2022年7月21日木曜日

2022.07.21 わが友に贈る

飛躍の夏に挑む
受験生よ頑張れ!
"一日一日が勝負"と
ベストを尽くしていく。
その持続に栄冠は輝く!

新池御書 P1443
『相構へていかにしても此の度此の経を能く信じて命終の時千仏の迎いに預り霊山浄土に走りまいり自受法楽すべし、信心弱くして成仏ののびん時某をうらみさせ給ふな』

【通解】
なんとしても、このたびの人生では、この経をよく信じて、臨終の時は千仏の迎えを受け、霊山浄土にすみやかに参り、みずから法楽を受けるべきである。
信心が弱くて成仏が延びた時に、私を恨んではなりません。

名字の言 決心する限り、必ず前途がある 2022年7月21日
中国の思想家・魯迅は、人間の可能性を信じ抜く人だった。厦門大学に「平民学校」(貧しい労働者や農民の子のための学校)がつくられた時のこと。子どもらを見下す権威的な教授もいたが、魯迅は違った▼開校式で彼は訴える。「あなたがたの貧しいのはお金だけです。聡明さと知恵ではありません」「決心するかぎり、奮闘するかぎり、かならず成功し、かならず前途がある」。皆の心に希望がともされ、会場は嵐のような拍手で揺れたという(石一歌著『魯迅の生涯』東方書店、金子二郎他訳)▼池田先生が指揮した昭和31年の「大阪の戦い」。当時、病苦や経済苦にあえぐ友が多くいた。周囲が反対する中、信心する人も。そうした人々の中に先生は飛び込んで、共に祈り、御書を拝し、座談の輪を広げた。一人一人の命に"希望の灯"をともし、歓喜の旋風を巻き起こした▼戦いに参加した友は述懐する。「先生は、どんな人とも同じ目線に立って語り、同苦し、広布の使命を気付かせてくださった。だから"一緒に頑張ろう!"と奮い立てた」▼世代や立場を超えて心を結び、師と、同志と共に進む。この連帯が、どれほど多くの庶民の人生を勝ち開いてきたことか。学会は"校舎なき総合大学"である。

寸鉄 2022年7月21日
師子の子は鍛えれば鍛えるほど逞しく—戸田先生 青年よ行学錬磨の日々を
「人の心かたければ、神のまぼり必ずつよし」御書。苦難の時こそ祈りを強く(新1689・全1220)
あらゆる物に宝石が隠されている—発明王エジソン。皆が人材と確信し共々に成長
20歳未満のゲーム課金の問題急増と。親子で話し規則決めを。未然に防止
携帯等の「ながら運転」は危険。自転車でも自動車でも事故発生。油断大敵

〈社説〉 2022・7・21 きょう「水滸の日」
◇広宣流布の闘魂を受け継ぐ一人に
きょうは「水滸の日」。1953年(昭和28年)7月21日、男子部の人材グループ「水滸会」が新出発した日である。
なぜ新出発なのか。前年の12月、第2代会長・戸田城聖先生のもとに結成され、会合を重ねていたが、その中で先生の話をただ聞いていればいいという安易な姿勢の者が現れてきた。それを察した先生は激怒し、席を立ってしまう。
メンバーの一人、若き池田大作先生は日記に記した。「夜、水滸会。先生、ひどく怒らる。我等悪し。全く、魂なく、意気地なきことを反省する」「この転換は、信心。信心の力以外に、解決と前進の道なし」(53年6月16日)
水滸会は何のために——必死の唱題と思索の中、池田先生は三つの誓いからなる「宣誓」を戸田先生に提出する。そこには「御本尊に対する誓い」「師匠に対する誓い」「会員同志の誓い」がうたわれ、師の心をわが心として、広宣流布の実現へ不惜身命で戦う決意が込められていた。それを見た戸田先生の様子が小説『人間革命』第7巻「水滸の誓」にこうある。「相変わらず戸田は厳しかった。しかし、伸一の申し出が『宣誓』という決意となって固まったことを、心では喜んでいるようだった」
仏法の上からは全員が自ら広布を誓って生まれてきた地涌の菩薩である。ゆえに誰かに頼まれたからやるのではない。広宣流布は、どこまでも誓願の実践であり、自発能動で立ち上がるものだ。この原点となる「宣誓」が発表されたのが「水滸の日」の歴史である。
水滸会は以後、3年にわたり、内外の名作文学を教材に行われ、戸田先生亡き後も、池田先生のもとで開催。『人間革命』『新・人間革命』には、折々の水滸会での指導がつづられ、現代の世界の青年たちへの貴重な指針となっている。
全30巻におよぶ小説『新・人間革命』の最終章のタイトルは「誓願」である。その最後の部分には水滸会の指導が引かれている。
「私は、戸田先生が『水滸会』の会合の折、こう言われたことが忘れられない。『中核の青年がいれば、いな、一人の本物の弟子がいれば、広宣流布は断じてできる』。その『一人』とは誰であったか」「私は"その一人こそ、自分であった"との誇りと自負をもっています」。われ一人立つ——創価の師弟に脈打つ広宣流布の闘魂を受け継ぐ誓いの日としたい。

☆大慈悲の心音 門下への便り 第5回 日眼女
四条金吾の妻である日眼女は、夫と共に大聖人をお守りし、さまざまな苦難に屈せずに、師が立正安国の大闘争を繰り広げられた鎌倉の地で、純真な信仰を貫いた女性門下です。
日眼女が待望の子どもを身ごもったときには、大聖人は心から喜ばれ、「玉のような子が生まれるでしょう」(新1510・全1109、通解)と、激励のお手紙を送られています。
大聖人が佐渡へ流罪されると、多くの門下も弾圧に遭い、信心に疑いを起こして退転していきました。その中で金吾夫妻は、佐渡へ御供養の品々を送ったり、金吾自身が佐渡を訪れたりして、赤誠を尽くしました。
文永9年(1272年)に日眼女へ宛てて認められた「同生同名御書」では、夫をはるばる佐渡へ送り出した、日眼女の信心を最大に称賛されています。
文永11年(74年)、金吾は主君を折伏して不興を買い、同僚からもさまざまな圧迫を受けるようになります。日眼女の周囲にも、法華経の信仰に対する理解が不十分で、距離を置くようになった者がいたかもしれません。
そんな彼女に対して大聖人は、正法に無知な多くの人々にどれほど憎まれようとも、毅然たる信心を貫いて、諸仏・諸天に大切な人だと思われるならば、むしろ大いなる喜びではないか、と渾身の励ましを送られています。
けなげに信心に励み、夫を支え続ける日眼女を、大聖人は「日本第一の女人なり」(新1543・全1135)と称賛されています。

◇全ての奮闘が無量無辺の福徳に
『おのおの、わずかの御身と生まれて、鎌倉にいながら、人目をもはばからず、命をもおしまず、法華経を御信用あること、ただ事ともおぼえず。』(同生同名御書、新1518・全1115)

広宣流布のために、逆境にありながら、身命を惜しまず戦い抜く功徳がどれほどのものか。
"ただごとではない"との御本仏の御断言の通り、必ずや無量無辺の福徳となって自身を荘厳することは疑いありません。
大聖人がこのお手紙を送られた当時、鎌倉では極楽寺良観ら諸宗の悪僧らに唆された幕府要人によって、大聖人門下に激しい迫害が及んでいました。二月騒動(北条一族の内乱)による混乱もあったと考えられます。
お手紙では、そうした苦境に直面する中で、夫を佐渡へと送り出した日眼女を最大にたたえられています。
「このような乱れた世に、この殿(金吾)を佐渡の地まで遣わされた、あなたの真心は大地よりも厚いのです。必ず地神も知っていることでしょう。また、その真心は虚空よりも高いのです。きっと梵天・帝釈も知られていることでしょう」(新1519・全1115、通解)
長引くコロナ禍、厳しい経済状況など、乱れた世の中で、自他共の幸福のため、立正安国のために行動する友の真心は"ただごと"ではありません。「すでに天も知っていらっしゃることであろう」(同)と仰せの通り、人知れぬ奮闘も一切が必ず福徳となって輝きます。師と共に、偉大な広布の歴史の一ページを、今日もつづっていきましょう。

◇一切を動かす"師子吼の題目"を
『譬えば、頭をふればかみゆるぐ。心はたらけば身うごく。大風吹けば草木しずかならず。大地うごけば大海さわがし。教主釈尊をうごかし奉れば、ゆるがぬ草木やあるべき、さわがぬ水やあるべき。』(日眼女造立釈迦仏供養事、新1610・全1187)

"必ず勝つ!"——広布も、人生も、分厚い困難の壁を突き破り、勝利を開く決め手は、大宇宙をも揺り動かすような、妙法の強盛な祈りにあります。
当時、人々が忌避する厄年に当たっていた日眼女に、人生勝利の要諦を御教示された一節です。
頭を振れば髪が揺れる。大地が動けば大海が荒れる——こうした譬えを通して、「教主釈尊」という根幹を揺り動かせば、諸天善神などの一切を動かしていくことができると教えられています。
ここでいう「教主釈尊」とは、宇宙と生命を貫く根源の一法である南無妙法蓮華経と一体の仏のことです。"教主釈尊を動かす"とは、私たちの実践でいえば、御本尊を深く信じ、仏の大生命力を涌現させていくことです。
池田先生はつづっています。
「勝敗の分かれ目の時こそ題目だ。仏菩薩も、梵天・帝釈も、わが身に『入其身(其の身に入る)』させるのだ。信心が強ければ、周囲が自分の幸福の力になる。善の味方になる」
"自分に何ができるのか""今さらもう遅い"などといった無力感や諦めの命をたたき出し、絶対勝利の「師子吼の題目」に徹する時、いかなる状況も変えていけるのです。