師弟共戦の北海道から
新たな広布の潮流を!
"3倍努力"の闘魂で
喜び勇んで動き 語り
不滅の開拓史を綴ろう!
富木尼御前御返事 P975
『御信心月のまさるがごとくしをのみつがごとし、いかでか病も失せ寿ものびざるべきと強盛にをぼしめし身を持し心に物をなげかざれ』
【通解】
御信心は月が満ち、潮が満ちるように強盛だから、どうして病が癒えず、寿命も延びないことがあろうかと強く確信し、御身を大切にし、心の中で嘆いてはならない。
〈寸鉄〉 2019年7月9日
上へ上へと向上していく妙法—恩師。唱題は偉大な力。強盛に祈り進め!
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☆ふるさとを照らす誉れの長者 勝利島部 2019年6月27日
池田先生は勝利島部への期待をつづった。「一国を支えるような大きな心をもって、自分が、この島の柱となり、眼目となり、大船となるのだとの決意に立つことが大切です」と(小説『新・人間革命』第28巻「勝利島」の章)。師の心を抱いて奮闘する、香川・小豆島と新潟・佐渡島の同志を紹介する。
香川・小豆島 黒田智賀子さん
●いつも笑顔であいさつを
香川・高松港から出港したフェリーには、観光客とおぼしき人々の姿が多く見える。目的地は、小豆島。土庄港まで約1時間の船旅である。
日本で初めての産業用オリーブ発祥の島であり、生産量は国内一。「醤の郷」と呼ばれる昔ながらの「木桶」を使った醤油蔵が立ち並ぶ地域もあり、香ばしい香りが食欲を誘う。景観の美しさから映画のロケ地としても有名だ。
近年は現代アート作品を展示する「瀬戸内国際芸術祭」が評判を呼び、外国人旅行者も増えている。
「素敵な島でしょう?」と、黒田智賀子さん(地区婦人部長)が満面の笑みで迎えてくれた。小豆島出身の夫・吉郎さん(志国長=ブロック長)と高松で結婚してしばらくした後、子どもたちと一緒に夫の実家へ移り住んだという。
「かれこれ25年前くらいかしら」と智賀子さんが言った瞬間、隣にいた吉郎さんが「いやいや、もっと前や。(年齢を)ごまかそうとしたやろ」と割って入った。「アッハッハ」と、智賀子さんは手をたたく。
この二人、とにかく明るい。やり取りは夫婦漫才のよう。だがその歩みは、決して順風満帆だったわけではない。建設業を営む吉郎さんは、仕事中の事故で片目を失明しかけた。腎臓結石も経験。49歳で、うつ病を患ったこともある。
智賀子さんも慣れない暮らしで気苦労は絶えなかったという。周囲から学会の悪口を言われることが当たり前の時代でもあった。
「忍辱の鎧を著て」(御書502ページ)との一節を地でいく歳月。「いつも笑顔で、自分からあいさつを」と心掛けた。
10年、20年、30年……。美容師として懸命に働く傍ら、地域活動にも奔走。婦人会の会長や地区長等を歴任した。吉郎さんも定年退職後、自治会の活動に一段と関わった。
見る人は見ている。「二人とも、よう頑張るねえ」「この辺りは、あんたたちがいてくれるから安心よ」との声が耳に届くように。聖教新聞の拡大も進み、集落の多くの世帯が一度は本紙を購読したことがあるという。
「一人を大切に。近隣を大切に——池田先生のご指導を実践してきただけです」と、智賀子さん。
1978年に池田先生が小豆島会館を初訪問した7月26日を目指し、きょうも朗らかに島を駆ける。
新潟・佐渡島 中川毅さん
●寄り添い続ける中でこそ
何か大変なことが起こっても、大きな声で笑い飛ばす楽観主義の人である。
「ただ深く考えていないだけですよ」と、新潟・佐渡島の中川毅さん(副本部長)は言う。77歳。これまでに集落の総代(区長)やJA羽茂の代表幹事などを歴任してきた。「順番が回ってきただけ」と本人は謙遜するが、周囲からは「地域のことを誰よりも真剣に考えてくれる人」「一緒にいると元気になる」等と、信頼は厚い。
一人の小さな声を聴く、人間主義の人でもある。
家族に精神障がい者がいる集落の人々の集い「南部みつわ会」の会長、さらに佐渡市全体の「佐渡地域精神障害者家族連合会」の副会長を、それぞれ20年近くにわたり務めてきた。
悩みや不安を抱える家族のもとへと足を運び、寄り添う時の毅さんは、全身を耳にする思いで話を聴く。「自分は、何も特別なことなんて言えないから」と。
こうした活動の背景に、自身の兄が心の病を患っていた経験がある。
毅さんは3人兄弟の末っ子。高校卒業後に就職で上京し、信心と巡り合う。もう佐渡に戻ることはないと思っていた。だが長兄が心臓病で急逝。次兄は統合失調症を患っていた。毅さんが実家を継ぐために帰郷したのは、26歳の時である。
心の病に対する理解が進んでいなかった時代。まして島では、うわさがすぐに広まってしまう。だが毅さんは「宿命」を「使命」と捉えた。「島のために自分にしかできないことがあるはずだ」と。
生来の楽観主義に、信心によって培われた意志の力が加わった時、「ありのままの自分たち家族を見てもらおう」と、自然に思うことができた。
自ら心を開けば、人も心を開いてくれる。同じような境遇にある住民から、相談を持ちかけられるようになった。互いの悩みを赤裸々に語り合う家族会や、心の病の基本的な知識の普及を目指す研修会の開催にも尽力した。
じっと話に耳を傾けることも、人間の可能性を信じ続けることも、人と人とをつなぐことも、「全て学会活動を通して得た力です」(毅さん)。
地域広布においても、新しい力、若い人材が育つ。来る7月20日は、池田先生の初来島(1958年)を記念する「佐渡の日」。毅さんは「自分の使命を果たす時は"今"」と、心に固く決めている。