2016年3月31日木曜日

2016.03.31 わが友に贈る

先手は勝利。
後手は敗北。
未来を見つめ
迅速に行動を!
敢然と活路を開け!

四条金吾殿御返事 P1121
『法華経を一字一句も唱え又人にも語り申さんものは教主釈尊の御使なり、然れば日蓮賎身なれども教主釈尊の勅宣を頂戴して此の国に来れり、此れを一言もそしらん人人は罪を無間に開き一字一句も供養せん人は無数の仏を供養するにもすぎたりと見えたり』

☆四季の語らい
"あの人は、もう山を越してしまった"と言われるような「過去の人」になってはならない。そのためには、いよいよ謙虚に学び、いよいよ真剣に成長し、いよいよ友情を結び、広げていくことを忘れないことだ。とともに、「ありがとう!」と、皆に声をかけていく感謝の人生でありたい。

☆今日のことば365 三月三十一日
子どもたちへの無関心は、放任に通じる。
親同士も声をかけあい、互いに子どもたちの成長を見守るように心がけたい。

☆今日のことば365 三月三十一日
純粋に、利害も捨て、名誉も捨てて進む、青年のみが、私は大好きだ。ここにのみ、建設の源泉がある。

☆仏法の教え 仏縁の拡大
〈Q〉下種について教えてください。
〈A〉あらゆる人の生命に具わっている仏性を輝かせていく"触発の実践"です。
『仏種は縁に従って起る是の故に一乗を説くなるべし』(高橋殿御返事、P1467)

仏法では、仏が衆生を成仏へと導く過程を、"稲などの種を下し、成熟させ、収穫する過程"に譬え、「下種・調熟・得脱」という段階があると説きます。
「下種」とは、人々に成仏の因となる妙法を説き聞かせること、「調熟」とは、成仏の因が衆生の生命のなかで育ち、成熟すること、「得脱」とは仏の境地を得ることをいいます。
本来、万人の生命に仏性が具わっていますが、ほとんどの場合、迷いの汚れに覆われています。
『仏種は縁によっておこるものです。それゆえに一乗の法(法華経)を説くのです』(P1467、通解)
妙法を説く「下種」によって、その仏の生命を発動させ、輝かせていく——。私たちの「下種」は、相手の仏性を開く触発の実践にほかなりません。
「人の心は、他者との触れ合いという『縁』によって、大きく変わることができる。足取り軽く、友のもとへ行こう! 語ろう! 動けば、何かが変わる。直接、会えば心が近づく。誠実に語れば、一歩、強い絆が生まれる。気どらず、気負わず、誠心誠意の対話で、友の心を開拓していけばよいのだ」(『随筆 幸福の大道』)

〈Q〉対話をしても理解せず、かえって反発する友人もいますが……。
〈A〉相手が幸福境涯を開く因となることは間違いありません。
『「以何令衆生・得入無上道」の御心のそこ順縁・逆縁の御ことのは已に本懐なれば暫くも持つ者も又本意にかないぬ』(持妙法華問答抄、P467)

私たちが、日々、読誦している法華経の自我偈の中に「以何令衆生 得入無上道」とあります。この一節について、日蓮大聖人は次のように教えられています。
「『なんとしても、衆生を無上道に入らしめ(速やかに仏身を成就させたい)』との御心の底、順縁・逆縁の者も共に救おうという御言葉は、まさに仏の本懐であるから、少しの間受持する者もまた本意にかなうのです」(P467、通解)
順縁とは、教えを聞いて従順に仏道に入ることを、逆縁とは、反発がかえって仏道への縁となることを意味します。
仏の願いは、順縁の人はもとより、逆縁を結んだ人をも救っていくことであり、私たちが持っている仏法には、一切衆生を救済する功力があるのです。
『法華経を耳にふれぬれば是を種として必ず仏になるなり』(同552)
対話をしても理解を示さず、かえって反発する友人もいるかもしれませんが、相手の反応に一喜一憂する必要はありません。
一人一人の仏性を信じ抜いて、誠実にこの仏法の素晴らしさを語っていく。その心が、いつかは必ず、友の心に届き、幸福境涯を開く因になることは間違いありません。

〈Q〉仏法を語っていく勇気が、なかなか湧きません。
〈A〉挑戦すること自体が、仏の振る舞いにほかなりません。
『法華経を一字一句も唱え又人にも語り申さんものは教主釈尊の御使なり』(四条金吾殿御返事、P1121)

法華経法師品に「能く竊かに一人の為にも、法華経の乃至一句を説かば、当に知るべし、是の人は則ち如来の使にして、如来に遣わされて、如来の事を行ず」(法華経P357)とあります。
私たちの仏法対話は、仏の使い(如来の使)として、仏の振る舞い(如来の事)を実践する尊い行為です。
『法華経を一字一句でも唱え、また、人にも語っていく人は教主釈尊の御使いです』(P1121、通解)
『(法華経の)一句でも人に語る人は、如来の使いであると説かれています』(P1448、通解)
勇気を奮い起こして目の前の一人に、ほんの少しだけ仏法の話をしたとしても、それは「仏の振る舞い」にほかならず、功徳は計り知れません。
私たちの仏法は、一人の人間の無限の可能性を説き、万人が何ものにも揺るがぬ幸福境涯を開いていける方途を教えています。ゆえに「下種」は、世間一般のいかなる善行よりも、人間として尊い行為なのです。
日蓮大聖人は、弟子たちに『力あらば一文一句なりともかたらせ給うべし』(P1361)と呼び掛けられました。一人一人と仏法対話に挑戦していくことこそ、「教主釈尊の御使」の実践なのです。

〈智慧の扉〉 多生の縁
「袖振り合うも多生の縁」ということわざは、袖がちょっと触れ合った程度の関係でも、前世で結ばれた縁である、という意味で使われています。
「多生」とは多くの生を受けること、いくたびも生まれ変わることを言います。つまり、仏法では、永遠の昔から、無数の生死を繰り返してきたのが、私たちの生命であるととらえ、その過去世において結んだ"縁"が、今生において結実しているのだという意味です。
新たな出会いの多い年度の節目。さまざまな人との触れ合いも"過去世からの深い因縁があってのこと"と受け止め、大切にしていきたいものです。