一対一の語らいこそ
広宣流布の直道だ!
友の仏性を信じ抜き
徹底して励ます中で
幸の連帯は築かれる!
衆生身心御書 P1594
『つゆつもりて河となる河つもりて大海となる塵つもりて山となる山かさなりて須弥山となれり小事つもりて大事となる何に況や此の事は最も大事なり』
【通解】
露が集まって河となり、河が集まって大海となるように、塵が積もって山となり、山が重なって須弥山となるように、小事が積もって大事となるのである。
名字の言 ある少女部員の夏休みの思い出 2022年8月30日
小学校の夏休みの宿題である「絵日記」の内容が変化しているとニュース番組で見た。コロナ禍の影響もあり、家族旅行や海水浴などの記述が少ないという▼それでも児童らは「自宅で料理に挑戦した」「父と一緒に勉強机を手作りした」など、楽しい思い出を残しているとも。先日、ある少女部員からも充実の夏休みの様子を聞いた▼その少女は父親が長期出張のため、夏休みを伯母の家で過ごした。一人っ子で、数年前に母を亡くしていた。ある日、勤行を終えた伯母に少女が質問した。「勤行は何のためにするの?」。伯母は池田先生のスピーチを引いた。「御本尊を母と思い、父と思い、うれしいことも、苦しいことも、全部、話していけばよい。ぶつけていけばよい。必ず、全部、通じていく」。そして優しく励ました。「どこにいても、お母さんとお父さんはいつも見守っているよ」▼その晩から少女は伯母と勤行を始めた。終えると「おばちゃんは向こうに行ってて」とせかし、その後、御本尊の前で1日の出来事を、胸中の母と出張中の父に報告していたという▼少女の純粋な心に、本当の幸せを教わった。御本尊に向かい、「今度は算数を頑張るね」とも語っていた少女は、もうすぐ新学期を迎える。
寸鉄 2022年8月30日
「凡夫は勇気で人を救っていくのだ」戸田先生。我らの対話こそ慈悲の行
「人の邪見を申しとどむるこそ智者」御書。青年よデマは一つも逃さず喝破(新1573・全1156)
自己否定は脳の活動低下を招く—医師。楽観主義こそ力を引き出す鍵なり
「防災週間」開始。災害時の持ち物、避難経路等を要確認。まずは自助から
国税庁を装い納付求める詐欺メールに警戒。無視が一番だ。安易に開くな
☆欧州で青年教学研修会 34カ国900人の求道の友が参加
◇池田先生がメッセージ贈る
欧州青年教学研修会が27、28の両日(現地時間)、オンラインで開催された。
これには、欧州34カ国から代表900人が参加。
池田大作先生が祝福のメッセージを贈り、生命尊厳の哲理を掲げ、強盛に平和を祈り、草の根の励ましの対話を広げる若き連帯こそ、混迷の時代を照らす希望の太陽であると強調。「勇んで『行学の二道』に励み、共々に切磋琢磨し合いながら、使命深き人生と家族のため、さらに広布と社会のために勝ち光っていってください」と呼び掛けた。
欧州社会は今、感染症や気候変動の問題、長引く紛争など、危機に直面している。欧州青年部の友は研修会に向けて、"小さな自分には何もできない"と嘆き、傍観するのではなく、"自他共の幸福の実現こそ地涌の菩薩の使命である"との確信に立って対話拡大に挑んだ。問題解決の糸口を師匠の平和の心が凝縮した小説『新・人間革命』に見いだそうと研さんに励んだ。
その思いが今回の研修会のテーマに込められている。「新・人間革命世代、共に平和のために!」
一人一人が"新時代の山本伸一"との自覚で善の連帯を広げ、臨んだ研修会。
集いでは、『新・人間革命』執筆に込められた池田先生の思い、世界広布の大闘争について研さん。西方SGI(創価学会インタナショナル)男子部長、大串同女子部長がオンラインであいさつした。
代表4人が信心根本に勝利の実証を示した信仰体験を披露。質疑応答、SDGs(持続可能な開発目標)に関する研究発表、ミニ座談会も行われた。
欧州青年委員会のヨシコ・ソサ・スギサワ委員長が「皆が希望の太陽と輝こう」と訴え、タカハシ欧州議長、プリチャード同女性部長が求道の友を励ました。
欧州の若人は、師との共戦の誓いを胸に、心新たに出発した。
「同世代の友が人類の幸福のために行動する姿に勇気をもらいました」(オランダ・女子部)
「『新・人間革命』を人生の指針として、師匠に勝利を届けます!」(ポーランド・男子部)
☆ストーリーズ 師弟が紡ぐ広布史 第23回 平和の旗を高く掲げて �反戦出版
全ての国の民衆に生きる権利がある
それは誰にも侵されてはならない
◇沖縄決議
1973年は、創価学会が仏法を基調とした社会建設へ船出した年である。その開幕を控えた72年11月、池田大作先生は東京・日本武道館での本部総会で講演した。
「世界のあらゆる国の民衆が、生きる権利をもっている。それは、人間として、誰にも侵されてはならない権利である。その生存の権利に目覚めた民衆の運動が、今ほど必要な時はない」
「その運動を青年部に期待したい」
師の提案に、青年部は検討を開始した。そして、3カ月後の73年2月の男子部総会で「生存の権利を守る青年部アピール」を採択する。
アピールを受けて、全国各地で、平和構築のための具体的な取り組みについて、協議が重ねられた。最も早く計画をまとめたのが沖縄だった。
同年5月19日、沖縄青年部は「戦争体験記を発刊する」との項目が入った「沖縄決議」を採択する。戦争体験記の発刊は、74年6月23日の出版を目指すことに。「6月23日」は、太平洋戦争末期の沖縄戦で、旧日本軍の組織的戦闘が終結したとされる日である。
編纂委員長に三盛洲洋さん、副委員長に桃原正義さんが就いた。
2人が池田先生と初めて出会ったのは、64年12月2日。沖縄本部(当時)で行われた学生部員会である。
席上、先生は「沖縄の歴史は、悲惨であった。宿命の嵐のごとき歴史であった。だからこそ、ここから、幸福の風が吹かねばならない。平和の波が起こらねばならない」と訴えた。
64年12月2日は、先生が沖縄で小説『人間革命』を起稿した日でもある。だからこそ、2人は編纂委員の友や出版に協力してくれる仲間と共に、反戦の書の完成に全精魂を注いだ。
◇人骨が残る壕で
桃原さんが編纂委員のメンバーと共に戦争体験を聞いた一人に、石川幸子さんがいる。石川さんは学会員ではなかったが、依頼に快く応じた。
沖縄師範学校女子部の生徒だった石川さんは、「ひめゆり学徒隊」と呼ばれる学徒看護隊の一員だった。配属された陸軍病院では、兵士のし尿を取ることや、亡くなった患者の遺体を運ぶことが、主な仕事だった。
45年5月末、米軍が間近に迫り、病院を移動することになった。後になって、"歩けない患者は、衛生兵によって青酸カリ入りのミルクを飲まされた"という衝撃的なことを聞いた。
石川さんは、看護隊の仲間と壕に隠れた。壕の中は風通しが悪く、多くの人がいたため、大変な暑さになった。
水を求めて、壕から出た。海辺へ移動し、アダンの葉の下で生活した。だが、その場所にも米軍は容赦なく攻撃を仕掛ける。岩の陰に隠れたり、波にさらわれる危険を承知で、海に逃げたりしたこともあった。
やがて、食べ物も底をついた。食料が残っているという壕に行くと、たくさんの骨があった。その壕は、現在の「ひめゆりの塔」が立つ場所である。
石川さんは、同じ学徒隊の人骨が残る壕にとどまった。日本の降伏が信じられず、8月22日まで壕の中で身を潜め続けた。
戦争とは、これほどまでに、むごいものか——桃原さんは身を震わせながら、石川さんの話を聞いた。
74年6月23日、沖縄の方々の戦争体験をまとめた『打ち砕かれしうるま島』(第三文明社)が発刊された。それは、創価学会青年部による反戦出版シリーズの第1巻となった。
◇日本軍の残虐行為
『打ち砕かれしうるま島』が発刊される4カ月前の1974年2月、沖縄を訪問した池田先生は、名護会館へ。そこに集った未来部のメンバーに率直な思いを語った。
「平和のために、"沖縄の心"を伝えるために、戦争体験の証言集を残してほしいというのが、私の願いです」
その場にいた上原春樹さん。沖縄戦を生きた祖母のシゲさんに話を聞くことにした。だが、シゲさんは強烈な拒否反応を示した。普段の優しい祖母からは想像もつかない表情だった。
シゲさんは未入会だった。その祖母に、春樹さんは戦争体験を聞く意義を何度も語った。
ある時、沖縄に二度と戦争を経験させないための取り組みであることを伝えた。シゲさんは「沖縄に戦争を起こさせないためか」と聞き返し、自らの戦争体験を語り始めた。
——沖縄戦が悲惨な様相を見せていた45年5月21日、シゲさんは長女を出産。しかし、複雑な心境だった。
「食糧難に加え、いつ敵の砲弾にやられるかもしれない不安……」「味方と信じていた日本軍は、敵に発見されるからといって泣きじゃくる赤ちゃんを殺してしまう。そのような信じられないことが私の周囲にはあった」
長女は手のひらに包まれるくらいの小さな姿で生まれた。だが、元気な泣き声をあげ始めた。
「私はうれしくてうれしくて、飛びあがって喜びました」「戦争の犠牲にさせてなるものか——と、私は心に強く決意した」
その後、シゲさんは米軍の捕虜になった。当時、それは恥とされた。それでも恥より生きることを選んだ。
収容所はマラリアやチフスなどの病気が大流行していた。シゲさんは収容所で、こんな言葉をよく耳にした。
「昨日は他人の死体をかつぎ、今日は自分がかつがれる」
収容所も悲惨だった。その中を、シゲさんは生き抜き、戦後を迎えた。
春樹さんの熱意によって残されたシゲさんの証言は、76年6月23日に発刊された、反戦出版の第17巻『血に染まるかりゆしの海』に収録された。
◇戦争体験を絵に
沖縄戦の実態を残すために、沖縄青年部が反戦出版と共に取り組んだのが「沖縄戦の絵」の収集である。
沖縄戦の写真は、多くが米軍が撮影したもの。沖縄の人々が、どれだけ悲惨な思いをしたかという視点での記録は、皆無に等しかった。
戦争体験を持つ人に、過去の記憶を絵にしてもらう——。それは、容易ではなかった。事実、取り組みを始めてから数カ月が経過しても、絵は一枚も収集できなかった。
沖縄の青年たちは、戦争体験者のもとを訪ねては、平和継承の思いを訴えた。その叫びが体験者の心を動かし、約700枚の絵が集まった。
85年に「沖縄戦の絵」展が始まり、全国で巡回。一部は複製パネルを作成し、平和教育の資料として貸し出され、今も県内の学校等で活用されている。
さらに今年、沖縄戦体験者への聞き取りをもとに制作した「沖縄戦の紙芝居」の貸し出しもスタートさせた。
◇編纂の苦闘
1980年12月5日、「婦人平和委員会」(現・女性平和委員会)の設置が発表された。活動の柱の一つとして掲げられたのが、「戦争体験の証言集の編纂」である。
翌81年8月、第1巻『あの星の下に』が発刊。以来、91年までの10年間で計20冊の証言集が世に送り出された。
小林昌子さんは、長崎の婦人平和委員会の委員長として、長崎の被爆をテーマにした第13巻『終わりはいつですか』の編纂に携わった。夫の喜丸さんは、青年部の反戦出版シリーズ第3巻『ピース・フロム・ナガサキ』の編纂委員長だった。
反戦出版の取り組みが決まった時、長崎の平和委員会として、被爆2世に焦点を当てることにした。
ただ、そこには大きな壁があった。「誰が被爆2世なのか」が分からないのである。
そもそも、社会的な差別もあり、被爆者の中に、自身が被爆した事実を語る人はほとんどいなかった。自分の子どもに、被爆の苦悩や不安を抱かせたくないと、被爆者たちは固く口を閉ざした。
平和委員会の友は、まず自分たちが被爆2世なのかを確認した。編纂作業は、親に話を聞くことから始まった。
すると、平和委員会のメンバーに、被爆2世が多い事実が判明した。彼女たちは、親の体験や被爆2世としての自身の思いを語りながら、証言をしてくれる人たちを探した。
時には、「なぜ、人の気持ちをえぐり出すようなことをするのか」との率直な意見もあった。委員会の友は、原爆の恐ろしさを後世に伝え残す決意を誠実に語っていった。
一つ一つの困難を乗り越え、85年8月9日、『終わりはいつですか』は出版された。
81年12月8日、婦人平和委員会による反戦出版シリーズの第2巻『白衣を紅に染めて』、第3巻『雑草のうた』の2冊が発刊された。
この日、池田先生は大分へ出発する前に、創価婦人会館(現・信濃文化会館)を訪問。2冊の書籍に揮毫した。
『白衣を紅に染めて』には、「此の反戦出版は 母の悲願なり 母の勝利の証なり」と記した。そして、『雑草のうた』には、こうペンを走らせた。
「戦争ほど 残酷なものはない。 昭和十六年十二月八日、 大東亜戦争の開始を 大本営発表として 聞きしは、京浜蒲田駅附近の 朝の路上でありしを 回顧しながら記す。 此の書を 作りし学会婦人部に 感謝しつつ」