2019年11月14日木曜日

2019.11.14 わが友に贈る

「努力の風」によって
「栄光の旗」は翻る。
ゆえに焦らず 弛まず
今日なすべき課題に
全力で挑みゆこう!

妙法尼御前御返事 P1404
『かしこきもはかなきも老いたるも若きも定め無き習いなり、されば先臨終の事を習うて後に他事を習うべし』

【通解】
賢い者も愚かな者も、老いた者も若い者も、いつどうなるか分からないのが世の常である。それゆえ、まず臨終のことを習って、後に他のことを習おう。

名字の言 2019年11月14日
 「ここには、時代が希求する教育の理想像があります」。先日、鹿児島県薩摩川内市で行われた教育本部の「県人間教育実践報告大会」で、来賓が語っていた▼大会では、積極的な声掛けで生徒の自主性を育む中学校教諭、英語教育に携わって50年の元高校教諭らが登壇。情熱を胸に、教育現場で奮闘する姿に共感が広がった▼小学校の特別支援教育を担当する婦人部員が報告したのは、母子家庭で育つ、知的障がいと自閉症の傾向がある児童との関わり。彼女は、児童の不安を和らげるため、初めての行動は必ず"予習"を。耳鼻科健診の前には、スプーンを代用して「口に冷たいものが入ります」と語り掛けて慣れさせた。また母親との信頼関係を築こうと、交わした連絡帳は5年間で15冊に。「いっしょに悩んでいきましょう」。ノートにつづられた言葉に"一人も置き去りにしない"との心が脈打つ▼「皆さまの手で今日的な教育理論を構築していっていただきたい」——1984年(昭和59年)、池田先生の提案によってスタートした「教育実践記録運動」。35周年の本年、事例数は13万件を突破した▼多様な教育現場での実践例の蓄積は、一人一人の教育力の向上にとどまらず、「教育のための社会」を築きゆく、確かな指標となる。(誼)

寸鉄 2019年11月14日
会長は対話を基調に平和の哲理広げた希有な存在—総長。共生世紀の指標
「紅の歌」誕生の日。若き君よ師弟勝利の先駆を!紅に燃える広布の情熱で
「悩みを断ち切る利剣は題目と折伏」戸田先生。創立の月、悔いなく挑戦
世界糖尿病デー。主な因は暴飲暴食や運動不足。祈りを根本に賢く見直し
秋の火災予防運動。煙草・暖房・こんろ・電気コードが火の元に。指さし確認

☆私がつくる平和の文化 第11回 生命の尊重
◇インタビュー 難民を助ける会理事長 長有紀枝さん
「私がつくる平和の文化」第11回のテーマは「生命の尊重」。登場していただくのは、特定非営利活動法人「難民を助ける会」の長有紀枝理事長です。難民支援の経験を通して、全ての人の生命が尊重される世界を築くために、私たちが心掛けるべきことは何かを語ってもらいました。(構成=小野顕一、歌橋智也)

私にとって1990年代の旧ユーゴ紛争での難民支援が、NGO活動、そして、研究者としての原点です。
旧ユーゴは六つの共和国で構成されていましたが、独立を巡って戦火が広がり、大変な数の難民が出ました。私は91年から現地で難民の支援に携わりました。
難民キャンプでいつも感じるのは、支援活動の「限界」と「可能性」です。人手や資金の制約もあり、助けられる人よりも、助けられない人の方が圧倒的に多い。求められたことに応えることより、断ることの方が圧倒的に多い。つまり「限界」だらけです。
一方で「可能性」もあります。障がい者や難病の患者など、誰からも救いの手が届いていない人たちが必ずいて、私たちのような小さな団体でも、できることが必ずあります。また、政治や宗教などが絡まない日本人だからこそ、果たせる役割もあるのです。
理不尽な状況の中で、人間の強さを感じる場面に出あってきました。よくお母さんが、わが子のことになると力が出るといいますよね。人間って不思議だなと思うんです。難民の中でもそういう方々と出会いました。
本当につらい状況で、自分のことで精いっぱいのはずなのに、同じような境遇に置かれている他者への想像力が働き、力が出るのです。自分だけのことだったら諦めるけれど、苦しむ人たちのために自分を犠牲にしてでも声を上げる。私はそこに、人間の強さを感じます。
難民支援の現場では、人を助けるためには、自分の命を守らなければなりません。そして、自分の命が大切だと思えることが、他の人の命も同じように大切にできる出発点だと思います。
平気で他人を傷つける人は、自分の命を大切にされた実感がないのではないかと思います。もし子どもの頃から、誰かに抱き締められ、愛情を注がれていたら、その体験がどこかに残っているはずです。そういう中で育っていない人は、命の尊さを実感できないかもしれませんが、それが伝わるような関わり方をしていくしかないと思う。

●「諦めない一人」に
先日、大学生から相談を受けました。世界では不条理なこと、非人道的なことが繰り返されている。それを断ち切るために自分も何かしたいけれど、何もできないのがもどかしい、と。
この学生に私は、「一人の人間にできることは限界がある」と申し上げました。自分一人で何かしようと意気込んでも、大半のことは達成できませんから、「ああ、だめだった」と諦めてしまう。
しかし一方で、世界の大半のことは、一人の人間の力から始まったのも事実です。「諦めない一人」がいたから、いろんなことが変わってきたのです。
だから自分の力を過大評価しない一方、過小評価や卑下もしてはいけない。120%の力で一瞬で燃え尽きるよりも、"細く長く"でも続けるほうが、世界を変える力になるということを伝えたかったのです。
リーダーが大きな仕事をして世の中が変わることは、もちろんあります。でも、その人が未来永劫存在するわけではない。世界を変えるというのは、一時的なことではなく、永続的な営みによって、もたらされるものです。だから自分を"永続的な営みの一部"と位置づけられる人が、実は強い人で、組織や世界を変えていけるのだと思います。
"社会の歯車になんかなりたくない"と、私も学生の頃は思っていました。ですが、地雷除去活動中の事故で右手右足を失ったクリス・ムーンさんというイギリスの地雷問題の活動家の言葉を聞いて、考えが変わりました。"こんな体の僕でも、地雷の廃絶という大きな歯車の中で仕事ができることがうれしいんだ"と。それを聞いてハッとしたんです。確かに私たちは歯車の一部かもしれない。でも歯車だからこそ物事が動かせると。
「たかが一人、されど一人」です。自分の立ち位置を客観的に受け入れながら、できることをやってバトンを渡し、連綿と続けていく。そういう人たちの集まりが、世界に変革を起こすのです。私は創価学会の方々も、そうした思いで日々、他者のために行動されていると思います。

●「得」ではなく「徳」を
今、世の中の判断基準が「損か得か」になっている気がします。では、人としてあるべき生き方とは何なのか。
私は「得」ではなく「徳」のある生き方が必要ではないかと思います。それも、人が困難に直面する中で見せた勇気とか希望に、私たちは心を打たれます。どんな立場の人でも、お金がなくても、病気で動けなくても、示すことができるそうした生き方の輝きは、必ず伝染するし、影響力は大きいと思う。
徳のある生き方をするためにも、他者とつながる「心のスイッチ」を切らないでほしいのです。
スイッチを切る=「私には関係ない」と思った瞬間に、全てのつながりはシャットアウトされます。反対に、スイッチを入れる=「関係ないとは思わない」のであれば、その時々にできることはあるし、あるいは、いつか、何かができる。できることが必ずあるはずです。
「平和の定義って何?」と聞かれたら、私は「明日の予定を立てられること」と答えます。地雷原の周辺に住んでいる子たちに、大人になった自分の絵を描いてごらんと言ったら、足のない絵を描くんです。その子たちにとって大人になるとは、足がなくなることなのです。そういう苦難に思いをはせ、生き方を変えることも「平和の文化」だと思います。
将来の計画を立て、未来を創造することは、実はすごい"特権"です。でもその貴重さには、なかなか気付けません。誰もがこの"特権"を持てるようにするためにも、「心のスイッチ」を切らずにいただきたいと思うのです。

【特定非営利活動法人 難民を助ける会(AAR Japan)】1979年11月にインドシナ難民を支援するために相馬雪香(尾崎行雄の三女)の呼び掛けで設立。今年で40周年。国連に公認・登録された国際NGOとして、現在、世界15カ国で活動し、紛争や災害などでの緊急人道支援、障がい者支援、地雷対策、感染症対策、啓発・教育活動等を推進する。97年にはAARが主要メンバーである「地雷禁止国際キャンペーン」がノーベル平和賞を共同受賞した。

おさ・ゆきえ 東京都生まれ。早稲田大学卒。同大学院修士課程修了。2007年、東京大学大学院総合文化研究科「人間の安全保障」プログラム博士課程修了(博士)。旧ユーゴの難民支援、地雷禁止国際キャンペーンの地雷廃絶活動等に携わり、08年からAAR理事長。09年から立教大学大学院教授。著書に『入門 人間の安全保障』(中公新書)、『スレブレニツァ あるジェノサイドをめぐる考察』(東信堂)等がある。

★池田先生の指針から
大空よりも大きなものがある。それは私の生命である。
大海原よりも深いものがある。それはあなたの生命である。
全宇宙のあらゆる宝よりも尊いものがある。
それは私たちの生命である。
(池田大作「平和を! 平和を! そこに幸福が生まれる」から)

〈体験〉命は何物にも代えがたく尊い 18年の介護を経て
母親の介護を通して「命」と向き合ってきた女性に取材しました。

東京・武蔵村山市の阿部たみ子さん。母が79歳の時、リウマチで1人暮らしが難しくなり、同居生活が始まった。やがて車いすが欠かせなくなり、介護が必要に。夫や娘と話し合い、「わが家は"楽しい介護"でいこう!」と決めた。
一日中、家にいる母に、少しでも楽しく過ごしてもらおうと、指人形でコミュニケーションを取るなど、笑顔が絶えないように工夫を重ねた。優しく穏やかな母は、「ありがとう。幸せだよ」と、いつも笑ってくれた。
しかし、年月を重ねるうち、いつまで続くか分からない介護に阿部さんはストレスを感じていった。トイレ介助の後に、ため息をつく自分。さらには、母をデイサービスへと見送った後の解放感——。阿部さんは自己嫌悪に陥っていく。
そんなある日、"自分を許せない人は、人も許せない。ありのままの自分を肯定しよう"との言葉を目にし、阿部さんは自分に素直になろうと決めた。
気分が優れない時は「怒っちゃったらごめんね」と伝えた。母にも"我慢しないで"と伝え、正直な気持ちを聞くように心掛けた。
さらにリウマチが進み、母の指が不自由になると、リハビリを兼ねて、母との交換ノートを作った。
「お母さんのおかげで、私も生きているんだよ」「お母さんの回復力はすごいって、お医者さんが褒めてたよ」など、母が喜ぶ言葉をたくさん書いた。
母は、不自由になった手で一生懸命に「たみ子と暮らせて、幸せ」と、返事をくれた。お互い、面と向かうと言えないこともあり、うれしさが込み上げた。
亡くなる直前、母はつづってくれた。「こんな良い娘はいないよ」。上手に書こうと、何度も書き直した跡があった。母と阿部さんのかけがえのない"生命のノート"になった。
2015年9月1日、母は97歳で息を引き取った。安らかな臨終の相だった。多くの葛藤はあった。しかし、18年間の歩みは、まさに"宝の日々"だった。
「『人は、若くて、健康で、何かができるから価値があるのではなく、命それ自体が、何物にも代えがたく尊い。そして、命それ自体に、生老病死の苦しみを乗り越える力が備わっている』。そのことを、母は自身の生き方を通して教えてくれました」
母に学んだ生命の素晴らしさを胸に、阿部さんは今日も友のもとへ足を運ぶ。