生命尊厳の思想広げる
粘り強い語らいこそ
平和を創る確かな道。
対立を連帯へと転じる
希望の対話を足元から。
妙法尼御前御返事 P1404
『日蓮幼少の時より仏法を学び候しが念願すらく人の寿命は無常なり、出る気は入る気を待つ事なし風の前の露尚譬えにあらず、かしこきもはかなきも老いたるも若きも定め無き習いなり、されば先臨終の事を習うて後に他事を習うべし』
【通解】
日蓮は幼少の時から仏法を学んできたが、念願したことは「人の寿命は無常である。出る息は入る息を待つ事がない。風の前の露というのは単なる譬えではない。賢い者も愚かな者も、老いた者も若い者も、いつどうなるかわからないのが世の常である。それゆえ、まず臨終のことを習って後に他のことを習おう」という事であった。
名字の言 原爆資料館に保管される"無言の語り部" 2022年8月6日
77年前の8月6日、原爆で広島の街は壊滅した。その廃虚に立ち、投下直後からがれきを拾い始めた人がいる。後に原爆資料館初代館長を務める科学者の長岡省吾氏だ▼氏は被爆の実態調査のため、石や瓦などを収集。原爆症を患い、周囲からは嘲笑されたが「原爆がどんなに恐ろしいものであったかを、世界中の、そして後世の人にわからせる」との信念に、やがて多くの人が作業に加わるようになる。がれきは今、"無言の語り部"として資料館に保管される(石井光太著『原爆 広島を復興させた人びと』集英社)▼過日、青年部主催の「被爆証言会」で80歳の女性部員が語っていた。「宿命を転換する信心に出あい、被爆者として立ち上がりました」と。紙芝居を用いて証言する模様は、学会公式サイトで動画配信されている▼池田先生は米国で開催中の「核兵器不拡散条約再検討会議」に寄せて、緊急提案を発表した。その末尾にこうある。「危機を危機だけで終わらせず、そこから立ち上がって新たな時代を切り開くことに、人間の真価はある」▼被爆者の血と涙に誓って、広島は平和都市"ヒロシマ"に生まれ変わった。過去は変えられなくとも、そこに意味を見いだすことから、新しい未来が創られる。
寸鉄 2022年8月6日
小説『新・人間革命』起稿・脱稿の日。創価の"精神の正史"繙き師と共に前へ
信越師弟誓願の日。広布の主役は"私"。自発能動の行動で新たな勝利劇を
御書「一句も妙法に結縁すれば、億劫にも失せず」身近な友から仏縁を拡大(新1105・全793)
詐欺のサイト数、2年で6倍と。大手企業を騙り情報奪う等。重ねて警戒
"紳士用日傘"需要増加。遮熱効果など高い機能性の商品も。猛暑対策賢く
☆ONE GOSHO この一節とともに! 三三蔵祈雨事
◇今こそ友情の連帯を!
夏——絆を強め、励ましの連帯を広げる絶好の機会が到来! 共に幸福の道を歩む「善知識」について深めたい。
◇御文
『善知識に値うことが第一のかたきことなり。されば、仏は善知識に値うことをば、一眼のかめの浮き木に入り、梵天よりいとを下して大地のはりのめに入るにたとえ給えり。』(新1940・全1468)
◇通解
善知識にあうことが、最も難しいことである。それゆえ、仏は善知識にあうことを、一眼の亀が浮き木に入るようなものであり、梵天より糸を下げて大地に置いた針の目に通すようなものであると、譬えられている。
◇背景
本抄は、日蓮大聖人が建治元年(1275年)6月に身延で著され、駿河国(現在の静岡県中央部)の富士上方西山郷に住む西山殿に送られた。
当時は、大聖人が予言した他国侵逼難(外国からの侵略)が的中し(文永の役)、幕府と朝廷は、有力寺社等に蒙古調伏の祈とうを命じていた。題号の「三三蔵」とは、中国真言宗の善無畏、金剛智、不空という3人の三蔵(三蔵法師の略。仏典に精通した人)のこと。三三蔵の祈とうが災難をもたらした事実を挙げ、真言宗で国の安泰を祈とうすれば国は滅ぶと断じられている。そして、社会が騒然とした中、成仏のためには「善知識」を求め抜く信心が大切であることを教えられている。
◇解説
「善知識」とは、仏法を教え仏道に導いてくれる人を意味する。本抄の冒頭で日蓮大聖人は、木を植える場合、大風が吹いても、強い添え木を施せば倒れないとの譬えを用いて、「支えてくれる人の存在」の大切さを教えられている。
仏道修行において、その重要性はなおさらである。成仏を妨げようと三障四魔が次々と競い起こる中、生涯にわたって信心を貫き通すためには、励まし支えてくれる師匠や同志の存在が欠かせない。ゆえに大聖人は「仏になるみちは善知識にはすぎず」(新1940・全1468)と仰せなのだ。
その一方で、今回の研さん範囲にもあるように、末法において、善知識に出会うことは非常に難しい。本抄では、「一つ眼の亀が、大海で浮き木の穴に入る」「天上(梵天)から糸を下げて、大地に置いた針の穴に通す」との譬えを示されている。
ここで言う「一つ眼の亀」とは、仏典に説かれる「盲亀浮木の譬え」に登場する亀である。深海にいる眼が一つしかない亀は、苦しみから逃れるため、自分の体に合う穴の空いた「栴檀」という香りの良い浮き木に巡り合いたいと常に願っていた。しかし海面に浮上できるのは1000年に一度だけ。広大な海で、条件にかなった浮き木に遇うことは極めてまれである。たとえ見つけたとしても、亀が自力でそこへたどり着くことは非常に難しい——。
このように善知識に巡り合うことは、奇跡的なことである。だからこそ仏道を志す人は、自分を正しい方向に導いてくれる善知識を、主体的に求めていくべきなのである。
さらに大聖人は、善知識を見極める基準について、理証・文証・現証の三証を挙げる。つまり、その宗教の主張が、道理にかなっているかどうか(=理証)。その教義が、よりどころとなる経文の上で裏付けがあるかどうか(=文証)。そして、教義に基づいて信仰を実践し、現実生活、実社会において結果が現れるかどうか(=現証)、ということである。
中でも大聖人は、「道理・証文よりも現証にはすぎず」(新1941・全1468)と、現証の重要性を強調され、実際に経文の通りに実践し、正法を弘めている大聖人こそが、末法における善知識であると示される。
現代では、その大聖人の志を継ぎ、世界広布の大道を開いてきた創価学会こそ、最高の善知識の集いといえる。
池田先生は語っている。
「学会こそ、分断と孤立の不安をかかえる社会にあって、『人間共和の安全地帯』です。そして、その友情の連帯を広げる主役が、青年部にほかなりません。どこまでも善知識を求めよ! そして、われわれ自身も世界の人々の善知識となって、尊き友情を結んでいこう!」
今、世界は激動の時代を迎えている。コロナ禍や紛争で混迷する現代社会だからこそ、確固たる支えを必要としている。
社会の荒波に襲われ、倒れそうになった時に、支え励ましてくれる師匠や同志。その慈愛のスクラムに巡り合えた喜びを胸に、自らもまた、目の前の友の善知識となるべく、心からの励ましを送っていきたい。