広布と人生の逆転劇こそ
我ら壮年部の本領なり。
「主役は私!」と心を定め
強気の信心で挑戦だ。
感激のドラマを今から!
異体同心事 P1463
『異体同心なれば万事を成し同体異心なれば諸事叶う事なしと申す事は外典三千余巻に定りて候』
【通解】
異体同心であれば万事を成就し、同体異心であれば何事もかなうことはない。このことは外典三千余巻に定まっている。
〈寸鉄〉 2019年7月14日
腹を決めて勇ましく進め—恩師。栄光は一人立つ勇者から。敵をも味方に
大関西の友が一気に攻勢歴史的な闘争の凱歌を。「常勝の空」響かせ前進
偉大なる愛知が総力挙げ拡大。大金星つかみ取れ。大中部の新時代の開幕を
神奈川よ痛快に勝ち進めさあ混戦突破へ。勇気と正義の言論戦で圧倒せよ
情報漏洩の原因、2割がメールの誤送信。多忙な時ほど細心の注意怠らず
☆世界に魂を 心に翼を 第17回 「命どぅ宝」の響き(中)
◇沖縄から「人類史の転換」を
高さ9メートル、長さ100メートル。
巨大なコンクリートの壁に、六角形の穴が等間隔で並んでいる。
青いサンゴ礁に彩られた恩納村。海岸から1キロほど入った所に、創価学会の沖縄研修道場がある。
2004年12月4日、民音公演で来日していた中国・東方歌舞団の一行が、同地を訪れた。施設のあらましを聞き、団員は目を見張った。
六角形の穴は、かつて核ミサイル「メースB」の発射口だった。射程距離は2400キロ。ロシア東岸部から東南アジアまでを攻撃範囲とし、中国の全主要都市を標的に収めていた。北京には1時間半で着弾する。
メースB1発が広島型原爆の約70倍の威力。それが沖縄全体で32発、配備されていた。米ソの全面核戦争が危ぶまれたキューバ危機(1962年)では、メースBが発射寸前、すなわち"第3次世界大戦"の一歩手前だったことが後に判明している。当時の沖縄には、メースBを含め1000発以上の核兵器があった。
一昨年、恩納村の基地に所属していた元米兵が半世紀ぶりにこの地を訪れた。その変貌ぶりに驚きつつ、当時を回想している。「世界を破壊し尽くすだけの核兵器がありました。今は想像もできませんが、沖縄は、世界有数の核の集積地だったのです」(松岡哲平著『沖縄と核』新潮社)
研修道場の建設に際し、すでに廃墟と化していたミサイル発射台は撤去される予定だった。他の施設への転用も難しい。だが池田先生は、こう提案した。
「基地の跡は永遠に残そう。『人類は、かつて戦争という愚かなことをしたんだ』という、ひとつの証しとして。沖縄には、平和を考える原点の場所として、ひめゆりの塔もある。健児の塔もある。それとは別の意味で、日本はもちろん世界の平和を考える原点の場所としよう」
発射台の上に青年像が設置され、84年、ミサイル基地は「世界平和の碑」に生まれ変わった。
敷地内には、戦争体験者による「沖縄戦の絵」の展示も。自分の国に向けられていた核ミサイルの面影と戦争の悲惨さが重なったのか、見学していた若い団員が言葉を失う。年配の引率者が、歌舞団に受け継がれる平和の使命を訴えた。
東方歌舞団は、周恩来総理が命名し、発足当初から育てた中国随一の芸術団体である。海外歴訪の折、周総理は自ら団員を引率し、「外国に行ったら、異国の文化を学ぶとともに、その国の精神も学んでいくことだ」と、平和の魂を伝えてきた。
歌舞団団長の田軍利氏が決意をにじませる。「池田先生、周総理の恩義を忘れなければ、何があっても乗り越えていけます。両国に何が起きても乗り越えていけると信じます」
◇ ◆ ◇
なぜ発射台を残したのか——。
池田先生が、沖縄研修道場で中国メディアの取材に答えたことがある(99年2月19日)。
「逆風の中で、なぜ日中国交正常化を提言したのか?」
「舞台裏で、正常化のために奔走した思いは?」
中国国営中央テレビの記者が、矢継ぎ早に質問を重ねていく。
先生は、中国大陸に向けた砲口を百八十度変え、「平和の基地」へと転換した理由に言及。この月、発表したエッセーに、こう思いを寄せた。
「核も、戦争も、人の心から生まれた。ならば、まず人の一念の『発射の向き』を変えよ! その逆転の作業を! 『碑』は、その象徴である。人類史の悲劇が、この小さな島に集約された。ゆえに、人類史の転換を、この島から起こすのだ」
インタビューは中国で報道された後、沖縄のメディアでも放映されている。そこでは日中友好の端緒を知る識者のコメントと共に、両国の文化交流を最も進めてきた団体として民音の歴史が語られている。
沖縄テレビでは、99年から民音の特集番組を多数、制作してきた。当時、事業局長として企画に携わった大城光男氏。ひときわ思い出深いのは、2001年初頭に放映した「敦煌芸術劇院」の特集番組だという。同劇院の沖縄公演を前に、その意義を伝える内容だった。
取材で敦煌莫高窟を訪れた時のこと。正面の入り口に、敦煌文化の発展に貢献した人物として、民音創立者である池田先生の肖像が掲げられていた。敦煌研究院の樊錦詩院長が一行を出迎え、「先生との友誼は、永遠に忘れられません。先生への感謝を、いつも心に銘じています」。
莫高窟の保護と宣揚に尽力する同院の重要性を、先生は深く理解し、その意義を世界に発信してきた。"敦煌の守護神"と称される常書鴻氏(故人)と対談集を発刊し、日本各地での「中国敦煌展」にも力を尽くした。 常氏の妻である李承仙夫人は、開口一番、かつて夫妻で沖縄研修道場を訪問した思い出を述懐。この折、常氏は「この平和運動が本物であることを再認識した」と語っている。
"敦煌一つをとっても、ここまで中国との関係は深いのか"——感慨を深める取材陣。「行く先々で、中国の方が池田先生の話をされていました。どこへ行っても、です。驚きました」(大城氏)。"先生が創立された民音のためなら"と、中国側の誰もが協力を惜しまなかった。
◇ ◆ ◇
池田先生は折々に語っている。
"沖縄の人々には、人間としての強さがある。一人一人が平和の尊さを妥協なく叫び、その歌舞音曲には生命尊厳の響きが脈打つ"と。
沖縄芸能の夜明けを開いた「沖縄歌舞団」(1969年)、南の海の主役である沖縄を描いた「マリンロード音楽の旅」(84年)、新時代の沖縄を発信したミュージカル「大航海」(91年)など、民音の全国公演が催されるたび、池田先生は成功を願い、エールを送り続けてきた。
97年に結成された沖縄の舞踊集団「花やから」は、数ある民音のステージの中でも最多の公演数を誇る。華麗な琉球舞踊と天真爛漫な舞台が話題を呼び、これまで600回を超える公演を重ねてきた。普段は巡演できない町々の会場にも赴き、福祉施設などでの慰問公演も数多い。
「どの場所でも、市や町、村を挙げて応援してくださいました。特に印象深いのが奥尻島です」。そう振り返るのは、北海道で公演等の責任者を務めていた小松清史さん。北海道南西沖地震(93年)から10年がたった2003年8月、公益事業として「奥尻町民コンサート」が開かれた。
「どうせ堅苦しい踊りだろう」。そう高をくくっていた壮年が、開幕してすぐに涙をぬぐっていた。満場の大声援が飛び交い、公演翌日には感動冷めやらぬ島民が港に見送りに。島を離れる船に手を振り続けた。
道内44カ所で好評を博した「花やから」公演。再演を望む声も多い。「北の大地に沖縄の太陽を運んでくれました。何度も"生きる希望をもらった"と耳にしました。沖縄の方々から託されたメッセージも紹介され、まさに"平和大使"を派遣していただいた思いです」(小松さん)
◇ ◆ ◇
「花やから」の奥尻島公演は、沖縄テレビでも放映され、多くの反響が寄せられた。番組を手掛けた大城光男氏が、誇らしげに語った。
「沖縄の芸能を日本中、世界中に広げ、世界の音楽芸術を沖縄にもたらしてくれたのが民音です。そして民音公演に携わってきた世代が、今の沖縄芸能を支えています」
氏は、報道畑を皮切りに、一貫して制作現場を歩み、沖縄芸能を紹介する人気番組"郷土劇場"などを担当。同企画は、半世紀をへた今も後継番組が続く。「"芸能の灯は絶対に消さない"という決意でやってきました」と、思いを巡らせる。
事業局長として多くのイベントを催してきた。だからこそ一回一回の民音公演の重みが胸に迫るという。「ある来場者が、"鑑賞したいけど交通手段が……"と言う知人と、車で乗り合わせて公演を楽しんでいました。それを見て、日本人が忘れていた"原風景"に触れたような気がしました。私も友人に声を掛けて、一緒に公演へ足を運びました」
番組の編集作業中、池田先生と同じ空間にいるだけで、涙を流している人たちの存在に気付いた。
「なぜ、この人たちは泣いているんだ?」——話を聞く中で、「どこよりも戦争で苦しんだ沖縄こそ、どこよりも幸福になる権利がある」との先生の言葉を知り、納得がいった。
「先生にお会いしたことはありませんが、大変な思想家であることは分かります。偏見を持つ人もいますが、良いものは良いとしか言いようがない。"何がおかしいの?"って聞くと、誰も何も言えないですよ。私自身、民音に、そして先生という人間にほれ込んでしまいました」
池田先生は述べている。
「平和ほど、尊きものはありません。平和ほど、幸福なものはありません。『命どぅ宝』——この沖縄の心が地球を包み、世界中の母と子の笑顔が輝きわたる未来の光彩を、私はいつも思い描いています」
人々の平和への願いを乗せ、"沖縄の心"を伝えゆく民音の歩みに、深い共鳴が広がっている。