明年のスタートは
本年の総仕上げから。
異体同心の合言葉は
皆が前進! 皆が人材!
さあ先駆の第一歩を!
松野殿御返事 P1386
『受けがたき人身を得て適ま出家せる者も仏法を学し謗法の者を責めずして徒らに遊戯雑談のみして明し暮さん者は法師の皮を著たる畜生なり、法師の名を借りて世を渡り身を養うといへども法師となる義は一もなし法師と云う名字をぬすめる盗人なり、恥づべし恐るべし』
【通解】
受けがたい人身を得て、たまたま出家した者でも、仏法を学び謗法の者を責めないで、いたずらに遊び戯れて雑談のみに明かし暮す者は、法師の皮を著た畜生である。
法師という名を借りて、世を渡り、身を養っていても、法師としての意義はなに一つない。法師という名字を盗んだ盗人である。恥ずべきことであり、恐るべきことである。
名字の言 2019年11月21日
ワールド・ボクシング・スーパーシリーズで、バンタム級王者になった井上尚弥選手。プロでは19戦19勝(16KO)と無敗を誇る。この強さの秘密は、かつて"敗戦"と向き合ったことにあった▼アマチュア時代の彼は81戦75勝で「6敗」。その敗戦の一つが、18歳の時のロンドン五輪アジア予選である。格上相手とはいえ、自身のスタミナ切れは明白だった▼強くなりたい——考え抜いた末、「やらされている練習では勝てない」と思い至った。以来、練習はもちろん、日常生活でも意識を高く持ち続けるよう心掛けた。「意識しているものが、やがて自分の長所になる」。テレビを見る時なども、広げたタオルを足の指でたぐり寄せる訓練を続けた。そうした積み重ねから、爆発的な高速ステップが生まれた(『勝ちスイッチ』秀和システム)▼同じ行動でも、ただ漫然と行うのか、意識を持って主体的に取り組むのか。小さなことでも日々、積み重ねることで確かな成果が生まれる▼御書に「受くるは・やすく持つはかたし」(1136ページ)と。持続の信心の大切さとともに、「受くる」という受動的な姿勢から、「持つ」という主体的な生き方への転換を促されたとも拝せよう。皆が広布の主役として、自身の目標を勝ち取り、創立の月を飾ろう。(誼)
寸鉄 2019年11月21日
私の後に必ず青年が続く—先師。192カ国に後継の陣列。三代の偉業は燦然
御書「我が弟子等・大願ををこせ」。さあ創立の月から決意新たに広布開拓
汝の尊厳と同じく他人の尊厳を大切にせよ—詩人人の振舞に仏法の真価も
紛争なき未来へ挨拶から絆結ぼう—世界ハロー・デー。我らも今いる所で
後絶たぬ詐欺被害。急かす内容、うまい話は用心。まず冷静に。周囲に相談
☆11・18「創価学会創立記念日」特集(上) 初代会長・牧口先生の崇高な生涯
◇「死身弘法」こそ学会永遠の原点
初代会長・牧口常三郎先生の殉教から、11月18日で75年。創価の光彩は今、地球を照らしている。11・18「創価学会創立記念日」特集(上)では、学会永遠の原点である師弟の闘争を紹介する。
凍てつく校舎の一角。子どもたちのあかぎれた手を取り、優しく湯にひたして傷を癒やす——。
1893年(明治26年)、21歳の牧口先生は、北海道で教員生活の第一歩を踏み出した。尋常小学校の義務教育制が始まって、まだ数年。近代初等教育の黎明期にあって、慈愛に満ちた振る舞いは、人々の心に深く刻まれている。
「幸福が人生の目的であり、従って教育の目的でなければならぬ」(『牧口常三郎全集』第6巻、第三文明社、現代表記に改めた)
後にそう記した思いは、生涯を通じ、どんな境遇の人に対しても変わることはなかった。
◇「人道主義」の先駆け
28歳で北海道師範学校の教諭となった牧口先生は、その後、上京し、六つの小学校で校長を歴任する。牧口の名を広く世に知らしめたのは、1903年(同36年)の『人生地理学』の出版であった。
風土、地形、気候といった地理的現象と人間生活の関係を探究した同書は、40以上の新聞・雑誌に書評が掲載されている。後に「この書の出現によってわが国の地理学がその外貌を一変した」(社会学者の田辺寿利氏)と評されるなど、大きな話題を集めた。
中でも注目すべきは、同書が、日本において、世界市民や人道主義の理念を示した、先駆けの一つという点である。
日露戦争の前年、帝国主義が世界を席巻しつつある中で、先生は「人道的競争」を提唱。人類は、軍事的競争から、政治的競争、経済的競争を経て、人道的競争へ向かうべきであると訴えた。
この『人生地理学』出版の翌年から、牧口先生は中国人留学生のために設けられた弘文学院(のちに宏文学院)で地理学を教えている。講義は留学生の話題に。4年後には、同書の中国語訳『最新人生地理学』が上海で出版された。
日清戦争による中国人蔑視の風潮もあったが、牧口先生は彼らをこよなく愛した。かの文豪・魯迅も同校で学んでいる。
また牧口先生は、庶民のための女性教育の道を、いち早く開いた。
1900年代の初頭は、小学校を出た後、女学校で学ぶことのできる女性は、ごく少数だった。
その状況を憂い、牧口先生は女性のための通信教育を行う「大日本高等女学会」を創立(1905年)。自ら編集・発行人となって教材『高等女学講義』を刊行し、教育の機会を広く提供していく。
ある新聞評では"知識のみを学んで精神を忘却するような女学校より、女子の本分の自覚を促す、この講義録に学んだ方が幸福"(「九州日日新聞」)とも。最盛期、受講者は2万人にも上った。
◇戸田先生との出会い
1920年(大正9年)、牧口先生は三笠尋常小学校、同夜学校の校長に就任する。
同校は、壊れた窓ガラスを厚紙で塞ぐような資金の乏しい学校であり、800人が3部に分かれて授業を受けていた。牧口先生は家族と校内の官舎に暮らし、子どもたちのために精魂を注ぐ。
おなかをすかせた子には、身銭を切って豆餅などを用意。弁当を持参できない児童のために、学校としてパンやみそ汁を無料で提供していく。その様子は新聞などでも紹介され、牧口先生の"米シカゴ郊外の貧民学校で行われている「ペニーランチ」を参考にした"との談話も掲載されている。
さらに先生は、子を学校に通わせず、労働を優先させる家庭へ何度も足を運び、登校を促した。
この年、北海道から上京していた戸田先生が牧口先生の自宅を訪ね、こう訴えた。「私を採用してください。私はどんな劣等生でも必ず優等生にしてみせます」
牧口先生、48歳。戸田先生、19歳。子どもの可能性を信じ抜く、運命的な師弟の出会いであった。
戸田先生は牧口先生の教育理論を実践する場として、私塾・時習学館を開設。教材をまとめた『推理式指導算術』は、100万部のロングセラーとなった。
◇「価値を創造することだ」
この師弟の出会いから10年後の1930年(昭和5年)2月。
ある夜、牧口先生と戸田先生は時習学館の一室で、火鉢を囲み、深夜まで語らいを続けた。
寸暇を惜しみ、牧口先生が書きためてきた思索の紙片は、膨大な量となっていた。
自らの教育学を世に問いたいと語る師に、戸田先生は尋ねた。
「牧口先生の教育学は、何が目的ですか」
「それは、価値を創造することだ」
「では先生、創価教育、と決めましょう」
出版に向け、戸田先生は原稿の編集や資金の準備を申し出た。
重複を避けながら紙片の一枚一枚を体系的に整理し、牧口先生の幾度もの推敲を経て、『創価教育学体系』第1巻が完成。奥付には創価学会の前身である「創価教育学会」の名が記された。
発刊日である11月18日が、のちに創価学会創立記念日となる。
◇1944年11月18日 「不惜身命」の大精神
牧口先生が日蓮大聖人の仏法と出あったのは、1928年(昭和3年)。戸田先生も、その後、入信に至っている。
当初、教育者の集いとして始まった創価教育学会の活動は、やがて、日蓮仏法の実践に基づき、各人の幸福と社会の繁栄を目指すものへと発展。牧口先生は一人一人との対話を重視し、折伏のための座談会に力を尽くす。
北は北海道から南は九州へ。新幹線も飛行機もない時代である。約10日で北海道をほぼ1周したこともあった。41年(同16年)5月からの2年間だけでも、実に240回を超える座談会に出席したことが明らかになっている。
しかもそれは、行く先々に特高警察が付いて回る中での弘教だった。治安維持法の改正(41年3月)により、座談会は思想犯などを取り締まる特高の監視下に。国家や神社に話が及ぶや、「中止!」の連呼。だが牧口先生は刑事に「よく来た。こっちへいらっしゃい」と声を掛け、「新来者が来ているよ」と、場を和やかにと努めた。
◇迫害を見下ろして
日ごとに軍靴の音は高まり、日本は国家神道を精神的支柱に太平洋戦争に突入する(41年12月)。
迫害を覚悟の上で牧口先生が弘教に歩く一方、宗門は当局から目を付けられることを恐れ、戦争協力の道をひた走る。
勤行の御観念文を天皇と国家神道を賛嘆する内容に改変し、御書全集の発刊を禁止。さらに「日蓮は一閻浮提第一の聖人なり」(御書974ページ)など、御文を14カ所も削除し、迎合を重ねていく。
43年(同18年)6月27日、宗門は牧口先生、戸田先生らを呼び付け、「神札を受けてはどうか」と勧める。だが牧口先生は、「承服いたしかねます。神札は絶対に受けません」と言下に否定。この直後、権力の魔性が牙をむいた。
2日後の29日に学会幹部が連行されるが、牧口先生は微動だにせず、逮捕者の家族を激励。7月1日には青年を入信に導き、幹部会に出席。当初の予定通り、伊豆の下田方面へ対話に向かう。
伊豆は大聖人が流罪された法難の地。牧口先生は72歳という高齢をものともせず、翌2日から5日まで弘教に歩き、6日の朝、特高刑事に同行を求められた。
下田署まで約5キロもの夏の長路を、袴姿の先生が、まるで刑事を従えるかのように歩いて出頭した。
容疑は、治安維持法違反ならびに不敬罪である。別れ際、会員に託した言葉は「戸田君によろしく」。その戸田先生もまた、この日の朝、東京で検挙されていた。
◇獄中での勝利宣言
取り調べは苛烈を極めた。逮捕者の大半が収入を断たれ、家族は「国賊」と罵られた。最後まで信念を貫いたのは、牧口先生と戸田先生の二人のみである。
だが牧口先生は逮捕を"諫暁の好機"と捉え、取り調べで国家神道の誤りを指摘。旧内務省の資料「特高月報」には、権力の横暴に一歩も引くことのない先生の発言が、克明に残っている。
およそ2カ月半の尋問の末、牧口先生は警視庁から巣鴨の東京拘置所へ。暗く冷たい独房での獄中闘争は、約420日に及んだ。しかし、先生は泰然自若として家族に手紙を送っている。
「災難と云ふても、大聖人様の九牛の一毛(=ほんのわずか)です」
「大聖人様の佐渡の御苦しみをしのぶと何でもありません」と、
大聖人を一切の基準とした。
逝去の1カ月前、家族に宛てた最後の手紙には、こうあった。
「(大聖人の仏法を)数千人に実証したのを見て、自分ながら驚いている。これ故、三障四魔が紛起するのは当然で、経文通りです」
命に迫る法難を、「経文通り」と悠然と見下ろす大境涯——これが牧口先生の絶筆となった。
この"勝利宣言"から1カ月後となる44年(同19年)11月18日、奇しくも学会創立の日の朝、牧口先生は崇高な生涯を閉じた。
◇一切の悲願を実現
戸田先生が牧口先生の死を獄中で知ったのは、その2カ月後。45年(同20年)7月3日に出獄し、学会再建に一人立つ戸田先生を、一心に支えたのが池田先生であった。
戸田先生の願業である75万世帯の折伏、牧口先生が念願とした創価教育の学舎の創立をはじめ、両先生の一切の悲願を実現。学会は192カ国・地域に広がり、世界宗教へと飛躍を遂げたのである。
池田先生は随筆に記している。
「創価のすべての門弟が、広宣流布への『不惜身命』『死身弘法』の魂を、わが生命に厳粛に燃え上がらせゆく原点の日——それが、十一月十八日である」