全人類の幸福!
全世界の平和!
大いなる理想へ
大いなる心で前進だ
新池御書 P1443
『有解無信とて法門をば解りて信心なき者は更に成仏すべからず、有信無解とて解はなくとも信心あるものは成仏すべし』
◇希望の明日へ
人間を信じて人間が集う。その輪がしだいに広がっていく−−これが、学会の発展であった。そこには、だれが上とか下とか、詳鵬はない。むしろ、社会で多くの差別があろうとも、学会にくれば何の隔たりもなくなる、平等の世界である。だから世界的にも広がった。じつは、これが仏法の本来の組織のあり方である。釈尊の時代む、釈尊という「人」を信じて、その"人"と"法"に人々は集い、平等な人間集団が広がっていった。釈尊が亡くなったあと、組織のための組織という側面が出てきて、権威主義や硬直化、また、その正当化の理屈が生まれていったと、概略、見ることができる。学会もまた人間主義である。そのうえで、特に近代は"組織の時代"であり、組織化されない連動は必ず崩れていく運命にある。ゆえに学会は、どこまでも"人間的組織"をつくることに挑戦しながら、民衆運動を進めてきたのである。
☆随筆 人間世紀の光No.103 伝統の「座談会」の思い出
私が、人生の師である戸田先生に巡り会い、仏法を知ったのも、座談会であった。
昭和二十二年の八月十四日の夜、蒲田の糀谷で行われた座談会—ここで、四十七歳の師と、十九歳の弟子は出会ったのである。
翌日は、二度目の敗戦記念日であった。
戦後の荒廃のなか、正しい人生を求めて、青春の魂の遍歴を続けていた私は、「立正安国論」を講義される先生の気迫に打たれた。いな、先生の人格に圧倒された。
そしてまた、この貧しい庶民の集いが、かくも明るく、かくも深遠な哲学性をもっていることに感動した。
多くの方々がそうであるように、座談会は、私が学会を知った原点なのである。
まさに、座談会は「言論戦」「思想戦」の場であり、「不惜身命」「死身弘法」の大闘争の法戦場であった。
その先師の心を偲んで、私は、真剣に真剣勝負で臨んできた。