2019年11月11日月曜日

2019.11.11 わが友に贈る

新聞休刊日

御義口伝巻下 P762
『功徳とは六根清浄の果報なり、所詮今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は六根清浄なり、されば妙法蓮華経の法の師と成つて大なる徳有るなり、功は幸と云う事なり又は悪を滅するを功と云い善を生ずるを徳と云うなり、功徳とは即身成仏なり又六根清浄なり』

【通解】
功徳とは六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)にそなわった煩悩が払い落とされて清らかになった姿です。結局、日蓮とその門下が南無妙法蓮華経と唱えれば六根清浄となるのです。したがって、妙法蓮華経の法を自行化他に行ずるところの師となって大きな功徳があるのです。
功徳の「功」とは幸いということです。また悪を滅することを「功」といい、善を生ずることを「徳」というのです。最高の功徳とは即身成仏であり、六根清浄なのです。

☆11月度座談会拝読御書 法華経題目抄
◇成仏の大境涯を開きゆこう!

◇拝読御文
『妙と申す事は開と云う事なり世間に財を積める蔵に鑰なければ開く事かたし開かざれば蔵の内の財を見ず』御書全集 943ページ12行目〜13行目

◇キーワード� 妙法の功徳は絶大
"法華経の意味も分からず、一生の間に一遍の題目を唱えただけでも、成仏の軌道に入れるか"
"その通り。入れる"
本抄の冒頭、日蓮大聖人は自ら問いを立てられ、たとえ一遍の題目であっても、無量の功徳力があると御断言です。お手紙を読んだ門下は、安心して信心に励めたことでしょう。
その上で、大聖人は、「法華経の題目は八万聖教の肝心一切諸仏の眼目なり」(御書940ページ)と記されています。
法華経の題目こそが、一切の仏の説法の根幹です。題目は、あらゆる衆生を成仏させる一法であると明かされています。
この根源の功力を開くには、何が必要なのでしょうか。
大聖人は本抄で、「成仏の軌道に入る根本は信である」(同ページ、趣意)と、妙法に功力があるといっても、その力を開き現せるかどうかは、「信」にかかっていると仰せです。
本抄では「無解有信」(仏法の法門に理解はないが信心はある)、「有解無信」(仏法の法門に理解があるが信心はない)について触れられています。
法門を理解することよりも、信心を深め、強めていくことが大切なのです。自分の生命が変わることが根本です。
ゆえに、強盛な信心を奮い立たせ、地道に唱題を実践し抜いていくことが、成仏の軌道、つまり行き詰まることのない、幸福と勝利の人生を真っすぐに歩んでいくことになるのです。

◇キーワード� 自身に具わる仏性
拝読御文は、妙法の「妙」の一字が持つ深い意義について示された一節です。
ここでは「妙と申す事は開と云う事なり」(御書943ページ)と、「開の義」について述べられています。
蔵の中の財宝とは、自分自身に具わる仏性のことです。それも特定の人だけでなく、一人ももれなく、誰もが仏性を具えています。
この万人が具える宝蔵を開くことができれば、誰もが仏になることができます。つまり万人成仏が可能になるのです。そのための鍵が、妙法なのです。
その上で、「開かざれば蔵の内の財を見ず」(同ページ)と仰せの通り、現実の我が身に仏の生命を体現しなければ、いくら仏性があるといっても意味がありません。
自分自身に具わる仏性を涌現させ、自身が人間革命していくことが、わが生命を開くことにほかなりません。一人一人が現実の生活の中で、仏性を涌現させていくことで、仏法は「生きた宗教」となるのです。
また、唱題を根本に、仏界の生命を涌現させた一人が、生き生きと仏法を弘め、他の人の仏性を涌現させていくことで、広宣流布も、立正安国も現実のものとなるのです。
広宣流布とは、自分だけでなく、他人の仏性をも開き顕す、"自他共の人間革命の連帯"を広げゆくことなのです。

★池田先生の指針から/苦しい時こそ題目
御本尊は「功徳聚(功徳の集まり)」ともいわれます。その尽きることのない功力を引き出していく要諦は、自身の強盛な信心です。本抄(=法華経題目抄)に「夫れ仏道に入る根本は信をもて本とす」(御書940ページ)と仰せの通りです。真剣にして、地道な唱題の実践の中で、無限の功徳が現れるのです。題目を唱えれば、生命力が湧き、勇気が湧いてきます。
「苦楽ともに思い合せて南無妙法蓮華経とうちとなへゐさせ給へ」(同1143ページ)です。苦しい時こそ題目。行き詰まったら題目です。
戸田先生は、折々に語られていました。
「御本尊への強い願いは、必ず通ずる。それには、条件が三つある。一つ、題目。二つ、題目。三つ、題目である」
「題目の力は偉大である。苦しい業を感ずる生命が、あたかも美しい花園に遊ぶがごとき、安らかな夢のごとき状態に変化するのである」
「題目は、真剣勝負で祈れば、必ず功徳となって現れる。真剣に祈れば、雑念は消え、広布の戦いで勝つことに集中できるようになるのだ」
「負けてたまるものか! と、腹を決めるのだ。題目をあげにあげて戦うのだ。根本は題目だ。祈りである」
一人ひとりが広宣流布に生き、幸福になる直道を戸田先生が教えてくださったのです。

「妙と申す事は開と云う事なり」との御文は、「開の義」です。法華経こそが、仏教の大目的である一切衆生の成仏の道を開く、唯一の経典であると明かされています。
妙法には、九界の現実の人間生命に秘められた仏界という胸中の宝蔵を開き、万人の生命を躍動させていく力があります。法華経が説かれる以前の諸経では、仏の究極の覚りである妙法という財宝を納めた「蔵」は閉ざされたままでした。蔵があるように見えても、その中身の財宝を見た人はいなかったのです。
万人成仏を明かす法華経が説かれることによって、初めて諸経の蔵が開き、釈尊が真に説きたかった妙法という「財」が現れました。(中略)さまざまな経典で、仏という偉大な人格や、広大な仏の覚りが説かれていますが、本当の意味でその教えが万人に開かれていなければ、何の利益もありません。
実際に、私たち自身の人生が変わり、現実の生活の中に仏と同じ尊極の境涯が現れなければ、仏教の真価は発揮されません。当時の仏教信仰は、自分の外に「偉大な仏」を置いて、その仏の功力を頼むだけの信仰です。大聖人の時代に流布していた「念仏の題目」は、まさにその典型です。これに対して、「法華経の題目」とは、自身の生命に具わる宇宙大の妙法の力を顕現し、成仏の大境涯を開いていくための題目です。(『勝利の経典「御書」に学ぶ』第20巻)