2022年8月12日金曜日

2022.08.12 わが友に贈る

仏法は生命の健康法だ。
「張りのある勤行」
「無理と無駄のない生活」
「献身の行動」
「教養のある食生活」を!

四条金吾釈迦仏供養事 P1146
『日蓮も又此の天を恃みてたてまつり日本国にたてあひて数年なり、既に日蓮かちぬべき心地す利生のあらたなる事外にもとむべきにあらず』

【通解】
日蓮もまたこの日天子を恃み奉り、日本国とはりあって数年になるが、すでに日蓮が勝ったという心地がする。このように利生のはっきりしていることは、ほかに求められない。

【先生の指導から】
打ち続く大難を乗り越えての勝利宣言と拝せよう。仏法は勝負である。断じて、勝利の証を示しきることだ。

名字の言 災いと幸いは表裏一体 2022年8月12日
試練は避けたいが、避け難いのが現実だ。病気になり、健康のありがたみを知る。貧困と戦い、真の豊かさを知る。災難に遭い、本当の幸せを知る——それが人生である▼御聖訓に「大悪おこれば大善きたる」(新2145・全1300)、「苦楽ともに思い合わせて南無妙法蓮華経とうちとなえいさせ給え」(新1554・全1143)と。災いと幸いは表裏一体で、共に人生に不可欠なのだ▼東京のある女性は十数年前、一緒に和食店を営む夫と別離。一人で切り盛りする店は毎日、閑古鳥が鳴いた。ある日、客として来た女性部員に「冬は必ず春になるよ」と励まされ、後日、入会する▼人生も店の経営も上向く中、昨今のコロナ禍の打撃。加えて実母が体調を崩し、要介護4に。だが、女性は"今再び、春を呼び込む"と奮起。その後、店はテレビドラマのロケにも使われ、大繁盛に。実母も要支援2まで回復した▼池田先生は仏道修行の苦難の意味について「それらのすべては、光輝満つ"栄光の人生"の完成への滋養であり、屹立した"勝利の人生"の軌道を進むための推進力になっていく」と。それを実感する先の女性の言葉が素晴らしい。「きょうまでの苦闘の日々こそが、本当の功徳だと思います」

寸鉄 2022年8月12日
「他人を利していく生活こそ大善」牧口先生。自他共の幸福道をはつらつと
教育本部原点の日。家庭教育懇談会を地道に推進 希望の未来照らす大聖業
困苦に耐え偉業を遂げる人達は太陽のよう—文豪チェーホフ 広布貢献の庶民こそ英雄
夏のイベント3年ぶりの開催多く。適切な感染対策続け、有意義な一時を
花火の事故に注意。点火方法や持ち方を正しく。消毒液への引火にも警戒

〈社説〉 2022・8・12 きょう「教育本部原点の日」
◇子どもの声を「よく聞く」人に
「原点」という言葉の意味を辞書で調べると、「物事を改めて考えるときなどに立ち返るべき根源の点」等とある。その"点"に繰り返し立ち返ることを忘れない限り、行き詰まることはない。
そんな「原点」を持つ人は、どれほど強く、幸せなことか。
創価学会の教育本部が「原点の日」と定めているのは8月12日。1975年に教育部(当時)の夏季講習会が創価大学で行われた日である。
席上、池田先生は「私の人生における最終の事業は教育と決めております」との信念を表明した。
そして、教育にとって最も大事なことは、子どもたちの声を「よく聞く」ことであり、「言葉による表現から、その奥にある精神の心音を、よく聞いていく」ことだと強調したのである。
初代会長・牧口常三郎先生、第2代会長・戸田城聖先生の師弟によって誕生した「創価教育」の原点とは、「子どもの幸福」という大目的だ。
大人の都合でも社会のためでもない。子どもが何を望んでいるのか、何に困っているのか——その思いを大人がくみ取り、応えてゆかなければならない。
そこに教育の本義があることを、創価教育の理念は示している。
折しも本年6月に国会で成立した「こども基本法」には、子どもの意見を表明する機会の確保がうたわれた。
「こどもの最善の利益」を図るため、大人は子どもの意見を形式的に聞くだけではなく、それを重んじて、教育現場の運営や社会の仕組みに反映していくことが重視されたのである。
その意味において、今ほど「よく聞く」ことが求められている時はない。
今夏も教育本部の友は各地で研修会を実施している。子どもたちの思いや意見を"よく聞く"ことができる自分になるには何が必要か。
池田先生は「教育する側に、それだけのキャパシティー(容量)がなければならない。それは、大海のような慈愛の深みがあってこそ、可能となる」と訴える。
キャパシティーとは「境涯」と同義であろう。信心の実践を通して日々「境涯革命」「人間革命」に挑戦しゆく教育者でなければくみ取れない、子どもたちの"声なき声"があるはずだ。
子どもを主役に、子どもを幸福に——この創価教育の原点を、教育本部だけではなく、地域で社会で子どもたちに関わる全ての友が確認し合う日としたい。

☆8月度座談会拝読御書 妙密上人御消息
◇御文
『日本国の中にただ一人、南無妙法蓮華経と唱えたり。これは須弥山の始めの一塵、大海の始めの一露なり。二人・三人・十人・百人、一国・二国、六十六箇国、すでに島二つにも及びぬらん。今は謗ぜし人々も唱え給うらん。また上一人より下万民に至るまで、法華経の神力品のごとく、一同に南無妙法蓮華経と唱え給うこともやあらんずらん。』(御書新版1711ページ12行目〜15行目、御書全集1241ページ2行目〜5行目)

◇[池田先生の指針から]"一対一"の伝統を継ぐ
「法」そのものは、無始無終の永遠の真理です。しかし、「法」を覚知した一人が立ち上がって伝え広めなければ、万人が「法」の利益に浴することは永久にあり得ません。
思えば、仏教の創始者である釈尊は、菩提樹の下で覚りを得た後、この法を説くべきか否かと逡巡しました。あまりにも未聞の法だからです。しかし、遂に決断し、民衆のために一人立ち、法を弘め始めました。「一人立つ精神」は、仏教の誕生から変わることのない、根幹であるといってよいでしょう。(中略)
全ての人には本来、仏性が具わっています。ですから、どこまでも堂々と、そして誠実に、この仏法の偉大さ、学会の素晴らしさを語り抜いていけばよい。仮に無理解からの非難があっても、やがては、相手の仏性が発動していくのです。(『わが「共戦の友」——各部の皆さんに贈る』)
◇ ◇ ◇
ある時、牧口先生は、座談会よりも講演会形式にしたほうがいいと語る青年に、鋭くこう語られました。
「いや、それは違う。人生に対する問題は対話でなくては相手に通じない。講演だけでは、聞く方は他人事にしか感じないものだ。日蓮大聖人の『立正安国論』にしても問答の形式ではないか」
また、戸田先生も、「広宣流布は一対一の膝詰めの対話によって成し遂げられる」とよく語っていました。
私も同じ信条で、常に一対一の対話を重ねてきました。どこまでも大切なのは、一対一の人間味ある励ましと信心の触発です。この伝統が継承される限り、学会は永遠に発展していくことは間違いありません。(『勝利の経典「御書」に学ぶ』第6巻)

◇「一人立つ」信心で新たな歴史を築く
[キーワード�]創価の誇りを胸に
「須弥山の始めの一塵、大海の始めの一露」との譬えからは、日蓮大聖人が、末法の一切衆生を救いゆく、法華経の題目を弘める"最初の一人"となられた誇りと御確信を拝することができます。
そして現実に2人、3人と伝え広げ、当時の日本全国に妙法を弘通され、今日まで続く、世界広布の流れを開かれたのです。
創価学会は、この大聖人の妙法流布の御遺命と、"一人立つ誇り"を継承し、三代の会長と共に、あらゆる障魔に打ち勝ってきたのです。
草創期には、"貧乏人と病人の団体"と悪口されることもありました。そんな世間の風評などに紛動されることなく、何があっても大聖人に連なる"創価の誇り"を胸に、信心の炎を燃やしてきたのです。
戸田先生はかつて、「今、威張っている人間が、しまったと思う時が広宣流布だよ」と語られました。
その言葉を現実のものとするため、学会員は、世間をあっと言わせるような勝利の姿を示してきました。"必ず幸せになってみせる"と一人立ち、懸命に題目を唱え抜きながら、岩盤に爪を立てるようにして幸福境涯を開き、広布を前進させてきたのです。
一人一人の宿命転換の実証が積み重なり、須弥山のような人材山脈が築かれ、"七つの海"に創価の連帯が広がったことは、仏法史上、未聞の快挙であるといえます。
下半期も"創価の誇り"を胸に、一人立ち、自分自身の新たな歴史を築いていきましょう。

[キーワード�]真心は必ず伝わる
100人いれば、100通りの考え方があります。職場や地域において、時には意見が異なり、ぶつかることもあるでしょう。
その時、大切なことは、"あの人とは考え方が合わない"と決め付けないことです。そして、諦めずに対話を続けることではないでしょうか。
「あるいはののしられ、打たれ、あるいは傷を受け、あるいは流罪に二度遭い、死罪に一度定められた」(新1711・全1240、通解)——。日蓮大聖人は拝読御文の直前で、妙法流布に捧げられた二十数年間を振り返り、述懐されています。
それでも、大聖人は万人に具わる仏界の生命を信じ、大慈悲の御闘争を続けられます。その中で、「今は謗ぜし人々も唱え給うらん」とあるように、敵をも味方に変えながら、一人、また一人と正法に目覚めさせていったのです。
広宣流布といっても、「一対一の対話」から始まります。心を込めて語っても、相手から反発されることもあるでしょう。その時こそ、相手の幸福を祈り、粘り強く対話しつづけることが大切です。
池田先生は「信心に反対であるという人に対しても、幸せを願い、大きな、広い心で、笑顔で包み込むように接して、友好に努めていくことが大事です。それが、仏縁を結び、広げていくことになるからです」とつづっています。
一人から一人へ——今がどうあれ、相手を思う真心は、必ず伝わります。地道な対話によって、自他共の幸福境涯が開かれるのです。