2016年3月14日月曜日

2016.03.14 わが友に贈る

◇今週のことば
縦藍而青の3・16だ!
大願に生きる「情熱」
壁を破る「勇気」
歴史を創る「連帯」
創価の青年力を社会へ!
2016年03月14日

兄弟抄 P1084
『なにとなくとも一度の死は一定なり、いろばしあしくて人にわらはれさせ給うなよ』

☆四季の語らい
「怒ること」と「叱ること」は違う。愛情をもって、母親が我が子を叱るように、教員が生徒を伸ばそうと叱るように、「励ましの心」で叱る。これは人間的な励ましであり、優しい心、温かい心である。それに対し、怒りには憎しみがある。自分の感情にまかせて怒るのは、魔性の心と言わねばならない。

☆女性に贈ることば 三月十四日
勇んで労苦を引き受け、友と同苦し、人びとに、社会に、奉任しゆく人生であれ!
大きく悩んだ牢光きし郵猷が郎がる。

☆今日のことば365 三月十四日
文明は権力 武力を用いず
幸せへ民衆を化す運動である

☆〜新会員のための仏法入門〜 第23回 三証
◇功徳に満ちた実証を示そう!
世界には数多くの宗教があり、その教義もさまざまです。どの教えが人々を幸福にするすぐれた教えなのか——。宗教の優劣を判定する"物差し"が、今回学ぶ「三証」です。具体的には「文証」「理証」「現証」の三つで、「証」とは証拠のことです。

◇御書の随所で経文を引用
「文証」とは、その宗教の教義が、よりどころとなる経文、聖典の上ではっきりとした裏付けをもっているかどうか、ということです。
日蓮大聖人は『経文に明ならんを用いよ文証無からんをば捨てよとなり』(P482)と、経文上に明確な根拠のある教義を用いるべきであり、経典によらない教えを用いてはならないと戒められています。文証に基づかない教義は、所詮、己義(自分勝手な考え、教え)にすぎません。
『文証無き者は悉く是れ邪偽・彼の外道に同じ』(P148)
『若し仏の所説に順わざる者有らば当に知るべし是の人は是れ魔の眷属なり』(P152)
大聖人は文証の大切さについて御書の随所で強調され、法理を説かれる際にも多くの経文を引用されています。
そして、創価学会は、創立以来、御本仏・日蓮大聖人の御金言である「御書」を根本に仏法を実践しています。

◇現実生活を変えられるか
「理証」とは、その宗教の教義や主張が道理にかなっているかどうか、ということです。
御書には『仏法と申すは道理なり』(P1169)とあります。仏法はどこまでも道理を重んじるのであり、道理に外れた主張は用いるべきではありません。
「現証」とは、その宗教の教義に基づいて信仰を実践して、現実生活の上で結果が現れるかどうか、ということです。
宗教とは、観念的なものではなく、人々の生活や人生、さらには社会に必ず大きな影響を与えます。ゆえに、その信仰を実践することで、現実に一人一人の人生に、さらには社会にどのような影響を与えたかで、その宗教の勝劣浅深を判断していくべきです。
以上のように、大聖人は、「文証」「理証」「現証」という三つの基準をもって正法を判定するべきであるとされました。この三証のうち、どれか一つが欠けても、正しい宗教とはいえません。
薬に譬えていえば、文証は成分表や効能書きにあたり、理証は薬が効く確かな理由にあたり、現証は実際に服用して体が回復するという明確な結果にあたります。

◇「現証に付て事を切らん」
大聖人は『日蓮仏法をこころみるに道理と証文とにはすぎず、又道理証文よりも現証にはすぎず』(P1468)と仰せです。ここで「道理」とは理証のことであり、「証文」とは文証のことです。
この御文に明らかなとおり、大聖人が最も重視されたのが、現証です。
文永8年(1271年)夏に大干ばつ(長期間の日照り)が起こった時、真言律宗の極楽寺良観が祈雨(雨乞い)をすることを聞かれた大聖人は"もし良観が7日のうちに雨を降らせたなら、自分が良観の弟子になる。もし雨が降らなければ、良観が法華経に帰伏せよ"と申し入れをされました。
結果は、7日間雨は一滴も降らず、良観はさらに7日の延長を申し入れましたが、雨が降らないばかりか暴風が吹くというありさまで、良観の大敗北に終わりました。
「現証に付て事を切らん」(同349ページ)——大聖人はまさに現証をもって宗教の正邪を明確にされたのです。
創価学会もまた、牧口常三郎初代会長が「道理も証文ももちろん大事だが、論より証拠で、生活の中に功徳の実証を示すことが、それ以上に大事である」と語っているとおり、何よりも現証を重視してきました。
御書根本の実践を重ねる中で、目前の苦難を乗り越え、勝利の姿をもって信仰の現証を示した同志は数知れません。
強盛な信心を根本に自身の課題に挑戦し、功徳に満ちた勝利の実証を示すこと自体が、日蓮仏法の正しさの証明にほかならないのです。