「私の一生の中で最大の光栄」と述べている。
池田先生は碑文に記した。「金剛不壊なる生命の宝器は 忌まわしき核の力より偉大なり」「全人類が希求してやまぬ 虹かかる『共生の世紀』目指し 我等は起つ 我等は進む」と。
開園25周年の今こそ、平和原点の我等は起つ! 我等は進む!——これが広島戸田総県の誓願である。

◇「師と共に」の原点
安佐北区の桑田光男さん(副区長)も、誓いを燃やす一人。総県地域部長と地区部長を兼任し、広布に歩く。桑田さんには、忘れ得ぬ師との原点がある。
80年(昭和55年)8月31日、創価大学で開催された牙城会の第1回柔剣道大会に出席。一緒に参加した河村義弘さん(副区長)らと共に、池田先生が中央体育館(当時)の外で牙城会員を激励する場面に居合わせ、記念写真に納まった。
「ご苦労さまです」——慈愛のこもった声が忘れられない。第1次宗門事件の嵐に揺るがず、青年の中に飛び込んで励ます師の真心を命に刻んだ。「その時の写真を見るたび、"生涯、師と共に"との誓いが湧き上がってきます」
単身赴任で上京した東京・荒川区では支部長として奔走。広島に戻ってからは、地域の繁栄に貢献したいと、町内会の行事や清掃、防犯パトロール、避難訓練など、できることは何でもやり、信頼を得た。この4月からは、地域の自主防災会長を務めるという。
「一人一人と直接会う中でこそ、一段と深い関係が築けます。これからも、心と心を結ぶ交流を続けていきます」

◇牛本有梨花さん
広島東黄金区の牛本有梨花さん(女子部本部長)は"学会4世"。広島若竹少年少女合唱団に所属した小学生時代から、温かな学会家族の中で成長してきた。
宿命の壁にぶつかったのは、地元の大学を卒業してシステムエンジニアの道を歩み始めた頃。皮膚炎を発症し、顔は赤く腫れ、一時休職を余儀なくされた。
支えになったのは、家族をはじめ、地区の同志の励ましだった。祈り励ましてくれる創価家族の存在に感謝し、自身も真剣な唱題に挑戦。治療を始めて1カ月で仕事に復帰し、1年後には完治できた。
信心の確信をつかんだ牛本さんは、一段と学会活動に取り組むようになり、友人を座談会に招くなど仏縁を拡大。白蓮グループの班長としても奮闘した。
女子部や婦人部の先輩と訪問・激励に歩き、昨年末から本年1月の「マイ ロマン総会」では、新たなメンバーを糾合することができた。
職場でも、システム開発のプロジェクトメンバーとして活躍し、チームリーダーも務めた。
「『決めて』『祈って』『行動する』——この勝利のリズムで、新たな広布の開拓闘争を勝ちまくれ!」。池田先生の指針を胸に、牛本さんは、地域と社会で"必ず勝つ"と決めている。

◇広島に幸の花咲け
中国平和記念墓地公園(北広島町)に立つ「世界平和祈願の碑」。6体のブロンズ像が背中合わせに配置され、この地から世界へ、未来へ、平和の光を広げゆく意志が込められている
弥生3月は、広島戸田総県の友にとって、二つの師弟の原点が刻まれる月である。
一つは76年(昭和51年)3月18日である。
広島を訪れていた先生は、激励行の合間を縫って、広島文化会館からほど近い太田川の河畔を散策。安佐南区側の川沿いの道を車で走った。翌19日に先生は、広島文化会館で行われた各部代表幹部会でこのことに触れつつ、「妙法の 轟きわたる 広島に 右に左に 幸の花咲け」など、2首の歌を発表した。
二つ目は95年(平成7年)3月30日。この日、安佐南区が、池田先生の提案で「黄金区」として出発した(現在は広島東黄金区と広島西黄金区)。同志の喜びは爆発。"わが町を黄金の理想郷に!"と、破竹の勢いで対話拡大に走り、勝利の春を飾った。
広島戸田総県の友は近年、平成26年8月豪雨、平成30年7月豪雨(西日本豪雨)と、2度の災害を経験し、そのたびに先生の励ましを受けて、立ち上がってきた。
「世界平和祈願の碑」を守り、幾たびも試練を乗り越えてきた我等こそ、平和の光を放ち、"立正安世界"の先駆けとなる!——広島戸田総県の友は、不撓不屈の心で、栄光の峰へ突き進む。

◇広島東黄金区の牛本有梨花さん(女子部本部長)は"学会4世"。広島若竹少年少女合唱団に所属した小学生時代から、温かな学会家族の中で成長してきた。
宿命の壁にぶつかったのは、地元の大学を卒業してシステムエンジニアの道を歩み始めた頃。皮膚炎を発症し、顔は赤く腫れ、一時休職を余儀なくされた。
支えになったのは、家族をはじめ、地区の同志の励ましだった。祈り励ましてくれる創価家族の存在に感謝し、自身も真剣な唱題に挑戦。治療を始めて1カ月で仕事に復帰し、1年後には完治できた。
信心の確信をつかんだ牛本さんは、一段と学会活動に取り組むようになり、友人を座談会に招くなど仏縁を拡大。白蓮グループの班長としても奮闘した。
女子部や婦人部の先輩と訪問・激励に歩き、昨年末から本年1月の「マイ ロマン総会」では、新たなメンバーを糾合することができた。
職場でも、システム開発のプロジェクトメンバーとして活躍し、チームリーダーも務めた。
「『決めて』『祈って』『行動する』——この勝利のリズムで、新たな広布の開拓闘争を勝ちまくれ!」。池田先生の指針を胸に、牛本さんは、地域と社会で"必ず勝つ"と決めている。

◇広島に幸の花咲け
弥生3月は、広島戸田総県の友にとって、二つの師弟の原点が刻まれる月である。
一つは76年(昭和51年)3月18日である。
広島を訪れていた先生は、激励行の合間を縫って、広島文化会館からほど近い太田川の河畔を散策。安佐南区側の川沿いの道を車で走った。翌19日に先生は、広島文化会館で行われた各部代表幹部会でこのことに触れつつ、「妙法の 轟きわたる 広島に 右に左に 幸の花咲け」など、2首の歌を発表した。
二つ目は95年(平成7年)3月30日。この日、安佐南区が、池田先生の提案で「黄金区」として出発した(現在は広島東黄金区と広島西黄金区)。同志の喜びは爆発。"わが町を黄金の理想郷に!"と、破竹の勢いで対話拡大に走り、勝利の春を飾った。
広島戸田総県の友は近年、平成26年8月豪雨、平成30年7月豪雨(西日本豪雨)と、2度の災害を経験し、そのたびに先生の励ましを受けて、立ち上がってきた。
「世界平和祈願の碑」を守り、幾たびも試練を乗り越えてきた我等こそ、平和の光を放ち、"立正安世界"の先駆けとなる!——広島戸田総県の友は、不撓不屈の心で、栄光の峰へ突き進む。