御聖訓「日夜朝暮に
亦惰らず磨くべし」
全ては祈りから始まる。
爽快な勤行・唱題で
生命錬磨の大道を!
聖愚問答抄上 P481
『爰に愚人色を作して云く汝賎き身を以て恣に莠言を吐く』
【通解】
このとき、愚人は顔色を変えて言う。「汝は卑しい身でありながら、ほしいままに悪言を吐く」
〈寸鉄〉 2019年7月31日
厦門大学に池田思想研究センターが開所。人類結ぶ平和哲理を世界が渇望
若人がぐんぐん伸びゆく学会であれ—恩師。後継に励ましを。育成に総力
未来本部長、未来部長の皆様に感謝。次代を築く大聖業。諸天諸仏も賛嘆
「善知識たいせちなり」御書。何でも相談できる信心の先輩を。人生の宝
入浴や歩行で汗かく習慣は熱中症予防に有効。油断せず水分・塩分補給も
☆世界に魂を 心に翼を 第18回 「命どぅ宝」の響き(下)
◇「平和と芸術の世紀」へ
新聞を開くと、紙面全体に広がる公演写真が飛び込んできた。「音楽で世界結ぶ」と見出しが躍る。
2003年12月2日。沖縄タイムスに民音創立40周年を記念する大型特集が掲載された。
見開き4ページに、沖縄芸能の発展に尽くした民音の軌跡をたたえる声や、間近に迫った中国・広東雑技団公演、民音音楽資料館(現・民音音楽博物館)の魅力などが紹介されている。沖縄への海外招聘の年表には、50を超える芸術団体やアーティストがずらりと並び、歴史の重みを伝えていた。
最終面に掲載されたのは、民音創立者・池田先生の寄稿「平和と芸術——沖縄の心を讃う」である。
「池田先生から、これほど長文の寄稿文を頂けるとは思っていませんでした。沖縄に対する思いの深さに驚いたのを覚えています」
そう振り返るのは、特集の担当記者だった外間尹敏氏。東京の民音文化センターで取材した帰路、受け取った原稿に機中で目を走らせた。「私たち以上に沖縄のことを良く知っておられる。そう強く感じました」
寄稿では、時に傲慢な権力への批判となり、時に不毛な戦争への嘆きとなって、苦難と戦う民衆を鼓舞してきた島唄や舞踊の魅力を通し、沖縄の芸術に宿る「いかなる試練にも負けない生命の力」「太陽のように朗らかな強さ」に言及。「日本のどこに、これほどまでに、生活と歌が一体となっている、明るい芸術の都があろうか」と述べ、「沖縄の心」に迫っている。
沖縄では、家屋の一番大切な場所である「床の間」に、三線を飾る伝統がある。戦時下、人々は先祖の位牌と三線を抱き締め、火の海を逃げ回った。戦後の混乱の中で、空き缶を利用して"カンカラ三線"を作り、歌と舞で明日を切り開いてきた。
そうした伝統に触れながら、先生は寄稿に記した。
「人間を分断する『武器』ではなく、人間を融合させゆく『楽器』を大切にして、『暴力』に屈せぬ『文化の力』を重んじてきたのが、沖縄の生き方である」
外間氏は民音公演で来日する広東雑技団や韓流ミュージカル「GAMBLER」の現地取材にも同行している。「反日」が騒がれていた折だったが、人と人が触れ合う文化交流の場に、そうした軋轢はなかった。
「寄稿で特に心に残ったのは、"文化は地味かもしれない。しかし、人間の心の奥深くまで照らし、平和と繁栄の方向へ、歴史変革の確かなる潮流を形づくっていく"という部分です。銃ではなく、三線で平和をつくる。沖縄には、そうした文化の力がある。それを池田先生がおっしゃるわけですから、重みがあります。ウチナーンチュ(沖縄人)として、うれしく思いました」
◇ ◆ ◇
寄稿が掲載された朝、桃原正義さん(学会の総沖縄長)は、涙をこらえ、感動をかみ締めていた。
この「12月2日」は、1964年、池田先生が沖縄の地で、畢生の大著である小説『人間革命』を起稿した日であった。冒頭には「戦争ほど、残酷なものはない。戦争ほど、悲惨なものはない」とある。
寄稿では、同書の執筆を沖縄で開始したことにも触れていた。長年の夢である沖縄訪問を果たしたゴルバチョフ氏(旧ソ連元大統領)との再会を通し、沖縄を見つめての氏との語らいも、「心を変え、心を結ぶことで時代は変えられる」との視座を共有するものであったとつづっている。
外間氏は「原稿を受け取って初めて、那覇で『人間革命』の筆を起こされたことを知りました。先生は、よほど沖縄を強く意識されていたのでしょうね」と追想する。
池田先生の沖縄訪問は、本土復帰前だけで6回、計17回に及ぶ。民音の関係者に対しても、沖縄の人々の力、喜びとなる文化交流をと期待を語ってきた。桃原さんは沖縄民音の創立公演(65年)に携わって以来、沖縄芸能を初めて舞台化した「沖縄歌舞団」公演(69年)など、その活動を草創から支えてきた。
「72年の本土復帰前後、沖縄には大変な葛藤がありましたが、先生は一貫して沖縄の平和の使命を教えてくださいました。『人間革命』も他のどの場所でもなく、ここ沖縄を起稿の地に選ばれ、"あなたたちの悲願が喚起せしめた執筆"とまで言ってくださった。時をへるごとに、沖縄の偉大な使命が胸に迫ります」
恩納村にある学会の沖縄研修道場は、かつての核ミサイル発射台が、池田先生の提案で「世界平和の碑」へと生まれ変わった場所である。沖縄テレビでは、これまで数度にわたって民音の特集番組が放映されてきたが、その中には民音公演で沖縄を訪れた折、研修道場を訪問するアーティストの姿も映し出されていた。
沖縄を中心とする8カ国・地域の芸術団が一堂に会した「アジア平和芸能フェスティバル」(99年)の際には、公演後、出演者らが沖縄研修道場へ。ベトナムの民族芸術団団長は、こう感慨をこめた。
「ベトナム戦争の時は、沖縄から米軍が出撃しました。今、沖縄が平和と文化の地となっているのは、池田先生の貢献が大きいと感じられてなりません」
民音公演で来日するアーティストの中には、創立者の平和思想を学び深めたいと、小説『人間革命』等を読み込んで来日する人も少なくない。
沖縄テレビの同番組で、大嶺哲雄氏(沖縄大学名誉教授)が小説『人間革命』について語っている。
「沖縄の平和への願いを、よくあれだけの形にされた。皆、それぞれに戦争の悲惨さを感じていますが、書きたくても書けない。それを見事に、日本のみならず、世界に伝える流れをつくられたことに敬服します」
◇ ◆ ◇
沖縄に強い関心を抱いてきた一人が、ブラジルのアマラウ・ビエイラ氏である。
同国最高峰の作曲家であり、世界的なピアニストである氏は、池田先生の人間革命の哲学に、「長い間、自分が考え、求めてきた"言葉にならなかった理想"」「生命の価値を最大に高めゆくメッセージ」と、深い共感を寄せてきた。
小説『人間革命』の最終回が本紙に掲載された93年2月11日。ブラジルを訪問中だった池田先生に、リオデジャネイロ連邦大学の名誉博士号が授与された。席上、祝賀演奏を披露したのがビエイラ氏である。
このブラジル訪問には、沖縄の友も同行していた。ビエイラ氏との懇談の折、その友が、小説『人間革命』が沖縄で起稿されたこと、授与式の演奏が『人間革命』の完結を祝する演奏ともなったことを伝えると、氏は感嘆のため息をついた。
「ぜひ沖縄へ行きたい。皆さんの平和を熱望する思いは、私の心でもあります」
——95年4月15日、民音のピアノリサイタルで来日したビエイラ氏は、沖縄公演の合間を縫って、念願だった沖縄研修道場を訪れている。
「世界平和の碑」に生まれ変わった核ミサイル発射台の前に立ち、胸に手を当て、そっと目を閉じる。
頬をなでる爽やかな海風。静かに時が流れていく。
5分、10分……。ビエイラ氏は微動だにしない。
民音の同行者が、ちらりと腕時計を見る。宮古島、石垣島、那覇とステージを重ね、この日は名護の会場に向かう途中だった。時間がない。
「公演があります。もう行かないといけません」。移動を促すが、氏は動かない。
「この場所から、池田先生の平和への思いが、ものすごいエネルギーで私を包んでくるのです。まだ離れられません。もう少しだけ、いさせてください」——常に笑顔を絶やさない氏が見せた真剣な表情に、同行のスタッフが息をのんだ。
氏は池田先生の思想を主題として、これまで数多くの楽曲を手掛けてきた。2007年にフランスのエピナル市から依頼を受けて制作した協奏曲は、「新・人間革命」と名付けている。
ビエイラ氏が先生に贈った作品は17に上り、その中にはサンパウロ芸術評論家協会の「交響曲大賞」や「最優秀室内楽大賞」を受賞した楽曲もある。
◇ ◆ ◇
池田先生は沖縄タイムスへの寄稿を次の一文で結んだ。それはまた、平和と芸術の都を基点とし、世界のアーティストに受け継がれゆく「命どぅ宝」の精神にほかならない。
「『戦争と暴力の世紀』から『平和と芸術の世紀』へ——。その挑戦を、『沖縄の心』に学びながら、断固として進めていきたい。それが、私の願いであり、決意である」