社会で奮闘する
わが地域の青年に
皆で温かな応援を!
後継の育成と成長こそ
広布拡大の原動力だ!
弟子檀那中への御状 P177
『定めて日蓮が弟子檀那流罪死罪一定ならん少しも之を驚くこと莫れ方方への強言申すに及ばず是併ながら而強毒之の故なり、日蓮庶幾せしむる所に候、各各用心有る可し少しも妻子眷属を憶うこと莫れ権威を恐るること莫れ、今度生死の縛を切つて仏果を遂げしめ給え』
【通解】
かならずや、日蓮をはじめ弟子・檀那が死罪や流罪になることであろう。すこしもそのことに驚いてはならない。諸方へ強い言葉で(諫状を)書き送ったことは言うまでもない。これも而強毒之(正法を信じない者に、強いて説いて仏縁を結ばせること)のためなのである。その結果については日蓮は覚悟している。
あなたがたも用心しておきなさい。少しでも妻子眷属のことを思って(臆病になっては)ならない。権威を恐れてはならない。いまこそ苦悩の人生を断ち切って、成仏を遂げるべきである。
名字の言 2回目の"入会記念日" 2019年11月30日
「私の"入会記念日"は二つあります」と、ある壮年部員が語っていた。一つ目は、文字通り入会した日。二つ目は、人のことを祈り始めた日、だという▼彼が言う"2回目の入会"までには随分と時間がかかった。信心する意味を見失い、活動から離れた時期もあった。やめてしまおうかと思う時も。だが、信心を勧めた先輩は関わり続けてくれた。共に信心の基本を学び、共に動き、共に祈ってくれた▼当時を振り返り、先輩は言った。「不安もあっただろうに、君は僕を信じ、一大決心をして入会してくれた。だから僕も一大決心して、君と一緒に成長していこうと決めたんだ」。"2回目の入会"を誰より喜んだのも先輩だった▼池田先生は男子部の第1部隊長の時、さまざまな事情で個人指導が行き届いていなかった新入会者や、思うように活動できていない部員に会うことに、弘教と同じくらい力を入れた。当時、先生は語っている。「一人ひとりを大事に面倒をみて、育てていく。それも大切な弘教です」▼"わが心の入会"は何度あってもいいのかもしれない。新しい自分に一歩成長できた日、新しい決意で信心に挑み始める日は、ともどもにたたえ合い、喜び合える記念日だ。その積み重ねが、揺るぎない幸福への軌道となる。(鉄)
寸鉄 2019年11月30日
広布に戦い続ける人が菩薩であり仏—恩師。共に若々しい心で今日も前進
SGIは異なる文化や背景の人を結ぶ役割果たす—博士。共生社会の指標
「貴賤上下をえらばず」御書。信心に肩書や立場は関係なし。率先の人に
暖房器具火災での死亡事故、5年で100人。7割が高齢者。共に注意呼び掛け
寒さが増す時季。無冠の友の皆様ありがとう!使命の道を呉々も無事故で
☆「教学部教授登用講座」のために 第2回 観心本尊抄
◇平和の世紀を築く人間主義の哲理
「教学部教授登用講座」(全3回)の第2回中継行事が、30日(土)、12月1日(日)に、全国各地の会館・会場で開催されます(日時・会場の詳細は各県・区ごとに決定)。ここでは、中継行事の中で学ぶ御書の御文と通解、池田先生の指導を掲載しました(学習の便宜を図るため、講座の中で取り上げる順に合わせて、御文の冒頭に番号を振ってあります)。受講者は、御書と教材(本紙面)、受講カードを持参し、中継行事に参加してください。
◇「観心本尊抄」について
「観心本尊抄」は、文永10年(1273年)4月25日、日蓮大聖人が52歳の時、流罪地の佐渡・一谷で御述作になり、下総国(現在の千葉県北部などの地域)の門下・富木常忍に送られた重書です。
大聖人は、文永8年(1271年)9月12日の竜の口の法難の後、約2年半の間、佐渡に流罪されました。
本抄では、まず、本門の本尊を信受し、南無妙法蓮華経の唱題に励むことが、末法における成仏の修行であるという「受持即観心」の法門が明かされます。
続いて、末法の衆生が成仏のために信受すべき本尊について述べられ、その本尊は本門の肝心である南無妙法蓮華経であり、地涌の菩薩によって弘められることが明かされます。
最後に、成仏の根本法である一念三千を知らない末法の衆生に対して、仏(久遠の釈尊)が大慈悲を起こし、一念三千の珠を包んだ妙法五字を授与されることを述べて、本抄を結ばれます。
◇御文1
『釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与え給う、四大声聞の領解に云く「無上宝聚・不求自得」云云、我等が己心の声聞界なり、「我が如く等くして異なる事無し我が昔の所願の如き今は已に満足しぬ一切衆生を化して皆仏道に入らしむ」、妙覚の釈尊は我等が血肉なり因果の功徳は骨髄に非ずや』(御書246ページ15行目〜18行目、編年体御書536ページ8行目〜11行目)
◇通解1
釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足している。私たちは、この妙法蓮華経の五字を受持すれば、おのずと釈尊の因果の功徳を譲り与えられるのである。
信解品で、須菩提・迦旃延・迦葉・目けん連の四大声聞が説法を聞いて理解して「この上ない宝の集まりを、求めずしておのずから得ることができた」と言っている。これは、私たちの己心の声聞界である。
方便品には「衆生を私(釈尊)のように等しくして異なることがないようにしたいと、私がその昔、願ったことが、今はすでに満足した。一切衆生を教化して、皆、仏道に入らせることができた」と述べられている。妙覚の位の釈尊は、私たちの血肉である。この仏の因果の功徳は、私たちの骨髄ではないだろうか。
★池田先生の指導から1
「受持即観心」という日蓮仏法の極意を明かされた御文です。
妙法蓮華経は、釈尊が久遠より積み重ねた成仏の原因である修行(因行)と、その結果として成就した福徳(果徳)を、全て具足する大法です。
それは、釈尊自身が妙法蓮華経によって仏になり、また、妙法蓮華経に基づいた法華経を説いているからです。釈尊のみならず一切の諸仏もそうです。妙法五字には、一切諸仏の仏因と仏果が具わっている。
続けて大聖人は、「我等此の五字を受持すれば」と仰せです。「我等」とは大聖人と門下であり、直結する末弟の私たちです。さらに、一切衆生、全民衆を包含するお言葉です。
そして、「自然に」——道理として「必ず」です。「誰でも」ということです。どんな人でも、必ず仏の境涯を開いていけるのです。
この妙法五字を受持して、自行化他の題目を唱え、実践していくならば、成仏の原因も結果も、そっくりそのまま、私たちに譲り与えられます。末法の凡夫が成仏する修行の原理を確立し、明かしてくださったのです。
発迹顕本された大聖人が、顕された御本尊は、この妙法五字の曼荼羅です。
戸田先生は、「文底よりこれを読めば『己心を観ずる』というのは御本尊を信ずることであり、『十法界を見る』というのは妙法を唱えることである」と拝しています。(中略)
深く信心を発して、妙法を唱える時、私たちが拝する御本尊の明鏡に照らされ、わが胸中の御本尊が涌現します。己心の仏界を見るのです。受持即観心の御本尊なればこそ、いかなる苦難も必ず乗り越えていける、いかなる苦悩も必ず解決していける、その偉大な力があるのです。(『人間革命の宗教』所収「民衆仏法(上)」)
◇御文2
『是くの如き高貴の大菩薩・三仏に約束して之を受持す末法の初に出で給わざる可きか、当に知るべし此の四菩薩折伏を現ずる時は賢王と成って愚王を誡責し摂受を行ずる時は僧と成って正法を弘持す。
問うて曰く仏の記文は云何答えて曰く「後の五百歳閻浮提に於て広宣流布せん」と、天台大師記して云く「後の五百歳遠く妙道に沾おわん」(中略)
此の釈に闘諍の時と云云、今の自界叛逆・西海侵逼の二難を指すなり、此の時地涌千界出現して本門の釈尊を脇士と為す一閻浮提第一の本尊此の国に立つ可し』(御書254ページ1行目〜9行目、編年体御書544ページ5行目〜15行目)
◇通解2
このような高貴な大菩薩が、釈迦仏、多宝仏、十方の分身諸仏という三仏に対して末法弘通を約束して、妙法蓮華経の五字を受持したのである。どうして末法の初めに出現されないことがあるだろうか。
まさに知るべきである。この地涌の菩薩の指導者である四菩薩は、折伏を現ずる時は賢王となって愚王を責め誡め、摂受を行ずる時は僧と成って正法を持ち広めるのである。
問うて言う。仏は未来についてどのように述べられているか。
答えて言う。法華経薬王品には「後の五百年に(この法華経を)閻浮提(全世界)において広宣流布するだろう」と説かれている。
この文について天台大師は『法華文句』に「後の五百年に、妙法が流布し、長遠に一切衆生がその功徳に潤うだろう」と記し、妙楽大師は『法華文句記』に「末法の初めにも、冥益がないわけではない」と記している。(中略)
(続く)伝教大師の(『法華秀句』の)釈に(末法の様子を)「闘諍の時(争いの絶えない時)」とあるのは、今起きている自界叛逆難・西海侵逼難の二難を指すのである。この(闘諍の)時に、地涌千界の菩薩が出現して、本門の釈尊を脇士とする一閻浮提第一の本尊を、この国に立てるのである。
★池田先生の指導から2
「観心本尊抄」では、地涌の菩薩が出現する「時」——それは、"末法の初め"であると仰せです。三毒強盛の五濁悪世であり、闘諍言訟の乱世です。
思想・宗教においては"我賢し"と我見が横行し、小が大を破るなどの転倒が続き、根本として尊敬すべき本尊が雑乱する。ゆえに、あるべき人間と社会の価値観が見失われ、精神の土台が崩れていく。この一番混迷した時代に、地涌の菩薩が現れ、いまだ真実に無知である末代幼稚の衆生に、「妙法蓮華経の五字」の大良薬を与えられるのです。
そして、御文の後段において、この地涌の菩薩の現実の振る舞いを「賢王」と「僧」の対比から明かされています。
とりわけ、地涌の菩薩が末法において「折伏を現ずる」時には、「賢王」すなわち「在家」の賢明なる指導者となって、荒れ狂う社会に出現すると仰せです。
「愚王を誡責」するとは、民衆を不幸にする権力者の誤りを正していくことです。今日でいえば、「賢王」とは、民衆の中で、人間を苦しめる根源悪と戦う賢者の一人一人です。
どこまでも謗法充満の悪世の中で仏法を弘通する、末代にわたっての大折伏行がいかに偉大な聖業であるかを教えられている、まことに甚深の御聖訓です。
末法の広宣流布とは、現実社会に生きる目覚めた民衆自身が、民衆の海の中で、目の前の一人の民衆の生命変革に挑んでいく以外にないとの大宣言であると拝されます。
いずれにせよ、「自他共の幸福」を築くための行動がなければ、地涌の菩薩ではありません。人間の苦悩と諸問題を解決し、その社会的使命を果たしてこそ、真の菩薩です。
現実の社会にあって、日常の人間生活にあって、仏法の生命尊厳の思想を浸透させていく「賢王」という人間主義の振る舞いは、具体的には、文化・教育・平和の次元に現れます。「文化の大地」を耕し、「教育の大光」を広げ、「平和の大道」を開いていくのです。絢爛たる人間革命の文化が創出されます。その中で人類の調和と共生の花を爛漫と咲かせていくのです。(『人間革命の宗教』所収「民衆仏法(下)」)