2022年8月15日月曜日

2022.08.15 わが友に贈る

◇今週のことば
「いのちと申す物は、
一切の財の中に第一の財」
一人一人の生命の宝塔を
今こそ慈しみ輝かせよう。
世界不戦へ深き祈りで!
(新2052・全1596)

富木殿御書 P970
『我が門家は夜は眠りを断ち昼は暇を止めて之を案ぜよ一生空しく過して万歳悔ゆること勿れ』

【通解】
わが一門の者は夜は眠りを断ち、昼は暇なくこのことを思案しなさい。一生を空しく過ごして、万歳に悔いることがあってはならない。

名字の言 終戦77年。時が過ぎても消えない「心の痛み」 2022年8月15日
東日本大震災の被災者には"二重の時間"があると、社会学者の金菱清氏が本紙で語っていた(7月7日付)。震災で"止まったままの時間"と、今も進み続ける"現実という時間"である▼震災から5年後、氏はある母親に、6歳で亡くなった娘宛てに手紙を書いてほしいと依頼した。母親は当時の娘の年齢に合わせて「ひらがな」で書くべきか、生きていれば小学校高学年だから「漢字」も交えるべきか迷っているうちに苦しくなったという。時間とともに、心の痛みが増してしまうこともあると氏は指摘する▼きょうは「終戦記念日」。戦禍に苦しんだ人々も心の痛みを抱え、77年を生きてきた。広島のある壮年部員は爆心地から約4キロで被爆。3歳の妹の遺体を川で焼いた。「熱いじゃろうね」。そう語っていた5歳の弟も死去。兄も死んだ▼戦後、壮年は口を閉ざした。同じ被爆者の妻と結婚し、信心に出あってからも、自分だけ幸せになっていいのかと自責の念にかられ続けた。それでも戦争から77年を迎えた今、「人前では話せんが、亡き家族のために」と重い口を開き始めた▼流れゆく時間の中で今も心が癒えない方々がいる。その事実を受け止め、二度と戦争は起こさないと誓う「8月15日」でありたい。

寸鉄 2022年8月15日
終戦の日。今なお止まぬ地上の戦火。平和の叫びを市民社会から更に強く
賑わう学会の墓園。創価家族の福徳は三世に亘る同志の題目は最上の追善
一切を良く変えゆくのが妙法の無限の力用—戸田先生。日々、誓願の祈りで
安全に泳げる川ほぼない—専門家。遊ぶ時は膝下の水深までと。油断せず
手足口病が各地で流行。コロナと共に基本の対策怠らず。手洗い・嗽を励行

〈社説〉 2022・8・15 きょう「終戦の日」
◇生命尊厳の哲理を未来へ
公道を走る戦車、市街地で起こる爆発、肉親を奪われ涙に暮れる市民……。メディアに連日のように流れる映像は、決して映画やゲームの世界などではなく、今この瞬間に空の向こうで起こっている現実だ。本年2月に始まったウクライナ危機は、21世紀を生きる私たちに、戦争の脅威を痛烈に突き付ける出来事となった。
いまだ続く世界的な感染症の拡大や環境問題など、より強固な人類の結束が希求される時代。人間同士が命を奪い合う暴力の連鎖には、胸の痛みを禁じ得ない。戦火の一日も早い終息を祈り、平和構築への声を発し続けることを、決して止めてはならない。
総務省の人口推計によると、国内の戦後生まれの人口は、2019年(令和元年)10月時点で80%を超えている。戦争経験者の高齢化が進む今、当時を生きた方々の声を聞くことができる"最後の世代"として、その継承がますます重要となっている。
本紙の連載「いま願う 戦後77年」では、太平洋戦争の時代を生きた当事者や後継世代に当たる同志の体験に耳を傾け、不戦の世界の実現を願う"平和への叫び"を紙面にとどめてきた。
"玉砕の島"と呼ばれた、テニアン島の地上戦を生き延びた村上三郎さんは、なぜ戦争は起こるのかという質問に、こう答えてくれた。「他者より勝ろう、得してやろうという心が争いにつながる」。利己主義が生んだ、自国の繁栄だけを目指す生存競争と、その先に待っていた敗戦。当事者が赤裸々に語る記憶の数々は、遠い昔の歴史の一幕などではなく、これからを生きる人類が忘れてはならない教訓を示す、"道しるべ"であると確信する。
「戦争ほど、残酷なものはない。戦争ほど、悲惨なものはない」(小説『人間革命』第1巻「黎明」の章)
他者の生命を脅かす行為が許されることなど、決してあってはならない。池田先生が示した生命尊厳の哲理を、後継の弟子として、今こそ世界中に広げていく時だ。
「願わくは、我が弟子等、大願をおこせ」(新1895・全1561)。いかに時代が移り変わっても、一人の幸福のために生きる私たち仏法者の使命は変わらない。
戦後77年。世界の「終戦」が来る日を願い、平和社会の実現を声高らかに訴え続けていきたい。

☆平和への讃歌 世界の識者の行動と軌跡(上)
「この地球上から悲惨の二字をなくしたい」——第2代会長・戸田先生の悲願を、池田先生は自らの誓願として、世界を駆け巡ってきた。国内外の識者との語らいは、公式なものだけでも1600回を超える。ここでは、「平和への讃歌」と題し、池田先生と対談した世界各国の指導者・識者の平和への行動と軌跡を紹介する。

〈アルゼンチンの人権の闘士 エスキベル博士〉
◇「青年の連帯」に人類の希望
"もう黙ってはいられない!"——アルゼンチン・ラプラタ大学の教授だったペレス=エスキベル博士は1974年、人権団体「平和と正義のための奉仕」を設立した。
当時、中南米諸国は軍事政権の弾圧に苦しんでいた。博士は権利を奪われた人々の救済のために立ち上がった。
76年、アルゼンチンにも軍事政権が発足。国民の抵抗に対して、軍部政府は誘拐や拷問など、徹底した弾圧を続けた。83年までの7年間で、犠牲者は3万人以上にも達したといわれる。
77年、博士も逮捕される。連行され、飛行機に乗せられた。生きたまま上空から投げ捨てられる「死のフライト」である。だが、寸前で中止となり、その代わりに投獄された。
激しい拷問にも、博士は屈しなかった。身は不自由でも、心は決して、縛られなかった。
14カ月間の獄中闘争を貫き、78年に釈放。その後、博士の運動は大きく広がっていく。そして80年、博士はノーベル平和賞を受賞した。
95年12月、博士は池田先生と出会いを結び、2018年には、共同声明「世界の青年へ レジリエンスと希望の存在たれ!」を発表。その中で、こう呼び掛けている。
「人類がいかなる重大な試練に直面しようと、それに立ち向かう『青年の連帯』がある限り、希望は失われることはない」

〈アフリカの環境の母 マータイ博士〉
◇「未来」は「今」にあるのです
環境分野で初めてノーベル平和賞を受賞したワンガリ・マータイ博士。
ケニアで生まれ、青春時代、米国へ留学した。帰国後、祖国の自然は大きく姿を変えていた。
商業用の耕作地を広げるため、森林が伐採された。地滑りが頻発し、飲み水の水源が乏しくなった。博士は決断する——"木を植えよう"。
1977年6月5日、博士は仲間たちと共に、ナイロビ郊外のカムクンジ公園に7本の苗木を植えた。「グリーンベルト運動」のスタートである。
運動の輪が広がる一方で、博士は中傷を浴びせられ、投獄までされた。それでも、"理想の火"は消えなかった。
博士たちの合言葉は、「ハランベー」(みんなの力を合わせよう)。運動はアフリカ全土で延べ10万人が参加し、4000万本以上の植樹を推進した。
「グリーンベルト運動」は、自分の無力さを感じていた人たちの心に、行動を起こす勇気を植える運動でもあった。
「『未来』は、『今』にあるのです」——2005年2月、博士は池田先生との対談で語った。
「将来、実現したい何かがあるなら、今、そのために行動しなければなりません」
博士が広めた言葉「MOTTAINAI」は、SDGs(持続可能な開発目標)の推進にも影響を与えている。

〈インドネシア共和国 ワヒド元大統領〉
◇互いを尊重する対話の道を
インドネシアは、世界で最もイスラム教徒が多い国。大統領を務めたアブドゥルラフマン・ワヒド氏は、同国最大のイスラム団体の指導者でもあった。イスラム社会を代表する人物と、仏教指導者である池田先生との対談が実現した。2002年4月のことである。
「全宗教は、平和という一点で、必ず協調できる」——この点で意見の一致を見た2人は、「寛容の精神」について縦横無尽に語り合った。
先生が、イスラムとキリスト教の対話において、最も大切なことは、と尋ねると、氏は「互いに尊重し合うことです」と即座に返した。
実際に氏は、国内でキリスト教徒とイスラム教徒との衝突が発生した際、対話での解決を模索し、キリスト教指導者との会談を実現している。
氏の祖父もイスラム指導者だった。第2次世界大戦中、日本兵によって殴られ、右腕の自由を失った。だが、ワヒド氏の日本への姿勢は、親愛の情にあふれていた。日本から来た創価大学の学生を自宅に招いたことも。一人一人と握手を交わす姿には、人間と人間の交流を大切にする氏の真心が表れていた。
氏と池田先生は、文明や宗教などの差異を超えた「対話」の重要性を繰り返し語り合った。「たとえ希望や理想の光を失うような苦難の夜があっても」対話を、それでも対話を、と。

〈パグウォッシュ会議名誉会長 ロートブラット博士〉
◇戦争は人間を愚かな動物に
"人間性を心にとどめよ!"——ジョセフ・ロートブラット博士は1995年、ノーベル平和賞の受賞講演で、「ラッセル=アインシュタイン宣言」を通し、訴えた。
博士は、核兵器と戦争の根絶を呼び掛ける同宣言に、著名な科学者らと共に署名。核兵器廃絶を目指す科学者の連帯「パグウォッシュ会議」の中心者として、その生涯を平和闘争にささげた。
ポーランドで生まれ、2度の世界大戦の中を生きた。核物理学の研究に打ち込んだ博士を励まし、支えてくれた最愛の妻は、ナチスのホロコーストの犠牲者となった。
博士は、原爆開発を目指したアメリカの「マンハッタン計画」に参加。だが、ナチスが原爆製造を行っていない確証を得ると、途中で離脱した。スパイ容疑もかけられたが、核兵器開発の必要性に対する疑念と科学者としての良心が、博士を突き動かした。
戦争の残酷さ、科学者の責任の重大さを痛感した博士は、1989年10月、池田先生と最初の出会いを結んだ。
この時、博士は「『戦争』は人間を愚かな動物に変えてしまう力をもっている」「『野蛮』を憎んでいた人が、自ら『野蛮』な行為に走る。そこに戦争の『狂気』がある」と強調した。2人の対談集『地球平和への探究』は6言語に訳され、広く読み継がれている。