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如説修行抄 P504
『されば如説修行の法華経の行者には三類の強敵打ち定んで有る可しと知り給へ、されば釈尊御入滅の後二千余年が間に如説修行の行者は釈尊天台伝教の三人はさてをき候ぬ、末法に入つては日蓮並びに弟子檀那等是なり、我等を如説修行の者といはずば釈尊天台伝教等の三人も如説修行の人なるべからず』
☆四季の語らい
「民衆とともに歩み」「民衆の側に立つ」ことを、無上の誇りとする。この心に立つ人は強い。権力者だから偉いのか。政治家だから、有名人だから偉いのか。断じて、そうではない。名声など、幻のようなものである。
☆女性に贈ることば 三月三日
躾や教育に、こうでなければならないという決めつけは禁物である。
「桜梅桃李」−−桜は桜、梅は梅の言葉通りに、それぞれの子どもの長所を伸ばし、特性に合った生き方を選ばせてあげられるような環境を、できるかぎり用意してあげたいものである。
☆今日のことば365 三月三日
美しい女性の本質は、個性よりにじみ出た品格にある。また、言葉をかえると、清楚な化粧と、心豊かな価値創造に富む教養をそなえた女性に最大の美を感ずる。
☆生活に生きる仏教 痛みから見る肉体と心の関係
「いたいのいたいのとんでいけー!」。お母さんのその一言で本当に痛みが取れた。そんな経験はありませんか。痛みとは痛覚とも表現できるように、人が持つ感覚の一つです。
また、タンスの角に足の小指をぶつけた時、その瞬間、激痛が走り、呼吸が荒くなって脂汗が浮かび、なぜか怒りの気持ちが起こって誰かに悪態をついてしまいます。
このように、痛みは感覚だけにとどまらず、感情や精神に影響を及ぼし、不安や恐怖、苦痛を引き起こします。
1979年(昭和54年)に国際疼痛学会で、「痛みは、実質的または潜在的な組織損傷に結びつく、あるいはこのような損傷を表す言葉を使って述べられる不快な感覚・情動(感情の動き)体験」と定義されました。「疼痛」とは、ずきずきうずくような痛みを意味します。
痛みを伝える感覚神経は、例えば皮膚の表面から脊髄へ、さらに脳へと達し、大脳皮質の感覚野で初めて痛みが認識されます。ここからさらに、大脳の記憶や感情を司る部分に神経が伸びていて、感情が表れます。
◇危険を伝える警告の役割も
さて、痛みの「定義」に従って痛みを見ると、大きく三つに分けることができます。
「第1の痛み」に急性疼痛が挙げられ、これは実際に体の一部が損傷して痛みが起こるのですが、傷が治癒すると痛みもなくなります。こうした痛みは、「正常な痛み」です。異常があるから痛いわけですから「正常な痛み」とは、おかしな言い方ですが、「必要な痛み」と言い換えられるかもしれません。
これは、例えば"これ以上、動くと損傷が広がって命に関わるぞ"、あるいは"これ以上、長い時間、お湯に手をつければ、やけどするぞ"など、危険な状態にあることを伝える警告信号です。
「第2の痛み」は慢性疼痛であり、長期間持続する痛みです。
原因がなくなっても、なお持続する「異常な痛み」です。特に代表的なのは神経因性疼痛といわれるもので、痛みを伝える神経そのものが障害を受けて過敏な状態になります。このような過度の痛みが長期間持続すると、うつ病等の原因になります。
最後の「第3の痛み」は心因性の疼痛です。これは、痛みを伴うような身体的な要因がないのに痛みがある状態であり、心理的な要素が原因になっていると考えられます。
◇不安や恐怖は悪化させる要因に
神経因性疼痛や心因性疼痛は、持続的で病的な痛みを特徴としており、精神的苦痛となって社会生活に悪影響を及ぼします。
また、慢性疼痛は、その痛みが不安や恐怖を大きくし、それがさらに痛みを持続させるという悪循環に陥ってしまいます。
しかし、人は反対に感情によって痛みを抑制するシステムも持っています。あるときは心が痛みを増幅し、あるときは同じ心が痛みを軽減するのです。
ここで、慢性疼痛の軽減につながるのは、前向きな気持ちや、痛みは制御できるという考え、また喜びやリラックスのほか、家族や友人との関わり等が挙げられます。
逆に、不安や諦め、抑うつ感や恐怖、怒り、孤独は、痛みを増幅します。
例えば、"痛みをゼロにしなければならない"といった強迫観念や、"痛みが強くなったらどうしよう"という不安は、かえって痛みを意識させて、痛みを悪化させます。
むしろ、"痛みがあっても生活できるから大丈夫""体が痛いおかげで健康のありがたさが分かった"、あるいは"痛みは必ずコントロールできる"といった前向きな捉え方をする方が、痛みの軽減に結びつくと考えられます。近年、この精神面からのアプローチが注目され、「認知行動療法」として痛みの治療に取り入れられています。
痛みの身体的な感覚の側面から精神的な感情の側面に注目されるようになった大きなきっかけは、13年前に発表された研究でした。それは、精神的な苦痛を受けるだけで、体に痛みを受けた時と同じ脳の部位に反応が見られるというものでした。
脳科学から見れば、感情も脳内の電気信号の伝達として理解される、いわば物理的な現象といえるのかもしれません。しかし、心は感情だけでなく意識や無意識を含んだもっと大きな概念であり、その心を物理的な側面だけで捉えることはできません。
◇希望あふれる人生の源泉
こうした見方に立つ時、痛みを通して見た肉体と心の関係は、仏法の説く「色心不二」に通じるものです。
ここで色心不二とは、一般的には色法(物質・肉体面の働き)と心法(心の働き)が別々のものとして捉えられるのですが、仏法の法理から見れば、両者が生命それ自体において一体であることをいいます。
普通、肉体と心が影響し合っていると理解されても、肉体と精神は基本的には分けて考えられます。しかし仏法は、生命の根源的なあり方として、色心不二と説くのです。
体と心が影響を及ぼし合うという観点からすると、頑固な痛みと付き合っていく上で大切になるのは、先ほども触れたように、前向き、積極的な気持ちで生きること、また家族や友人と関わることになるでしょう。
痛みは、人生の苦しみを形作る大きな要素であることは言うまでもありません。
しかし、生老病死をはじめとする人生の苦悩を解決するのが仏法です。あらゆる生命と宇宙を貫く根本法にのっとって生きる時、人はどんな苦悩をも乗り越えられることを、仏法は教えています。
日蓮大聖人は『南無妙法蓮華経は師子吼の如し・いかなる病さはりをなすべきや』(P1124)と仰せです。百獣の王である師子がほえれば、あらゆる獣が恐れ、おののきます。南無妙法蓮華経を持つ人は、この師子と同じように、どんな病苦や苦難にも屈することなく、乗り越えていくことができるのです。
もちろん、痛みと上手に付き合う上で、医療の力は欠かせません。そのうえで、大聖人の仰せのように、仏法は希望あふれる前向きな生き方の源泉となります。痛みに苦しめられない生き方を実現する上で、信仰は大きな意義を持つのです。
◇コラム 「地獄の苦みぱっときへて」
腰痛など、慢性的な痛みを伴う疾患を抱える人は少なくありません。
仏法は、三世の生命観の上から、今世でさまざまな苦しみに遭うのは、過去からの宿業の報いであると捉えます。しかし、それは人間を宿業で縛り付けることを意味するのではありません。
むしろその反対に、未来にまで受けていかなくてはならない、宿業の報いによる苦しみを、妙法を持つことによって今世で軽く受けて消滅させることができます。
このことを日蓮大聖人は、『先業の重き今生につきずして未来に地獄の苦を受くべきが今生にかかる重苦に値い候へば地獄の苦みぱっときへて』(P1000)と仰せになっています。妙法を持つことで、宿業の報いによる苦悩に決して左右されない生き方を実現することができるのです。
病気による痛み、苦しみは本当につらいものです。しかし、仏法を持って、人のため社会のためという大いなる目的に生きる中で、苦悩をも乗り越える、人生の喜びや生きがい、充実を得ることができるのです。