一番の労苦を担うのが
誉れの一番弟子だ!
さあ大関西の同志よ!
皆を あっと言わせる
常勝の底力を示そう!
報恩抄 P313
『正法を行ずるものを国主あだみ邪法を行ずる者のかたうどせば大梵天王帝釈日月四天等隣国の賢王の身に入りかわりて其の国をせむべしとみゆ』
【通解】
国主が正法を行ずるものに仇をなし、邪法を行ずるものの味方となって擁護するならば、大梵天王・帝釈天・日天・月天・四天等が、隣国の賢王の身に入りかわって、その謗法の国を攻めるであろうというのである。
〈寸鉄〉 2019年7月12日
一途に御本尊を信じ切れ—恩師。断じて祈り勝つ。信心の戦に不可能なし!
大中部が壁を破る総攻撃誓いの「この道」を直進!民衆勝利の旗を堅塁城に
大九州の友の団結を見よ先駆の大勇猛心こそ魂!激戦越えて歴史的凱旋を
沖縄が総立ち!我ら正義の連帯が平和の砦。わが拡大の新記録へ語り捲れ
上半期、企業の倒産が10年連続減。経済の安定へ、公明よ中小企業支援厚く
☆私がつくる平和の文化 第7回 対話でひらく
◇手記 米エマソン協会元会長 サーラ・ワイダー博士
「私がつくる平和の文化」第7回のテーマは「対話でひらく」。登場していただくのは、アメリカ・エマソン協会元会長で、コルゲート大学教授のサーラ・ワイダー博士です。互いの「違い」を尊重し、相手をより深く知る「対話」の重要性について、思いをつづってもらいました。(構成=内山忠昭、歌橋智也)
家庭や職場、地域の中で、「平和の文化」を築こうと献身される聖教新聞の読者の皆さま。私は、アメリカの地で同じ努力をする友人として、この文章をつづっています。
「対話こそ平和の王道」との信念で、60年にわたり、「平和の文化」建設のために世界を駆けてこられた池田SGI会長は、次のように語られました。
「対話は、単なる自己主張でも、説得でもない。対話は、相手の尊厳なる生命に敬意を表し、そして自らとは異なる個性から学びゆくことだ」と。
残念ながら私たちは、自分と"異なるもの""同質でないもの"に対して、触れずにおこうとしたり、排除しようとしたり、脅威として攻撃しようとしたりしがちです。
しかし、「対話」とは、"私たちは皆、違う"という現実に立ち、そこに無限の可能性と美しさを見いだそうとする積極的な営みです。
◇
「対話」には、さまざまな形があります。私の好きな対話の一つは「自然との対話」。五感を研ぎ澄ませて、自然と語り合うのです。
風の音に耳を傾け、大気の香りを胸いっぱいに満たし、暑さや寒さを肌で感じ、大空を見上げ、思いがけない所でけなげに咲く野の花に目を留めるのです。
自然はどこにでもあり、いつでも、私たちを対話に誘ってくれます。地球の至る所で気候に異変が起きている今こそ、この自然からの対話の導きに応じるべきなのです。
◇
対話には、何にもまして、人と人を深く結び付ける力があります。直接会って交わす対話はもちろん、文字によって対話することもできます。書かれた言葉は、時空を超えて人々に語り掛けてきます。
私たちはなぜ、"対話は平和をもたらす"と信じているのでしょうか。
それは、対話というものが、時間をかけて行うものだからです。そして、平和をつくるには時間をかける必要があることを、私たちは知っているからです。
対話は焦らず、ゆっくりと実を結ばせるものです。分かち合えることを信じながら、互いの話を聴き、自らを見つめるのです。
「違い」があるということは、自然なことです。そこから新たな可能性や成長がもたらされ、問題解決への創意工夫の幅が広がるのです。それは、いろいろな楽器と多様な奏者によって、美しいハーモニーが生まれるのと同じです。そして、「違い」があるからこそ、私たちは常に学び続けることができるのです。
しかし私たちは、時として「違い」にとらわれすぎてしまいます。そんな時は、一人一人が持つ人生の「物語」に耳を傾けてみてください。なぜなら、その人の「物語」を知ることによって、相手を深く理解し、共感できるようになるからです。
池田SGI会長も、いつもそのようにして語らいを始めておられるように、それこそが真の対話の出発点です。対話とは、どの瞬間においても相手の「物語」を聴こうと努めることから始まるのです。
「初めて学校に行った時、どんな気持ちだった?」「どうしてこの食べ物が好きになったの?」「友情の素晴らしさを感じたのはどんな時?」「最も苦しい時に希望の光となったものは?」などと質問してみてください。一つ一つの答えを通して、その人が生きてきた「物語」を知ることができるでしょう。
私たちは、皆、自分自身の「物語」を抱いて生きていますが、その物語には、他者との共通性があります。だから、対話を通して互いの「物語」を分かち合い、人間として理解し合うことで、日々の生活に影を落とす「拒絶されるという恐怖」から解放されるのです。
暴力が社会の奥深くにまで蔓延する今、私は「物語」を分かち合おうとする人々の、静かで力強く、たゆみない努力に心を寄せたい。こうした人たちが日々、「平和の文化」を築いているからです。
◇
「平和の文化」の建設のために、今日、何をしましたか? これから何をしようとしていますか?
励ましを送り、受け取ること。広々とした心で、誰かと「思い」を分かち合うこと。
誰かが感じていること、思っていることに耳を傾けること。心を晴れやかにしてくれるものに触れて、伸び伸びと笑うこと。
窓の外を見て、家から出て道を歩き、鳥が舞い、花のつぼみがほころび、雲が形を変える不思議さを感じること。
人生を、より優しく、自由に、明るくしてくれる人やものに感謝すること。失われたものに、かけがえのなさを感じること——。
これら全てのことを通して、あなたは人との「つながり」を求め、そして「つながり」を感じているのです。
周囲からも、社会からも人間を孤立させようという力がかつてないほど強まっている時代にあって、それでもあなたは、全てのものが繋がり合っていることを信じ、感じてきたはずです。
エマソンは「つながりは、ある場所ある時にだけ存在するのではなくして、いたる所に、そしてつねに、存在するのである」(『エマソン選集』第3巻「生活について」小泉一郎訳、日本教文社)と述べています。
この「つながり」を私たちは「物語」を分かち合うことで実感するのです。どんな事にも「物語」はあるのです。
さあ、それぞれの「物語」を、大いに語り合いながら、「平和の文化」を築く、たゆみない挑戦を続けていこうではありませんか。
サーラ・ワイダー 米エマソン協会元会長。詩人。全米屈指の教養大学・コルゲート大学の教授として、女性学、英文学などの講座を担当。池田先生と対談集『母への讃歌』を発刊している。
◇池田先生の指針から
対話は、人間の最も優れた特性であり、それは人間性の発露である。語り合うことから、心の扉は開かれ、互いの理解が生まれ、友情のスクラムが広がる。
対話は——励ましの力となる。希望の光となる。勇気の泉となる。生命蘇生の新風となる。そして、人間の心と心に橋を架ける。
(小説『新・人間革命』第29巻「常楽」の章から)
◇
世界の各地では、今なお熾烈な紛争が続き、憎悪と暴力の連鎖が続いております。だからこそ、私たちは「対話」を決して手放してはなりません。
断固たる「対話の選択」こそ、「平和の選択」となり、必ずや人類の「生への選択」に通じていくと、私は信じます。
(2013年9月、池田国際対話センター設立20周年記念セミナーへのメッセージから)
「知ること」が安心の第一歩
地域住民の融和は相手を知ることから。そんな思いで奮闘する団地の自治会長を取材しました。
「やっぱり話してみないと、人って分かり合えないものですね」。そう語るのは、東京・中野区内の都営住宅で自治会長を務める関根仁美さん。
700世帯以上が入居できる同団地で、2010年に自治会長に就任した。
その翌年のこと。東日本大震災による福島の原発事故の被災者などを、同団地で受け入れることになった。最大時には約120世帯が暮らしたという。
地域住民や町会等から物資が届き、支援の輪が広がる一方、福島からの移住者を排斥するような張り紙がされるなど、一部の団地住民とトラブルも起こった。
"このままではいけない"。団地住民に声を聞くと、「放射能汚染が心配」「話し声が大きい」など、不安や不満を抱いていることが分かった。
関根さんは、理解し合うことが必要と感じ、両者の親睦の集いを定期的に開催。被災者には「話せることからでいいから」と、震災体験を語ってもらった。
初めはお互いぎこちなさもあったが、団地住民が被災者の話に涙を流すなど、親身になって聴き入る姿が見られた。「家族を亡くした悲しみが胸に突き刺さった」「故郷を離れるのが、どんなにつらかったことか」「誤った情報をうのみにしていた」など、認識が改まっていった。
「『相手を知らないこと』が摩擦を生んでいました。互いに知り合うことで、誤解や偏見が解け、トラブルも収まっていきました」(関根さん)
また、被災者が孤独にならないよう、集会所に"サロン"を開設。被災者同士が知り合い、情報交換や悩みを分かち合う対話の場をつくった。「先の見えない不安の中、人と話すことで、少しでも希望を持ってほしかったのです」
関根さんが対話を大切にする背景には、ダウン症の次女・真衣さんとの歩みがある。誤解や偏見から心ない言葉を浴び、幾度も悔し涙を流してきた。
関根さんは、"身近で触れ合えば見方は変わるはず"と、真衣さんが5歳の時、地元で真衣さんの写真展を実施。さらに、障がい者向けの空手やエアロビクス教室を開き、健常者も招くなどして理解を広げてきた。そうした経験が、団地の融和に生かされた。
現在、団地内の被災地出身者は50世帯ほど。だがそんな区別もなくなるほど、ここでの暮らしは当たり前になった。「ここが第二の故郷です」——そう語ってくれた言葉が、関根さんにとって何よりの喜びだ。