2022年8月29日月曜日

2022.08.29 わが友に贈る

◇今週のことば
「いよいよ道心堅固にして、
今度仏になり給え」
仏法入門は「幸福の門」。
多くの友と希望に燃えて
任用試験に挑みゆこう!
(新1606・全1184)
2022年8月29日

曾谷殿御返事 P1059
『命をば三千大千世界にても買はぬ物にて候』

【通解】
生命は三千大千世界をもっても買うことのできないものである。

名字の言 沖縄の発展に尽くした2代目県令・上杉茂憲 2022年8月29日
明治政府による琉球処分後の1881年、2代目沖縄県令に就いた上杉茂憲。山形・米沢藩最後の藩主だった彼は、県令としてわずか2年の任期で沖縄発展への足跡を残した▼就任後、県内をくまなく回った上杉は、困窮する人々の実態を目の当たりにし、政府に窮状を報告。粘り強く働き掛け、小学校設立の奨励や若者の本土留学など教育に力を入れた。道半ばで退任するが、やがて新聞社、銀行の創業者や政治家が誕生。彼の志を継ぐ者たちが近代沖縄の道を開いた(『上杉茂憲』祥伝社新書)▼1988年2月、沖縄を訪問した池田先生は「沖縄池田青年塾」の開所式に出席。福沢諭吉が論じた「自我作古(我より古をなす)」に言及した。未聞の分野で自らが原点となって道を築き、後進のための礎になるとの意だ▼この精神で広布草創を切り開いた同志の奮闘をたたえつつ、先生は青年たちに訴えた。「諸君もまた、万年にわたる妙法広布の先覚者である」「諸君から大河は始まる。"自分自身が原点である"との自覚と実践を」と▼万代の広布の流れから見れば、今を生きる私たちもまた草創の先覚者であり、大河の出発点である。希望と勝利の未来へ、皆が若々しい気概で未聞の歴史を開いていきたい。

寸鉄 2022年8月29日
大目的が確立してこそ中小の目的も明確に—牧口先生。師弟の大願へ前進
国際部の日。人格と語学で世界広布に献身する友次代開く世界市民と輝け
毅然として力強いのは民衆だけ—文豪ドストエフスキー。草の根の対話益々。堂々と語ろう
SDGsに積極的な企業5割超。"自分事"の意識が未来を創る。足元から
国連「核実験に反対する国際デー」。"絶対悪"との恩師の遺訓を我らが拡大

〈社説〉 2022・8・29 31日は「学生部の日」
◇信心の歓喜つかむ勇気の挑戦を
明後31日は「学生部の日」。本年は、その淵源となった1962年の池田先生による学生部の代表に対する「御義口伝講義」開始から60周年を迎える。英知の人材輩出へ、講義は約5年間続いた。
そして池田先生は、67年の学生部総会で沖縄の本土復帰提言を、68年の同総会では歴史的な日中提言を発表する。新時代の平和創出へ、学生部への期待がいかに大きいかを象徴する事実である。
昨日、各地で学生部教学実力試験が実施された。多くの友が御義口伝をはじめ、夏の教学研さんの成果を発揮したことだろう。
御義口伝には「『疑いなきを信と曰う』の釈、これを思うべし云々」(新1047・全751)と。"疑わない"のではなく、"疑いがない"ことを「信」というと説かれている。
"なぜ信仰が必要なのか"——学会2世、3世、4世にとって、学会活動は疑問の連続かもしれない。学生部では、同じような悩みに直面してきた先輩と、共に祈り、学び、実践する中で、さまざまな疑問を解きほぐしながら「信」を深めている。
昨年、東南アジアから四国へ留学してきた学生部員も学会2世。努力すれば祈る必要はないと思っていたが、留学先が地方都市になったことに不満を抱いていた。
心情を学生部の先輩に打ち明けると「今、ここにいるのは意味がある。題目根本に努力すれば、必ず使命の道をつかめるよ」と励まされた。彼は目先の課題だけでなく、"社会に貢献できる使命の道を見つけたい"と、真剣な唱題に挑戦。その中で、自身の学ぶ環境や縁する友人が、自分の成長にとって最高の存在だと感じ、「四国に来られて良かった」と心から思えるようになった。
この春には、学会の人間主義の思想に共感した学友が入会。今、日々の唱題を通して生き生きと変わる友人の姿と、互いの夢を祈り合える同志となれた喜びに、御義口伝の「『喜』とは、自他共に喜ぶことなり」(新1061・全761)の一節を実感している。
下半期を、弘教拡大と人材拡大で飾ろうと、広布に走る学生部。次代を担う一人一人が勇気の対話で友に寄り添い、「僕は信心でこんなに変われた」「私は学会活動で本当に成長できた」と、信心の歓喜と確信をつかめるように、温かなエールを送りたい。

☆いのちの賛歌 心に刻む一節 テーマ:介護に携わって
◇御文
『苦をば苦とさとり、楽をば楽とひらき、苦楽ともに思い合わせて南無妙法蓮華経とうちとなえいさせ給え。これあに自受法楽にあらずや。』(四条金吾殿御返事、新1554・全1143)

◇通解
苦を苦と覚り、楽を楽と開き、苦しくても楽しくても南無妙法蓮華経と唱えきっていきなさい。これこそ自受法楽ではないか。

◇苦楽を見下ろす境涯に 難病の母、認知症の父
若き池田先生が、山口県を舞台に弘教拡大の指揮を執った「山口開拓指導」。有田久子さん(58)=西山口牧口総県女性部長=の両親が創価学会に入会したのも、その仏縁の広がりから。以来、信心一筋。有田さんは親の背を見て師弟を学んできた。「そんな両親の介護で、悩む日が来るなんて……」
      ◇
有田さんは夫・忠彦さん(60)=支部長=を入会に導き、28歳で結婚。長男・一彦さん(27)=男子部員=を授かった。
2005年(平成17年)、未入会の義父を友人葬で見送ったことがきっかけで、義母は学会理解を深め、御本尊を受持した。2年後、義母の最期をみとる。
「それから間もなく、私の両親も70歳を超えていたので、同居を始めることになって。ちょうど、わが家を新築した頃でした」
家事を手助けしてもらえる。そんな期待もあったという。
「けれど、一緒に暮らし始めてすぐ、母の様子がおかしくなってきたんです。しょっちゅう、こけたり、物忘れが頻繁になったり」
病院を転々としたが、「認知症でしょう」と繰り返されるばかり。母の認知症状は次第に進行し、うつや幻覚などの症状も現れた。さらに、有田さんが学会活動から帰宅するたび、母から怒鳴られ、暴言を浴びせられるようにもなった。
「優しくて信心強盛だった母が、まるで別人のようで。暴言もそうですが、そんな母の姿を見るのが一番つらかったです」
有田さんが帰ると、家中が排せつ物だらけになっていたこともあったという。やがて母は、食事から下の世話まで、全面的な介護が必要になっていった。
「もう家族総出での介護でしたね」
その後、母は嚥下機能の低下により、胃ろうの手術を受けた。また、大学病院での検査を経て、大脳に強い萎縮が見られる難病の「大脳皮質基底核変性症」だと判明した。
暴言や幻覚といった症状が難病のせいだと分かり、「半分は安心した」と有田さん。とはいえ、「根本的な治療法はなく、進行すれば寝たきりにもなる。もう半分は、落ち込みました」と明かす。
医師とも相談し、在宅での介護は困難と判断されたため、入院させることになった。
そんな中、今度は父が心筋梗塞で倒れた。以来、父は入退院を繰り返す中、次第に認知症も進んでいった。
「二人は別々の病院に入院したので、着替えやらタオルやらを持って、毎日、あっち行ったりこっち行ったり」
退院した父を在宅で介護している間は、夜間の徘徊もあった。家族で捜し回り、血だらけの父を保護したことも。両親の介護に尽くしながら、有田さんは学会で総県の中心者として、広大な地域を同志の激励に走る日々。
文字通り、無我夢中だった。
「外でええこと言っても、家に帰ったら壮絶な状態。"しんどいな""なんでわが家ばっかり"って、思わず涙が込み上げた時、目に飛び込んだのが『苦をば苦とさとり……』という御書の一節でした」
苦しい時もうれしい時も、ありのまま妙法を唱え抜く。その先に、「自受法楽」(自ら法楽を受く)という、人生の一切を仏界の大境涯から悠々と見下ろしていけるような、強い自分自身を築いていける——。
信仰の醍醐味を示された御聖訓を拝して、有田さんは「介護も人生も、きれい事だけでは済まないのが現実。悩み、葛藤しながら、それでも信心を貫くから、本当の宿命転換ができる」と自らを鼓舞したという。「そう思ったら、苦労できること自体に感謝の心が少しずつ湧いて」
有田さんは、母を13年間、父を8年間、それぞれ介護した末に最期をみとった。
「あの経験があったからこそ、人の苦悩に心から同苦できるようになれた。私に信心を教えてくれた父母は、最後まで身をもって、信心の深さを教えてくれたんだと思います」
「とはいえ、現実には"いつまでこの状況が続くんだろう"って、何度も思いました。そのたびに御本尊に祈って、生命力をたぎらせて、目の前のことに精いっぱい尽くす。両親の介護に向き合ってきたようで、実は、自分自身の命に一番向き合ったのかもしれません」
学会草創期から広布に駆けてきた両親。
認知症を患う中でも、有田さんの父は毎日、唱題だけは欠かさなかったそうだ。
「夜中に起きてきて、『今日一日、池田先生・奥さま、お元気で!』って宣言して、朗々と唱題を始めるんです。『お父さん、もう先生・奥さまも寝る時間やけん』って言い聞かせましたけど。師と共に戦い抜いてきた"信心の闘魂"は衰え知らずでしたね」
両親の葬儀に参列した大勢の同志の姿を見て、改めて、信心一筋を貫いた親の生きざまが胸に迫ったという。
「そんな両親の世話ができて良かったなって。今では、感謝の気持ちでいっぱいです」
池田先生はつづっている。
「大いなる境涯の人は幸福である。広々とした心で、毎日を生き抜いていける。
強き境涯の人は幸せである。苦しみにも負けることなく、悠々と一生を楽しんでいける。
深き境涯の人は幸せである。人生の深き味わいをかみしめながら、永遠にも通じゆく有意義な価値の歴史をつくりゆくことができる。
清らかな境涯の人は幸せである。その人のまわりには、つねにさわやかな喜びが広がっていく。(中略)
こうした、生命の大境涯を建設することに、仏道修行の目的もある」(池田大作先生の指導選集〈上〉『幸福への指針』)
有田さんは取材の終わり際に話していた。
「両親の夫婦愛は最後まですごかったです。やっぱり、広宣流布のために一緒に戦った思い出というのは、心の奥底にしっかり刻まれるんでしょうね」

[教学コンパス]
"もっとやれることがあったのでは"。大切な人との死別に際し、そうした後悔が募ったという人は少なくないだろう。記者も親族をみとる経験の中で、例えようもない喪失感を抱いたことがある。
日蓮大聖人は伊豆流罪の赦免後、文永元年(1264年)、故郷の安房国(現在の千葉県南部)に足を運んで病床の母を見舞い、快癒を祈念。母の寿命を4年も延ばすことができた。それでも、大聖人は母を亡くした後、「母に先立たれた今になって、強い後悔の思いにかられています」(新2074・全1401、趣旨)と述べられている。もっと親孝行をしたかった——率直なお言葉に、大聖人の母を思う深いお心が伝わってくる。
御聖訓には「題目の光無間に至って即身成仏せしむ」(新991・全712)と仰せだ。私たちが唱える自行化他の題目は、必ず故人に届く。生死を超えて、共に妙法の光明に包まれる。この信心の実践を貫く中にこそ、「生も歓喜、死も歓喜」という大境涯を開きゆく、最高の追善があるのだ。