2016年3月30日水曜日

2016.03.30 わが友に贈る

転入した友を
温かく迎えよう!
皆が大切な創価家族だ。
真心の励ましで
希望の前進を共に!

唱法華題目抄 P16
『法門をもて邪正をただすべし利根と通力とにはよるべからず』

☆四季の語らい
自発の心は美しい。自発の心に福運の因もある。人に言われて、いやいやするよりも、自発・能動で動けば、福徳は加速度をつけて増していく。

☆今日のことば365 三月三十日
若き日の悲運を耐え抜いて、人の何倍も苦労を重ねた分、人の何倍も豊かな人生を送ることができる。

☆今日のことば365 三月三十日
社会には、勝つ人もいる。敗れる人もいる。運、不運は計りしれない。しかれども、勝っても、永久にその歓びは続くものではない。一時負けても、自覚のある人は、勝者以上に、より高く、広く、深く、将来の、偉大さを、築きゆけるものだ。永久に、敗れざる限り、次への一歩一歩の、勝利を確信して生きぬくことだ。

☆「御書活動者会」研鑽のために 4月度男子部 法蓮抄
『餓鬼は恒河を火と見る・人は水と見・天人は甘露と見る、水は一なれども果報にしたがって見るところ各別なり』(P1050)

◇通解
餓鬼は恒河(ガンジス河)を火と見、人は水、天人は甘露と見る。水は一つのものであるが、果報にしたがって見方はそれぞれ別なのである。

◇背景と大意
本抄は1275年(建治元年)、日蓮大聖人が54歳の時に身延で認められ、下総国葛飾郡曾谷郷(現在の千葉県市川市)の領主であった曾谷教信という門下に与えられたお手紙である。
曾谷教信は「竜の口の法難」「佐渡流罪」という最大の法難の渦中にあっても動揺することなく戦い抜いた。その信心を称賛された大聖人は、教信を「法蓮上人」と呼ばれている。
本抄は、教信が自分の父の十三回忌にあたり、御供養とともに、父の追善供養の時に読み上げる文を大聖人に送ったのを受け、その孝養の心をたたえ、種々、御指南されたものである。

◇解説
今回学ぶ御文の直前で、大聖人は『法華経の文字は皆生身の仏なり我等は肉眼なれば文字と見るなり』(P1050)と仰せである。
凡夫には文字としか見えないが、法華経・寿量品の自我偈の五百十字は、そのまま五百十の仏となって亡き父を訪ね助けるだろうと、大聖人は曾谷教信を大激励されている。
拝読御文では、涅槃経の経文から、渇きを癒やすはずのガンジス河(恒河)の水も、欲望に支配された餓鬼界の衆生には火に見えるとの例えを引用されている。
さらに、ガンジス河の水は、人間として平穏な心で見れば、そのまま水と見え、喜びに満ちた天人には甘露(=不死の飲料)に見える、と述べられている。
私たちが毎日、朝晩に読誦している自我偈。その一つ一つの文字は、凡夫にはただの文字にしか見えない。しかし、仏眼で見れば一文字一文字が仏なのである。
その見え方の違いは「果報」による。果報とは、過去世の行いによる「結果」と「報い」のこと。過去のさまざまな振る舞いは、全てが自身の生命に刻まれる。それが境涯の違いとなる。
だが、一人一人の境涯は変えていくことができる。『今法華経・寿量品を持つ人は諸仏の命を続ぐ人なり』(同P)と大聖人が仰せのように、凡夫であっても自行化他の仏道修行に励んでいくならば、仏の生命を涌現し、境涯を高めていけるのだ。
自身の境涯によって物事の見え方が変わる——それは多くの同志の実感でもある。
ある男子部員は職場の環境に悩み、"なぜ、自分ばかり仕事量が多いのか"と、不満を抱えながら仕事をしていた。
しかし、男子部の先輩から励ましを受け、"自分の心一つで環境は変えられる"と決意。勤行・唱題を実践し、学会活動にも挑戦する中で、"仕事が楽しい"と感じられるようになった。
彼を取り巻く職場の状況が、劇的に改善されたわけではない。変わったのは、彼の心である。彼は、仕事と学会活動の両立を真剣に考え、時間の使い方を工夫するようになった。また、多い仕事量も"自分が期待されている証しだ"と、前向きに捉え、仕事に取り組むようになった。

池田SGI会長は語っている。
「人生の目的は何か。それは『幸福』である。幸福の決め手は何か。それは『境涯』である。同じ環境にあっても、その人の境涯によって、幸福ともなり不幸ともなる。そして、信心とは、自身の境涯を限りなく広げ続けゆく『自己拡大作業』である。その根本は唱題である」
新年度の出発に際し、環境の変化に直面する人も多いだろう。慣れない人間関係など、思わぬ苦難に直面することもあるかもしれない。そんな時こそ、「自分が成長すれば必ず状況は変わる」との強き一念で御本尊に祈り、全てに挑戦していきたい。勝利への力は、わが胸中にあると確信して!