世界に範たる大関西よ!
我ら常勝の錦州城に
恐れるものなし!
未来に仰がれゆく
広布の大金字塔を!
諸法実相抄 P1359
『日蓮をこそにくむとも内証にはいかが及ばん、さればかかる日蓮を此の嶋まで遠流しける罪無量劫にもきへぬべしとも覚へず』
【通解】
この日蓮を憎むとも、内証をどうすることもできないのである。それゆえに、このような日蓮佐渡の島まで遠流した罪は無量劫を経ても消えるとはおもわれない。
〈寸鉄〉 2019年7月18日
男が怯めば男ではない。覚悟の信心に立て—恩師壮年が勝利の決定打放て
神奈川が勇戦。執念と勢いで大激戦勝ち越えよ!世紀の海へ栄光の船出を
埼玉よ、もう一押しだ!正義の師子吼で圧倒を。連戦連勝で新時代を飾れ
福岡が気迫の追撃。戦いは攻め続けた方が勝つ。先駆の九州から勝鬨を!
公明党が「福祉・教育」を政治の常識へと変えた—識者。立党の精神を貫け
☆御書と歩む� 第79回 後世に仰がれる歴史を
『今まで生きて有りつるは此の事にあはん為なりけり、此れこそ宇治川を渡せし所よ・是こそ勢多を渡せし所よ・名を揚るか名をくだすかなり』(弥三郎殿御返事、1451ページ)
◇通解
自分が今まで生きながらえてきたのは、このこと(法華経ゆえの難)に遭うためである。今この時こそ(戦いの要衝として有名な)宇治川を渡す所だ、今この時こそ勢多川を渡す所だと思いなさい。名を上げるか、名を下すかの勝負所である。
◇同志への指針
関西はじめ共戦の友は、この覚悟で使命の大闘争に臨んでいる。だから負けない。
「今ここ」が勝負所と定めて祈り抜き、仏菩薩も梵天・帝釈も、わが生命に入其身させるのだ。そこから激流を勝ち越える力と智慧が漲る。
恩師は「広宣流布の闘士として末代にまで名を残せ」と叫ばれた。悔いなく戦い切って、不滅の栄光と大福運を勝ち開こう!
☆池田華陽会御書30編に学ぶ 開目抄(上) 2019年7月13日
◇広布に生き抜く誓願を胸に!
◇勇気の対話で臆病を破る
今月から2回にわたり、「開目抄」を学びます。
池田先生は、本抄の講義の中でつづっています。
「『開目抄』は、いわば『最深の哲学』と『最強の信念』を説く書です。『最深の哲学』とは、全人類救済の慈悲の極理たる凡夫成仏の大法が説き明かされているからです。(中略)『最強の信念』とは、全人類を救いうるこの大法を、いかなる障魔が競っても弘めゆくことを誓う、広宣流布への偉大なる信念です」
民衆の幸福を願い、大法弘通に生き抜かれた日蓮大聖人の、広宣流布の誓願を心に刻んでいきましょう。(拝読範囲は、御書186ページ冒頭〜203ページ14行目です)
◇本抄について
本抄は、日蓮大聖人が流罪地の佐渡に到着した直後から構想・執筆され、文永9年(1272年)2月、四条金吾に託して門下一同に与えられました。
題号の「開目」とは「目を開く」ことであり、末法の一切衆生に対して、執着を打ち破り、真の法華経の行者、すなわち大聖人に「目を開け」との呼び掛けと拝されます。
当時、大聖人一門には激しい弾圧が加えられ、退転する門下が続出しました。
本抄で大聖人は、当時、人々から寄せられた"大聖人が法華経の行者であるなら、なぜ諸天の加護がないのか"との疑問に対し、経文通りに実践すれば、三類の強敵の出現は必然であり、その通りの難に遭っている大聖人こそ、真の法華経の行者であると示されます。
そして、大難を覚悟で妙法弘通を貫く大聖人が、民衆にとって「主師親の三徳」を具えた末法の御本仏であることを明かされていきます。
◇御文
『日本国に此れをしれる者は但日蓮一人なり。これを一言も申し出すならば父母・兄弟・師匠に国主の王難必ず来るべし、いはずば・慈悲なきに・にたりと思惟するに法華経・涅槃経等に此の二辺を合せ見るに・いはずば今生は事なくとも後生は必ず無間地獄に堕べし、いうならば三障四魔必ず競い起るべしと・しりぬ、二辺の中には・いうべし』(御書200ページ9行目〜13行目)
◇通解
日本国でこのこと(仏教の諸宗が謗法の教えを説いており、人々を悪道に堕とす悪縁となっていること)を知っている者は、ただ日蓮一人である。
このことを一言でも言い出すなら、父母や兄弟、師匠、さらに国の権力者による迫害が必ず起こってくるにちがいない。
しかし、言わなければ無慈悲と同じことになってしまう。
どうすべきかと考え、法華経や涅槃経などの文に、言うか、言わないか、の二つを照らし合わせてみた。
すると、言わないでおけば、今世では何ごともなくても、来世には必ず無間地獄に堕ちてしまう。
もし、言うなら、三障四魔が必ず競い起こってくるということが分かった。
この二つの中では「言う」ほうを選ぶべきである。
◇解説
本抄で大聖人は、諸思想および釈尊の仏教のあらゆる教えの浅深を検証し、法華経本門寿量品の文底に秘沈されている一念三千こそが、万人成仏の大法であると示されます。
しかし、法華経に背く謗法の者が充満する末法の世となった、大聖人の御在世当時、邪法を弘める悪僧により悪縁が国中に蔓延していました。
大聖人は掲げた御文の直前で、"悪鬼が身に入った高僧たちが、誤った教えで人々を騙し、不幸に陥れている"と喝破され、大聖人ただお一人が、このことを知ったのだと仰せです。
続いて、立宗宣言に至る大聖人の御心境が回想されます。
世間から尊敬され、権力とも結び付いている高僧のことを、"人々を苦しみに陥れる元凶である"と言い出せば、周囲や国主からの迫害は必然です。しかし、難を恐れて言わないことは、苦悩する民衆を救おうとしない無慈悲に通じます。
「言うべきか、言わざるべきか」——二つのはざまで葛藤する中、大聖人は、法華経・涅槃経等の経文に照らし合わせて思索されました。
これらの経文には、正法を弘める時、種々の難が必ず起こることが記されています。一方、謗法を放置すれば仏の敵となり、来世には必ず無間地獄に堕ちることも明記されています。
大聖人は、これらを踏まえ、思索を重ねた末に、「言うべきである」と結論されたのです。
たとえ迫害を受けようとも、苦悩の民衆を救うために妙法を説き弘める——この後、述べられる「強盛の菩提心を・をこして退転せじと願じぬ」(御書200ページ)との御文からも、末法広宣流布の大闘争への烈々たる御決意が拝されます。
この大聖人の御精神を受け継ぐ実践こそ、私たちの日々の誠実な対話です。時に、反発や無関心などの反応が返ってくることもあるでしょう。しかし、それでも、友の幸福を願い、勇気を奮い起こして仏法を語り抜くことが大切です。
池田先生は、「語った分だけ、永遠の幸福の仏縁が結ばれる。語った分だけ、わが生命に、永遠の福運の歴史が刻まれる」と呼び掛けています。
師弟の月・7月。臆病の壁を破る対話で、立正安国の勝利を打ち立てていきましょう!
★池田先生の講義から
「二辺の中には・いうべし」——経文に基づく判断は明瞭です。経文は仏の言葉です。仏の心を知るための鏡です。私たちで言えば「御書」です。
大聖人は、法華経に照らして判断されたと述べられている。
表面的な地位や安逸ではなく、生命の究極部分で無慈悲の無間地獄に堕ちるか、大難を莞爾と受け止めながら万人を慈悲で包み込む苦難の道を選びとるか。当然、後者が経文に照らして正しい。(『御書の世界』第1巻)
◇ ◆ ◇
自分が救済しようと思ったその相手自身から、憎まれ、迫害される。理不尽と言えば理不尽ですが、"「それでも」私は、あなたを礼拝する"と叫び続けた不軽菩薩のごとく、深き「信念」を貫くことこそ、末法の仏法者の振る舞いです。(中略)
日蓮大聖人は深き誓願によって、一人、法華経の行者として厳然と立ち上がられました。謗法の悪縁に迷うすべての人を救おうと、断固たる行動を貫いていかれた。(『開目抄講義』上巻)
◇研さんのために
○…『開目抄講義』上・下巻(聖教新聞社)
○…『御書の世界』第1巻(同)