友情は人生の宝だ。
親戚や旧友等とも
心温まる交流を!
電話・手紙なども活用し
励ましを届けよう!
寺泊御書 P953
『日蓮此の経文に当れり汝等何ぞ此の経文に入らざる』
【通解】
日蓮は、この(勧持品の)文の通り、悪口罵詈されている。汝らは、なぜ、この経文の通りになっていないのか。
【先生の指導から】
大聖人は、佐渡流罪等の大難にあわれた。そのとき、大聖人が難にあうのは、弘教のやり方が間違っているからだと、もっともらしく非難する者たちがいた。
それに対して、大聖人は、先ほどの勧持品の文を引きながら、こう述べておられる。
(中略)
私は、経文のとおりになっている。お前たちは、なぜ、悪口を言われないのか。なぜ、怨嫉され、難にあわないのか。お前たちは、経文のとおりに戦っていないからではないのか─こう烈々と叱咤されているのである。
名字の言 世界聖教会館の展示室を見学した夫婦が語ったこと 2022年8月16日
東京・信濃町の世界聖教会館に展示室がある。来館記念のオリジナル紙面を作成できるほか、本紙の配達に携わる「無冠の友」を顕彰するコーナーも▼先日、展示室で池田先生が撮影した雪柳の写真とそのエッセーに見入る夫婦がいた。エッセーの中に「悩みがあるから、心は育つ。うんと悩んだ日々こそ、一番不幸だと思った日こそ、あとから振り返ると、一番かけがえのない日々だったとわかるものだ」との言葉を見つけた夫が妻に言った。「その通りだ」▼数々の労苦を乗り越えてきたのだろう。夫は野菜農家。今年は円安の加速などが原因で肥料や資材、燃料の価格高騰に加え、野菜の単価が思うように上がらない状況が続く。「それでも絶対に負けません。信心根本に現状を打開し、この地で農業をやり抜きます」。道の駅やネットでの新規販売も手掛け、活路を開く▼池田先生は先のエッセーで「雪柳は動かない。雨の日も、寒風の日も、じっと自分の場所で根を張って頑張っている」「人間も、魂の根を張ったところが『自分の故郷』になる」と▼私たちが、友に届ける最大の贈り物は「言葉」——相手の幸福と勝利を祈る心を結晶させた一言一言だろう。言葉と生きていく本紙の使命もここにある。
寸鉄 2022年8月16日
真剣勝負で祈れば必ず功徳となって現れる—戸田先生。確信の題目で飛躍
創価班・牙城会メンバーが折伏弘教に率先の汗。希望と正義の哲理を語れ
交友豊かな高齢者ほど生きがい実感—調査。多宝の友が輝く秘訣はここに
平日と休日の睡眠の差は不調の原因に—専門家。賢明なリズムで日々前進
野菜をよく食べる人は認知症のリスク低く—研究 聡明な食習慣が健康の源
☆平和への讃歌 世界の識者の行動と軌跡(下)
池田先生は国家や民族、イデオロギーなどの違いを超え、世界の指導者や識者と文明間・宗教間対話を進めてきた。こうした行動に、ハーバード大学のドゥ・ウェイミン博士は、「現代世界における最も熟達した対話の達人」と称賛を惜しまない。ここでは、前回に続いて、先生と対談した世界各国の指導者・識者の平和への行動と軌跡を紹介する。
〈イギリスの歴史学者 トインビー博士〉
◇戦争が生むのは新たな戦争
歴史学者のアーノルド・J・トインビー博士。自宅の暖炉の飾り棚に、十数点の写真が置かれていた。写っているのは、第1次世界大戦で戦死した学友たちである。
彼らは「戦争を終えるための戦争」と信じて、若い命を犠牲にした。だが、その戦争が引き金となり、第2次世界大戦が起こった。第1次世界大戦が始まった1914年、博士は一つの結論に達する。——「戦争は罪悪である」
博士にとって「戦争」は、歴史学の研究の対象である前に、国際間の冷酷な勢力争いゲームにすぎなかった。ゆえに、戦争に対して絶対反対の姿勢を鮮明にした。
著書『回想録』(社会思想社)に、こう記している。「戦争を廃止する方向に向かって私の生きている間にできるかぎりのことをする」
1972年と73年に行われた池田先生との対談は、「戦争」が主要なテーマの一つとなった。博士は強調した。
「戦争という手段による解決の代償は、常に広範な死と荒廃でした」
「そこから新たな問題が惹き起こされ、それらの問題はしばしば次の戦争によって処理され、そこからさらに多くの戦争が誘発されてきた」
戦争から生まれるのは新たな戦争であり、さらに多くの犠牲者——これが、「20世紀最大の歴史家」と称された人物が見る戦争の本質である。
〈南アフリカ共和国 マンデラ元大統領〉
◇「人間」の尊厳をかけた戦い
1990年10月、池田先生は、東京の旧聖教新聞本社でネルソン・マンデラ氏を迎え、固い握手を交わした。氏は笑みをたたえ応じた。
「日本に行ったら、ぜひお会いしなければと思っていました」
反アパルトヘイト(人種隔離)運動に身を投じ、64年、国家反逆罪で終身刑の判決を受ける。
氏は獄中で、白人の言葉であるアフリカーンス語を習得する。白人の歴史や文学も学んだ。白人の"心"を知るには、言葉や文化を知る必要があると考えたからだ。
機会を見つけては、白人看守に話し掛けた。やがて、看守たちの方が、その不屈さに敬意を抱くようになる。氏は人格の力をもって、黒人への偏見に満ちた看守たちとの融和を実現したのだ。氏は述べている。
「人の誠実さというのは、誠実な人間にこそ引き出せる」(『信念に生きる』英治出版)
獄中生活は27年半にも及んだ。だが、全人種が仲良く暮らす「虹の国」の建設という理想を手放さなかった。90年2月11日に釈放されると、その実現へ向け、本格的な闘争を開始した。
池田先生は折々に、"マンデラ氏に学べ!"と呼び掛けてきた。氏の人権闘争について、こう記している。「私たち日本人もふくめた、すべての『人間』の尊厳をかけた戦いであった」
〈北アイルランドの平和活動家 ベティ・ウィリアムズ氏〉
◇憎悪の連鎖を断つ慈愛の心
1976年度のノーベル平和賞は、市民に贈られた。その共同受賞者の一人が、ベティ・ウィリアムズ氏である。
北アイルランドは長年、領土や宗教などの問題が絡み合い、紛争が続いた。60年代以降、その衝突は激化していた。
76年8月、氏は娘を車に乗せ、北アイルランドの中心地を走っていた。突然、市街地で銃撃戦が始まり、1台の車が暴走。母子連れに突っ込み、何の罪もない幼子3人の命が失われた。
この悲劇が、氏を平和の闘士へと変えた。
氏は、平和を求める署名運動を即座に開始。惨劇からわずか2日で、6000もの署名が集まった。その後、署名運動は「平和の行進」に発展する。あの日、命を落とした子たちの墓地まで、対立していた住民同士が手を取り合って行進するなど、運動は大きな広がりを見せた。
2006年11月、池田先生との対談で、氏は「いつの時代でも、どんなに嘘で塗り固めても、必ず、嘘は剥ぎ取られ、真実は浮かび上がってくるものです」と強調した。
さらに、先生が憎悪と復讐の連鎖を断ち切るため、何が必要かを尋ねると、氏は「相手に屈服しないで、なおかつ慈愛の心を示すことではないでしょうか」と応じた。
少しでも良い。平和のために前進を!——その大切さを確認する対談となった。
〈チリ共和国 エイルウィン元大統領〉
◇政治は人々のためにこそある
「彼の外見的な特徴といえば、厳しい現実の試練も消し去れなかった微笑であろう」
チリの新聞がそう書いた「彼」——軍政に声を上げたパトリシオ・エイルウィン氏である。
祖国に軍政の苦い歴史が刻まれたのは、1973年9月11日。ピノチェト将軍がクーデターを起こし、軍政批判を疑われた人は逮捕された。
だが、民衆は知恵を巡らせて抵抗した。決められたタイミングで一斉に鍋をたたく女性がいた。ベートーベンの"歓喜の歌"を口ずさむ人もいた。
エイルウィン氏は、民主化を目指す政党連合「ノーのための司令部」の代表として戦った。軍政に「シー(イエス)」か「ノー」か。氏は、わずかな時間のテレビ広告で「真の民主主義」を呼び掛けるなど、民衆に「ノー」を訴え抜いた。
迎えた88年、国民投票で「ノー」は大勝利を収めた。90年、大統領に就任した氏は、16年半の軍政支配に終止符を打ち、平和裏に民政移管を果たす。
92年11月、氏は池田先生と会見。15分ほどの予定だったが、先生が「民衆に奉仕する『民主のリーダー像』」に触れると、氏は「もう少し続けさせてください」と述べ、「政治とは人々のため、公益のためにこそある」と。
45分に及んだ語らいは終始、氏のトレードマークである"エイルウィン・スマイル"が弾けた。