「継続」は力なり。
地道な一歩一歩が
飛躍への原動力だ!
自らの目標に向かって
粘り強く進みゆこう!
諸法実相抄 P1361
『行学の二道をはげみ候べし、行学たへなば仏法はあるべからず、我もいたし人をも教化候へ、行学は信心よりをこるべく候、力あらば一文一句なりともかたらせ給うべし』
【通解】
行学の二道を励んでいきなさい。行学が絶えてしまえば仏法はなくなってしまう。自分も実践し、人にも教え、勧めていきなさい。
行学は信心から起こるのである。力があるならば、一文一句であっても人に語っていきなさい。
〈名字の言〉 2019年11月6日
南アフリカではかつて、ラグビーは「白人のスポーツ」だった。「緑と黄金」色のジャージーと、「スプリングボクス」という代表の愛称は、黒人にとってアパルトヘイト(人種隔離政策)の象徴だった▼マンデラ大統領の誕生後、国内ではチームカラーと愛称の変更が叫ばれた。変更に反対したのはマンデラ大統領。"チームカラーと愛称は白人の誇り。それを否定することは新たな差別を生むことになる"——それが大統領の考えだった▼今回のW杯は、南アの優勝で幕を閉じた。代表チームで初の黒人主将となったシヤ・コリシ選手は語った。「さまざまな背景、人種が一つになって優勝できた。一つになれば目標を達成できると示せた」▼差別は人間の心に巣くうものであり、いつの時代にも存在する。だが、それは決して克服できないものではない。1995年から続く、ラグビー南ア代表の歩みは"人種や文化などの差異を、人類は必ず乗り越えることができる"という確かなメッセージである▼マンデラ大統領らの手によって、南ア代表は人類融和の象徴となった。種をまいても、芽が出るとは限らない。だが、まかなければ何も始まらない。実りの時が必ず来ると信じ、一人一人の心に平和の種をまいていきたい。(燦)
〈寸鉄〉 2019年11月6日
幹部はまず自分が変わる事だ—恩師。さあ友の中へ。充実の励まし週間を
福島・いわきの友が奮闘。不屈の東北魂で底力を!勝って復旧・復興を前に
四国の日。魁光る正義の炎は赤々と!創立90年へ拡大の暁鐘を打て鳴らせ
人に与える喜びは自分に返ってくる—哲人。自他共の幸開く誉れの菩薩道
小中学生の約9割が近視と。スマホの使い過ぎに注意。親子で規則決めて
☆世界に魂を 心に翼を 民音が開いた文化の地平 第19回 世界バレエ・シリーズの金字塔(上)
◇「ここから隆盛が始まった」
今から半世紀以上前、まだ創立間もない民音の公演が、「夢のような出来事」と列島を沸かせた。
1966年から足かけ12年。東西の名門バレエ団を次々に招聘し、来日を実現させた「世界バレエ・シリーズ」(全193回公演)である。
海外の名だたるオーケストラやバレエ団、歌劇場の来日公演で舞台制作を手掛け、数々の民音公演にも尽力してきた広渡勲氏(昭和音楽大学客員教授)は、こう証言する。
「今では当たり前かもしれませんが、ダンサーや舞台装置をはじめ、団の全てを呼ぶ"引っ越し公演"を軌道に乗せたのは民音です。当時、バレリーナが単独で踊るイメージが強かったバレエを、舞台を含む総合芸術として広く紹介した。"バレエといえばソ連"という時代に、西側の国からも、そうそうたるバレエ団を招いた。戦後、日本のバレエの隆盛は、ここから始まったのです」
◇ ◆ ◇
横浜港の一角。船を待つ数十人の人だかりから歓声が上がった。
66年9月7日。ソ連のノボシビルスク・バレエ団を乗せた客船「バイカル号」が入港し、団員が港に降り立つ。総勢100人。振り袖に身を包んだ役員が花束を手渡すと、団の総支配人が笑顔で応えた。
「今回の公演を誇りに思っています。ベストを尽くして皆さんの期待に応えたい。日本とソ連の交流に役立てるよう頑張ります」
広大なロシアの中心、西シベリアに位置するノボシビルスクは、モスクワ、サンクトペテルブルクに次ぐ第3の都市。第2次世界大戦中、同国の文化を保護するため、バレエやオペラが同都市に集められた。終戦直後にノボシビルスク・バレエ団が誕生し、ソ連を代表するバレエ団の一つに数えられていた。
来日したのは、T・ジミナー、R・クルペーニナといった人民芸術家ら、超一流の顔ぶれ。衣装や大小の道具も、ソ連随一の規模を誇るノボシビルスク劇場の一切が、そっくり運ばれてきた。同団にとっても、初の大掛かりな海外ツアーである。
演目は、チャイコフスキーの名曲に彩られた「白鳥の湖」をはじめ、最高峰の技術を駆使した「海賊」、民族舞踊をふんだんに盛り込んだ鉱山の女王の恋物語「石の花」など。
舞台装置があまりに大きく、「上演は夢」とまでいわれた演目も再現され、「ソビエトのバレエを完全な形で観ることができる」と、バレエ界はノボシビルスク一色となった。
◇ ◆ ◇
なぜ創立直後の民音に、こうした一大プロジェクトが可能だったか。
世界バレエ・シリーズは、日本バレエの振興に尽力した、ある人物との語らいから生まれた。
創立者・池田先生は、民音が始動した60年代、各国を歴訪する中で、一流の芸術団体を日本に呼ぶために奮闘していた。地理的な制約などにより、本物の西洋芸術に触れる機会が限られていた時代である。
先生はバレエ・シリーズが始まる前年の65年10月にイタリアへ。同行した民音の秋谷専任理事(当時)がミラノのスカラ座に赴き、"ぜひ日本で公演を"と交渉した。パリにも足を運び、現地の音楽団体と将来の交流について意見を交換している。
"世界一流の芸術を日本へ"との構想に共鳴したのが、同じ頃に東京バレエ団を創立し、バレエ界の発展に心血を注ぐ佐々木忠次氏だった。
当時、日本のバレエは「バレエ教室の延長上」の域を出ず、「舞台芸術としてのバレエ」とは、ほど遠いものだった。バレエ界の革新には本場の感動と迫力が欠かせない。
佐々木氏に"世界のバレエ団を日本に呼んでいきたい"と相談を持ち掛けると、氏は各国のバレエ団の名を挙げ、「シベリアにも素晴らしいバレエ団がある」。日本ではまだ知られていないノボシビルスク・バレエ団の招聘を提案し、零下40度にもなる冬のシベリアに飛び、自ら来日交渉に当たった。
氏は、一般大衆こそがバレエ界の後援者、審判者として発展のカギを握っていると強調。民音を「唯一の光明源」とたたえ、「今こそバレエ界の力を結集」と呼び掛けている。(「月刊みんおん」65年4月号)
民音の熱意と、佐々木氏の"志"が意気投合し、歴史を画するバレエ・シリーズが産声を上げた。
◇ ◆ ◇
軽やかな跳躍、しなやかな手の動きは、湖水に浮かぶ白鳥そのもの。観客を瞬く間に詩情の世界へ誘う。
ノボシビルスク・バレエ団の来日公演は、上野の東京文化会館を皮切りに、大阪、福岡、京都など、27ステージで大喝采を浴びた。前売り券は飛ぶように売れ、東京公演に北海道から申し込みがあったほど。どの地でも嵐のような拍手が起こり、何度もカーテンコールが繰り返された。
本場の舞台を目にした感動は、それぞれの心に焼き付いて離れない。
福岡在住の澤千恵佳さんは「軍艦島」で知られる長崎・端島の出身。
ある日、母が「2泊3日でバレエを観に行く」と言い出し、澤さんは驚いた。ノボシビルスク・バレエ団の福岡公演である。「バレエって、泊まりがけで行くほど素晴らしいものなんだ」と幼心に思った。
やがて澤さんも、最寄りの長崎市での民音公演に足を運ぶように。しかし、フィナーレの前に会場を出ないと、島に戻る最終便に間に合わないため、何度も残念な思いをしてきた。後年、民音のバレエ公演を終演まで見届けることができ、「あの感激は忘れられません」と振り返る。
東京・江戸川の大江敏夫さんは、板金職人として芸術とは無縁の生活を送ってきた。第2次世界大戦の末期、中立条約を破り、一方的に攻め込んできたソ連に良い印象はない。
「鉄のカーテン」に覆われた"異国の文化"だったが、気付けば手が赤くなるほど拍手を送っていた。
"池田先生が伝えたかったのは、この感動だったのか!"——長年のわだかまりが解け、以来、地道な文化交流に尽くしてきた。
このノボシビルスク・バレエ団を筆頭に、先生は世界バレエ・シリーズに毎回のように足を運び、芸術家らに心からの感謝を伝えている。
74年にはソ連に招待され、ボリショイ劇場でバレエを鑑賞。6回の訪ソの中で、全ソ民族舞踊アンサンブルやモスクワ児童音楽劇場の来日公演を実現するなど、同国を代表する芸術団体を招聘し、交流は今に続く。
先生は"人類共通の宝である最高の音楽芸術を民衆の手に届くものに——この願いが民音創立の原点である"と後に綴っている。同シリーズの成功へ尽力を惜しまなかった。
◇ ◆ ◇
海外からバレエ団を招聘する一方で、民音は、日本のバレエ団の公演にも力を尽くす。
64年に発足した東京バレエ団の公演は、やがて年50回を超え、地方会場でも数多く行われた。
この64年は、東京オリンピックが開かれ、東海道新幹線が開通した年。経済大国へと急速な発展を遂げる中、舞踊家の育成は遅れたままだった。
海外招聘とともに、日本中にバレエ芸術を届け、本格的なバレエを育む——民音は、国内外の両面からバレエに光を注いだ。
当時、同団でプリマバレリーナとして活躍していた鈴木光代氏は、民音公演における観衆の熱意が、ひときわ思い出深いという。
北は小樽や室蘭、南は別府や延岡など、大都市以外の公演も活況だった。会場によっては舞台が狭く、演出の調整を余儀なくされた。
初めてバレエを観る人も多い。仕事着での来場者も目に付いた。鈴木氏は「ここで拍手をもらえるというタイミングに拍手がなく、気落ちしたこともありました」と懐かしむ。
翌年、同じ都市で再演した折、拍手のタイミングが見事にそろっていたことに、胸を熱くした。
実はこの時、氏は母を介護しながら舞台に臨んでいた。介護は14年に及んでいる。"いつ舞台で倒れても本望だ"——その熱意を受け止めてくれる観客の存在がうれしかった。
民音主催の東京バレエ団公演は、通算400回以上に及ぶ。
学校コンサートの第1回では、同団の公演が開催される(北海道士別市)など、次世代にも光を届けた。
◇ ◆ ◇
「それまで日本には観客がいなかった。"三角形の一角"が欠けていたんです」と、広渡氏は総括する。
「劇場芸術は、出演者、観客、劇場の三つが三角形となって、初めて成立するものです。良い観客がいないと芸術家は育たない。真剣に応援してくれる観客が不可欠です。客層も民音から始まり、一般へと広がっていきました。やがて政府の支援なども始まりましたが、民音の取り組みは時代を画する出来事でした」
66年のノボシビルスク・バレエ団に次いで、翌67年には"鬼才"モーリス・ベジャール率いるベルギー国立20世紀バレエ団が来日。
東西最高峰の競演が、日本のバレエ界に新時代の到来を告げる。