仏法は希望の哲学。
毎日少しずつでも
御聖訓を拝し
確固たる自分を築こう!
勝利の人生のために!
五人所破抄 P1613
『西天の仏法東漸の時既に梵音を飜じて倭漢に伝うるが如く本朝の聖語も広宣の日は亦仮字を訳して梵震に通ず可し』
【通解】
インドの仏法が次第に東方につたわった時、すでに梵語を翻訳して中国・日本に伝えられたのと同様に、日本の大聖人の金言も広宣流布する時には、また仮名文字を翻訳して、インド・中国に流通すべきである。
名字の言 「一人」に寄り添い、「一人」の幸福のために 2022年7月15日
日蓮大聖人のもとに、富木常忍が母を亡くした報告に訪れた。常忍の夫人がずっと献身的に介護してくれたという。それを聞かれた大聖人は、すぐさま夫人宛てに筆を執られた。「ご主人が『母の臨終が安らかだったことと、あなたが手厚く看病してくれた真心は、いつまでも忘れられない』と喜んでおられましたよ」(新1316・全975、趣意)▼常忍は鎌倉幕府の御家人に仕える武士。妻への日頃の感謝を素直に示せずにいた。そんな夫の心の内を伝えてもらった夫人は、どれほどうれしかったか。夫妻のために心を砕かれた大聖人のご配慮のこまやかさに感動する▼大聖人が門下にしたためたお手紙を拝すると、一人一人が悩みや試練を乗り越えゆくよう、人生相談や生活指導があり、時には弱気を打ち破る激励も。現実に即した具体的なご指南が多い▼仏教学者の中村元博士は言う。「『法華経』が特殊な哲学を述べていないという点に、かえってこの経典の重大な哲学的立場を読み取ることができる」(『インド思想の諸問題』春秋社)▼仏法は、人間を離れ、実生活を離れた理論などではない。現実に生きる「一人」に寄り添い、「一人」の幸福のために祈り尽くす振る舞いこそ、仏法の真髄である。
寸鉄 2022年7月15日
「幸福の第一条件は健康」牧口先生。張りのある勤行で今日も活力を満々と
池田先生の東北初訪問の日。青葉の誓いも新たに広布旅。励まし拡大更に
「心の財第一なり」御書 信心で築く福徳は壊されない。多宝の同志が証明(新1596・全1173)
書類の廃棄は常に「捨て方」を意識。情報管理は現代の社会で益々重要に
いよいよ夏本番へ。水の事故に注意。子どもの水遊びなどは大人が一緒に
〈社説〉 2022・7・15 15日を中心に追善の祈りを
◇「深き生命の次元で」共に歩む
「霊山浄土に旅立つ」とは、どういったことでしょうか——。
先日、読者から質問のはがきを頂いた。近しい方を亡くされたのだろうか。
身近な人と死別して悲嘆に暮れる人を支える「グリーフケア」を研究してきた、東京大学名誉教授の島薗進氏は、「死んだ人は、残された人にとっては、ある意味ではたいへんリアルに存在している」(『グリーフケアの時代』弘文堂)という。便りを頂いた読者の心情に思いをはせつつ考えたい。
霊山とは、法華経の説法が行われたとされる古代インド・マガダ国の霊鷲山を指す。その仏法上の意義から、久遠の釈尊が常住して法華経を説き続ける浄土とされる。それは、永遠に仏が働く宇宙そのものともいえる。
私たちにとって、亡くなった人が「霊山浄土に旅立つ」とは、インドの霊鷲山や、西方極楽浄土などの別世界に行くことではない。
日蓮大聖人の仏法では、生と死は断絶したものではなく、永遠に生と死を繰り返していくという「三世の生命」を説く。戸田先生はその生命観から、「われわれの生命は、死後、大宇宙に溶け込むんだ」と表現された。
大聖人は、光日尼の最愛のわが子・弥四郎を失った悲しみに寄り添うように、「今、光日上人は、わが子を思うあまり法華経の行者となられました。母と子は必ず共に霊山浄土に参ることができるでしょう。その時のご対面はどんなにかうれしいことでしょう」(新1267・全934、通解)と仰せになられた。
池田先生は、「『霊山浄土』は、信心を貫き通して、一生成仏を果たした人が、等しく到達できる大境涯の仏の世界である。したがって、そこでは、深き生命の次元で、師弟が出会い、親子・夫婦・兄弟が出会い、わが同志たちが出会うことができる」と語っている。
創価学会では例年、お盆の7月15日(地域によっては旧盆の8月15日)を中心に「諸精霊追善勤行法要」を行い、亡くなられた家族や同志の福徳と安穏を祈念してきた。今年も感染防止の観点から、各会館等では行わず、各家庭で故人の冥福を祈る。
信心に励むことは「深き生命の次元で」亡き家族や同志と共に歩んでいくことになる——。そう確信し、広布への誓いを新たに前進したい。
☆輝きの瞬間 7月の広布史
◇1979年7月 「正義」の神奈川を舞台に
「詩人は/海を見ていた/埠頭に立って/夜明けを待った」——池田先生が1988年6月に、神奈川の友に贈った長編詩「正義の旗 平和の心」の冒頭である。
先生は神奈川で、何度も海を見つめてきた。第3代会長を辞任した79年も、太平洋につながる海を望みつつ、同志を励まし、広布新時代の夜明けを開いた。
当時、宗門の悪僧らは先生に、"会合で指導してはいけない"などと制約をつけた。だが、先生の行動は、小賢しい邪知に縛られることなどなかった。広布功労の友の激励を開始した。
神奈川でも、数多くの功労者のもとへ。79年7月2日には、横浜市金沢区の同志宅を訪問した。
「やあ、来たよ!」と、先生は家族一人一人と握手を交わし、懇談。駆け付けてきた、かつての文京支部保土ケ谷地区のメンバーや近隣の友にも励ましを送った。
第1次宗門事件の嵐の中で、功労者の激励とともに、池田先生が力を注いだのは、世界の識者との語らいだった。神奈川文化会館でも、海外の文化人や大学教授らと会談を重ねている。
7月13日には同会館で、世界詩歌協会を設立したインドの詩人・スリニバス博士と初めての出会いを結んだ。2人の詩人は、光輝満つ横浜の海を見つめながら、縦横無尽に語り合った。
語らいの途中、博士が突然、英訳された先生の詩を暗唱する場面もあった。それほど、博士は先生の詩に感動し、神奈川での出会いで先生の人格に魅了された。
神奈川での対談から、2年後の81年、博士が事務総長を務める世界芸術文化アカデミーは、先生に「桂冠詩人」の称号を贈った。
かつて池田先生は詠んだ。「真の詩心とは/正義の闘魂の異名なるか」。学会が最大の苦境にあった時、先生が不屈の闘争劇を繰り広げた舞台こそ「正義」の神奈川であった。
その魂の原点は今、師弟の大叙事詩として、同志の心の中に深く刻まれている。
◇1967年7月10日 広布の堅塁・中部たれ
「いざや起て いざや築けと 金の城 中部の堅塁 丈夫勇みて」
1957年2月、池田先生は、中部の発展を展望し、一首の和歌を戸田先生にささげた。中部の友の合言葉「堅塁」の淵源である。
この月、愛知の豊橋地区が前月に続き、全国一の弘教を成し遂げた。恩師は即座に返歌を認めた。
「いざや征け 仏の軍は 恐れなく 中部の堅塁 立つは楽しき」。中部に難攻不落の広布城を築くことは、若き池田先生の恩師への誓いだった。
それから10年後の67年7月10日、池田先生は、愛知・名古屋市の金山体育館(当時)で開かれた中部本部幹部大会に出席。「広布の堅塁・中部たれ」との指針を贈った。この日は後に「愛知の日」となった。席上、先生は訴えた。
「中部とは、中心部ということです。まさに現実問題として、日本の中心であり、世界の中心となるわけであります」
この頃、日本は高度経済成長の真っただ中。中部地域は東海道新幹線や高速道路などの交通網が整えられ、日本の産業・経済を担う中心地となっていくことが期待されていた。
先生は中部こそ、最も模範的な立正安国、広宣流布の仏国土でなければならないと強調。さらに、万感の思いを語った。
「日本の、また世界の広宣流布といっても、詮ずるところは、この中部が、画竜点睛となります」
渾身の40分間にわたるスピーチ。その一言一句に、"中部こそ広布を決する急所"との期待があふれていた。大会の最後、先生は扇子を手にした。1万人の参加者の歌声が場内に響いた。
「堅塁」の「堅」の字には、どんな試練にも揺るがない「堅固」、どんな苦難をも耐え抜く「堅忍」、どんな変化にも勝ち抜く「堅実」という意義がある。
師が指針を示した、あの「7月10日」から55周年。進む道がどんなに険しくとも、断じて広布勝利の"金星"を!——友の闘魂が、いよいよ燃える。
◇1967年7月9日 常に先駆の九州たれ
本州の南岸に停滞していた梅雨前線の活発な活動が続いていた。1967年7月9日、福岡にも猛烈な雨が降り続いた。豪雨は、約1万2000人の九州の友の熱き求道心を燃え立たせた。
この日、池田先生が出席し、福岡スポーツセンター(当時)で九州本部幹部大会が行われた。大会が幕を開ける頃、諸天が寿ぐかのように雨はやみ、青空がのぞき始めた。先生は「九州の祈りが届いたね」と語った。
同センターは、60年5月29日、先生が第3代会長就任後に初めて九州を訪問した折、総支部幹部会が開催された会場である。先生は幹部会で、「東洋広布の先駆たれ」と力説した。
総支部幹部会から5カ月後の10月2日、先生は初の海外平和旅へ。この月、福岡支部(当時)は全国一の弘教を達成する。福岡は全国の先駆を切り、師の世界広布の第一歩を、広布拡大の証しで荘厳したのだ。
池田先生の九州に寄せる変わらぬ思いは「先駆」である。九州本部幹部大会では、「常に先駆の九州たれ」との指針が発表された。
席上、先生は"皆さんの、その決意、自覚、戦いが、日本を守り、世界を救う道となる"と述べ、"「九州ここにあり」という先駆の模範を"と呼び掛けた。さらに、「東洋広布の歌」の指揮を執り、友の心を鼓舞した。
永遠の指針が示されてから50周年の佳節を迎えた2017年。7月3日から、小説『新・人間革命』第30巻〈上〉「雄飛」の章に、1980年の九州の広布史がつづられ始めた。第1次宗門事件の渦中、「反転攻勢の助走」は九州から開始された。
2018年1月、九州広布65周年記念の代表幹部会が九州池田講堂で行われた。池田先生は万感の思いをメッセージに記した。
「わが大九州は、これからも創価の三代と不二の心で、全世界の『地涌の拡大』の『さきがけ』を頼みます。今再び、私は全幅の信頼を込めて『永遠に先駆の大九州たれ!』と叫びたいのであります」
◇1973年7月1日 鉄桶の団結・埼玉
埼玉の「鉄桶の団結」との永遠の指針が示されたのは、1973年7月1日、東京・信濃町で行われた埼玉最高会議の席上だ。
「こんにちは! みんな、元気かい」——30人ほどの参加者が振り返った。池田先生が会場の後方から入場したのだ。そのまま後ろに座り、会議は懇談的に始まった。
東京の隣県として人口が急増していた埼玉。先生は、埼玉が信心の上でも模範的な天地として、東京、全国を牽引しゆくことに期待を寄せた。そして、そのためにも、「埼玉は『鉄桶の団結』を合言葉に進もう!」と呼び掛けた。「鉄桶」——水も漏らさない鉄の桶のように、堅固な埼玉の異体同心の団結を、師は心から願った。
最後列の青年リーダーらを前にして、師が訴えた「鉄桶の埼玉」の魂を、参加者は生命に刻んだ。翌2日付の聖教新聞には、1面トップで最高会議の模様が報じられ、「埼玉、関東の電源地として立つ!」との見出しが躍った。
先生はそれまでも一貫して、埼玉の友に「団結」の重要性を強調してきた。この年の2月には、川越の地で、「団結と雄弁の埼玉たれ!」と指針を贈り、5年前の68年4月には、上尾で、「"一人立つ"ということと、団結とは、一見違うように思えるが、実は全く同じものである。自分が責任をもって一人立つところに、団結は自ずから築かれていくのだ」と指導している。
最高会議から約1カ月後、熊谷で県幹部会が行われた。先生は、「『団結』の二字の実践が、わが創価学会を世界的にしたのである。この原理を生涯、忘れないでほしい」「埼玉の勝利が日本の未来の縮図の勝利なり」とメッセージを贈った。そして9月12日、先生を再び上尾に迎え、埼玉県幹部総会を開催。会場には「鉄桶の団結」との巨大なパネルが掲げられた。「埼玉の日」の淵源である。
後に先生は埼玉の友に語っている。「異体同心でなければならない。その根幹が師弟である」と。師匠を中心とした埼玉の団結は今、世界広布の模範と輝く。