躍進の夏を送る未来部に
皆で温かなエールを!
全員が尊き使命の人。
創価家族の慈愛の陽光で
若き生命を照らそう!
立正安国論 P21
『悪侶を誡めずんば豈善事を成さんや』
【通解】
悪い坊主を誡めなければ、どうして善い事を成し遂げることができようか。絶対にできない。
【先生の指導から】
きょう七月十六日は何の日か?
ご存じのとおり、文応元年、すなわち西暦一二六〇年のこの日、日蓮大聖人は、「立正安国論」をもって、邪悪な坊主と結託した権力者の狂いを戒め、正された。その最も大切な記念の日である。日蓮仏法の「立正安国」─ここに永遠にわたる、慈悲と正義と平和の理念が明快に示されている。
創価学会の精神も「立正安国」が根本である。
「立正安国」という大いなる正義の戦いを決然と開始されたからこそ、大聖人は悪辣きわまる迫害を受けた。
もう少し違った方向へ、うまくごまかして、世間から「とてもいい人だな」「いい話をするな」と思われるよう、ゆるやかな、賢げな話だけをしていれば、迫害など受けなかった。
民衆の不幸をなくすため、日本の国全体を変えるために、悪い権力者と宗教を正すんだ!
こう、まっこうから訴えれば、当然、怒りを買う。しかし抜本的な改革は、これしかない。
名字の言 「雲の上 太陽常に 心にも」 2022年7月16日
遠方の友人を訪ねるため、飛行機を利用した。曇り空の空港を飛び立ち、雲を突き抜けた、はるか上空は見事に晴れ渡っていた▼"雲の上は、いつも青空"ということを知識として理解しているのと、実際に目で見た体験とでは、感動がまるで違う。その後、着陸した目的地も曇天だったが、心は晴れ晴れと、その日を過ごせた▼本紙の読者投稿欄「新・生き生き川柳」に、これまで数々の力作が掲載された女性部員。「雲の上 太陽常に 心にも」「太陽が 生命に昇れば すべて勝つ」など、"太陽"がよく登場する。「広布第一線で奮闘し、皆に元気を届ける人」とは周囲の評▼一方で波乱の半生だった。3児を育てる中、自営業が傾き、多額の負債を抱えたことも。20年前には壮年部リーダーだった夫が急逝した。それでも唱題を重ねる中で誓った。"何があっても信心の喜びを持って生き抜こう"と。現在、後継の子らは立派に成長し、変毒為薬の実証を示した彼女は感謝の日々を送る▼池田先生は語る。「苦難があればあるほど、それを喜んでいける深い心境をもてることが、どれほど幸せなことか。それは妙法への信心が深まれば深まるほど分かってくる」と。太陽の仏法は無限の希望の光源である。
寸鉄 2022年7月16日
「立正安国論」提出の日。烈々たる民衆救済の魂と広布の誓願は学会に脈々
沖縄原点の日。美しき天地を永遠平和の要塞に。地涌の底力で連続勝利を
互いの健闘をたたえ合う座談会。桜梅桃李のスクラムを強め次なる峰へ!
青年よ行学二道を進め!御書を学び正義を語る—不惜の闘争に真金の輝き
電動自転車の交通事故が増加と。乗り始めの急加速に要注意。安全第一で
〈社説〉 2022・7・16 「立正安国論」提出の日
◇世界平和と対話の一書を胸に
御書新版に新たに収録された御抄に、「故最明寺入道見参御書」がある。その中で、日蓮大聖人が北条時頼と会見し、禅宗を破折したことが記されている。
「天魔の所為たるの由、故最明寺入道殿に見参の時、これを申す」(新2141)
第5代執権を務めた北条時頼は、北条長時に執権職を譲って出家したものの、その後も幕府の実権を握っていた。「立正安国論」提出に先立つと思われる時期、大聖人はこの時頼と対面し、直接、宗教の正邪を訴えられたのである。
当時、大地震や洪水等の自然災害が相次いでいた。疫病や飢饉で多くの人命が失われ、正嘉元年(1257年)8月には、「正嘉の大地震」が鎌倉一帯を襲う。
暗い世相にあって、人々の間に無気力の風潮が広がり、「厭世主義」が蔓延していった。
"現実逃避""諦め"——人間を不幸に陥れるそういった弱さの根が、誤った思想にあることを蓮祖は知悉されていた。
「言わずんばあるべからず、恐れずんばあるべからず」(新25・全17)——大聖人は民衆救済の大願に立ち、文応元年(60年)7月16日、「国主諫暁の書」である「立正安国論」を時頼に提出されたのである。
「『立正安国論』を拝すると、日蓮の『勇気の心』とその並々ならぬ『大願』がよく分かります」
フランスの著名な神学者、仏教の専門家であるデニス・ジラ博士は述べている。博士はフランス語版「御書」の総合監修も務めた。
「日蓮は、民衆の心に巣くう『恐れ』『諦め』と戦ったのだと考えます。御書を通して、『恐れるな!』とのメッセージを伝えようとしたのではないでしょうか。それは『師子王の心』であるともいえます」
どんな環境であれ、「心」さえ負けなければ、困難を克服する道はある。日蓮仏法は、苦難の時こそ、"師子王の心"で現実に立ち向かうことを教えている。
池田先生は「立正安国論」について、民衆の安穏を実現するための「世界平和の一書」であり、「対話の一書」と記した。
感染症、戦禍等——今、人類は大きな危機に直面し、不安の暗雲に覆われている。"世界平和の祈り"と"正義の対話"で立正安国の精神を体現し、無明の闇を晴らしゆく創価の友の使命は深い。
☆ヒーローズ 逆境を勝ち越えた英雄たち 第21回 エンリケ航海王子
〈エンリケ航海王子〉
恐れなく航海を続け、岬越えを達成せよ!
水平線のかなたに広がる"新世界"を求めて、人間が未知の領域へと乗り出していった「大航海時代」。その歴史は15世紀、ヨーロッパ西端の国から始まった。
当時、ヨーロッパは東西を結ぶシルクロードを遮断され、文化的・経済的な孤立を深めていた。
その中で「陸」から「海」へ目を転じ、東洋への新たな道を開こうとする若き指導者が現れた。ポルトガルのエンリケ航海王子(1394—1460年)である。
国王ジョアン1世の三男として生まれたエンリケ王子は、21歳の時、北アフリカのイスラム世界に触れ、大ポルトガル建設への志を強くする。自ら宮廷生活を捨て、イベリア半島の西南端にあるサグレス岬へ移住。探検事業家として航海者たちを支援・指導した。
だが十数年にわたってアフリカ西海岸を探索するも、なかなか新航路は見つからない。なぜか。船乗りたちが、ある地点以上に進もうとしなかったからである。
その地点とはボジャドール岬。ここから先は怪物が住み、海は煮えたぎり、滝となって落下する。中世以来、「不帰の岬」として恐れられてきたことから、船乗りたちは王子の命に背き続けたのだ。
ある日、王子は彼らに告げた。
「もしかりに、世界でいわれているような噂が、すこしでも根拠のあるものならば、わたしもおまえたちをこれほどまでに責めはしない。しかしおまえたちの話を聞いていると、ごくわずかの航海者たちの意見に過ぎないではないか。しかもその連中というのは(中略)羅針盤も航海用の海図も使い方がわからない連中ばかりなのだ」
恐れなく航海を続け、岬越えを達成せよ!——王子の叫びに、一人の航海士が立ち上がった。そして1434年、ついに岬越えは成し遂げられたのである。
いわばそれは、何世紀もの間、船乗りたちがおびえ続けた"恐怖の岬"という"臆病の壁"を越えた瞬間だったと言える。"見えない敵"の向こう側には、穏やかな海が広がっていた。
ここから、歴史の歯車は大きく動きだした。王子亡き後、先駆者の遺志は後継の航海者に受け継がれ、アフリカの喜望峰への到達、インドへの新航路の発見などに結実するのである。
〈ポルトガルの歴史を語る池田先生〉
臆病では、前進も勝利もない。
「日蓮が弟子等は臆病にては叶うべからず」である。
広布の新航路を開くのは勇気だ。
自身の心の"臆病の岬"を越えることだ。
池田先生は折々に、波濤を乗り越えた勇者から学ぶ"勝利の要諦"を共戦の同志に伝えてきた。
小説『新・人間革命』第10巻の「新航路」の章には、1965年10月27日、ポルトガルに第一歩をしるした山本伸一が、エンリケ航海王子の逸話を通して同行の友に語る場面が描かれている。
「ポルトガルの歴史は、臆病では、前進も勝利もないことを教えている。大聖人が『日蓮が弟子等は臆病にては叶うべからず』(新1675・全1282)と仰せのように、広宣流布も臆病では絶対にできない。広布の新航路を開くのは勇気だ。自身の心の"臆病の岬"を越えることだ」
思えば、初代会長・牧口常三郎先生の少年時代は、海と共にあった。第2代会長・戸田城聖先生と池田先生も、海の近くで育った。
池田先生が戸田先生の前で何度も歌った曲の一つに、旧・東京高等商船学校の寮歌「白菊の歌」がある。
ある時、関西の会長室で、歌を聴き終えた戸田先生が「この歌の心は何だと思う」と池田先生に尋ねた。
池田先生は即座に答えた。
「この歌は、海軍の士官学校ではなく、もともと民間の航海士と機関士を養成する、商船学校の歌です。"戦争のためではなくして、平和のために、七つの海へ! 小さな島国の権威がなんだ! 我らは真の海の英雄として、世界と友情を結びゆくのだ!"——そうした心意気が伝わってきます」
こう語った当時の心情は、関西そして兵庫の友に贈った「随筆 新・人間革命」〈民衆の歓喜の港 友情の街〉につづられている。
その中で先生は、こうも記した。
「広宣流布とは、民衆の幸福のため、世界の平和のための正義の大航海である。航海には『港』が必要だ。わが創価の大船団が『完勝』の大海原へ船出する港は、どこであろうか。その重要な母港こそが、大兵庫であることは、議論の余地はない」(本紙2003年10月27日付)
今、その兵庫をはじめ神奈川、愛知、埼玉、福岡など各地で、正義の大航海を進めゆく創価の大船団——波濤を越えた先には、凱歌の大海原が洋々と広がっている。