2022年7月8日金曜日

2022.07.08 わが友に贈る

「今一重強盛に
御志あるべし」御聖訓。
広布の大願に立てば
無限の力が湧き上がる。
さあ今から!ここから!
(新1689・全1220)

四条金吾殿御返事 P1118
『貴辺日蓮にしたがひて法華経の行者として諸人にかたり給ふ是れ豈流通にあらずや、法華経の信心をとをし給へ火をきるにやすみぬれば火をえず、強盛の大信力をいだして法華宗の四条金吾四条金吾と鎌倉中の上下万人乃至日本国の一切衆生の口にうたはれ給へ』

【通解】
あなたもまた、日蓮に従い、法華経の行者として多くの人に仏法を語られている。これこそ、法華経流通の義ではないか。法華経の信心を貫き通しなさい。火を起こすのに、途中で休んでしまえば火は得られないのである。強盛の大信力を出して、法華宗の四条金吾、四条金吾と鎌倉中の上下万人および日本国の一切衆生の口にうたわれていきなさい。

【先生の指導から】
暗い世相である。変化も激しい。舵取りがむずかしい時代だ。自信を失い、指標を見いだせずにいる人も少なくない。そのなかにあって、日本中、世界中で、わが同志の健闘が、明るく朗らかに光っている。

名字の言 七色の友情のアーチを架けよう 2022年7月8日
北海道の女性が「愛知の友人と久しぶりの電話で、楽しく話ができました」と声を弾ませた。友人とは「ポルトガル」が縁で知り合ったという▼女性はかつて、家族でポルトガルに住んでいた。その時、日本でレストランを営む友人が、ポルトガルの家庭料理を学びたいと、つてをたどって、はるばる訪ねてきた。以来、彼女はその友人と親交を深めてきた▼女性は夫の仕事の関係で、海外を転々とした。その中で、国内の各地にも多くの友情を育んできた。先日、神奈川で本紙の購読推進が実った。一つ一つの友情は一朝一夕に築かれたものではない。一回の出会いを、その場限りで終わらせず、相手の幸福を祈り、真心を尽くしてきた▼仏の異名にはさまざまある。日蓮大聖人は仏を「大橋梁」(新53・全188)とも譬えられた。仏法者とは、人と人の間に心の「橋を架ける人」にほかならない。崩れない、確かな"橋"を築こうとすれば、時間もかかり、労も多い。しかし、だからこそ自らの境涯が大きく開かれる▼広宣流布といっても、どこか遠くにあるのではない。今いる場所で、地道に絆を育むことにある。一度結んだ縁を大切に!——この誠実な振る舞いで、七色に輝く友情のアーチを描きたい。

寸鉄 2022年7月8日
「ちかいし願いやぶるべからず」御書。自ら立てた誓いを貫く人生は尊し(新114・全232)
兵庫がラストスパート!常勝とは不撓不屈の異名 異体同心の大連帯で応援
神奈川が一進一退の激戦 悔いを残さず語り抜け!民衆勝利へ皆で押し上げ
土砂災害、大雨の数日後に発生も。崖から水が噴き出す等の前兆に注意を
公明比例、3千の議員が必死の訴え。全国で猛攻。支援も最後の一瞬まで!

☆君も立て——若き日の挑戦に学ぶ 第18回「大阪事件〈下〉」 「最後は勝つ」——師の言葉胸に関西へ
【関西への指針】
 偉大なる
  大関西の
   わが弟子は
  正義の剣持ち
   断固と勝ちゆけ
(長編詩「永遠の常勝関西を讃う」から)

◆吠えてこそ師子◆
65年前の1957年(昭和32年)7月17日、29歳の池田大作先生は日記にしたためた。
「中之島の中央公会堂にて、臨時の大阪大会あり」「万雷の拍手に迎えられ、更に広布の前進を、決意す。生涯の、記念の日となる。諸天の加護に、感謝す」(『若き日の日記』、1957年7月17日)
この日、権力の横暴を糾弾する「大阪大会」が開催された。雷鳴轟く豪雨の下での、熱気に満ちた大会。その14日前、事実無根の選挙違反容疑で不当逮捕された先生は、獄中闘争の後、17日に釈放された。そして夕刻、大阪大会に出席したのである。
戸田城聖先生は、愛弟子を守るため、大阪に乗り込み、大会で力説した。「正義は勝つというが、必ずしも勝つとは限りません。戦わなければ正義も敗れる。学会は、正義なればこそ、負けるわけにはいかん。断じて勝たねばならない。だから戦っていくんです。師子はね、吠えてこそ師子なんです」
池田先生は、学会の正義を宣揚し抜くことを深く決意し、翌日、「必ずや、われらは、真実が勝利する時代を創らん」(同、同年7月18日)とつづった。
7月29日、先生は起訴された。検察が起訴した刑事事件の有罪率は、当時、99%を超えていた。いったん起訴されると、無罪を勝ち取るのは不可能に近かった。
初公判が行われたのは、3カ月後の10月18日。「裁判が十八日である。無罪を祈念し奉る」(同、同年10月13日)——先生は、裁判を通してえん罪を晴らすことを固く心に期していた。
大阪地方裁判所に初めて出廷した際、池田先生の頭を駆け巡ったのは、わが身の行く末でなく、戸田先生のことだった。恩師の衰弱は著しかった。
第2回の公判が行われた翌58年(同33年)3月6日は、恩師の逝去1カ月前である。この時、1カ月で20万人が集う大講堂落慶の祝賀行事が静岡で催され、「3・16」の式典も控えていた。その運営の全責任を担っていたのが、青年室長の池田先生だった。
公判の前日、池田先生は、裁判のため大阪に行くことを、病床に伏す恩師に告げた。

◆「俺も、戦うぞ」◆
戸田先生は、布団の上に身を起こすと、毅然と語った。
「裁判は、容易ならざる戦いになるだろう。いつまでも君を悩ませることになるかもしれぬ。しかし、最後は勝つ。金は金だ。いくら泥にまみれさせようとも、その輝きは失せるものか。真実は必ず明らかになる」
過酷な法廷闘争は、釈放から4年半にわたって続いた。84回の公判で、先生は23回出廷している。
裁判の初期、先生は危惧を記した。
「午前十時より午後四時まで、公判。一口もしゃべることなく、終わる。ただ、非常に不利の感じを受く」(『若き日の日記』、1958年〈昭和33年〉9月25日)
しかし、先生の勝利への確信が揺らぐことはなかった。「最後は勝つ」との恩師の言葉が心に刻まれていたのである。
裁判長が先生に対し、法廷に毎回出てこなくても結構であると、伝えた時のこと。先生は答えた。
「私の大事な大事な関西の同志がおりますから、まいります」
法廷闘争の渦中、先生が何よりも大切にしたのは、愛する関西の友への激励だった。裁判の前後、あの地この地で同志と出会いを結んだ。
57年(同32年)10月18日の初公判の日は、夜、神戸で開催された大会に参加し、同志を鼓舞した。この日の日記で、烈々たる共戦の思いをつづっている。「今こそ、信心の前進の秋と知れ。友よ、次の勝利に、断固進もう。俺も、戦うぞ」(同、57年10月18日)
翌19日には、京都の宇治方面に赴き、20日には神戸の同志と懇談。関西の友と絆を強めた。
61年(同36年)9月22日は、午後から出廷を控えていた。この6日前、第二室戸台風が高知の室戸岬に上陸し、近畿地方に甚大な被害をもたらした。先生は矢継ぎ早に手を打ち、関西創価学会は、迅速な救援活動を行っていた。そうした状況の中、22日午前、先生は被災した大阪・西淀川区に足を運んだ。
屋根まで浸水し、ぼうぜん自失の中で、泥だらけになった家屋を片付けていたある男性。先生が突然、激励に訪れ、家族で驚いた。「誰よりも先に立ち上がるんだよ」との温かい励ましに、困難を乗り越えようとの勇気が湧いた。
先生の来訪を耳にしたある女性は、信心反対の夫にそのことを伝えると、「(池田)会長がこんなところに来るはずはない」と一蹴された。
しかし、実際に激励に訪れた先生が、「おケガはありませんか」「災害に負けてはなりません。変毒為薬ですよ」と、集まった同志に真心の言葉を掛ける姿に、夫は深く感動。その後、入会を果たしたのである。
個人会場を訪問した先生は、帰る間際に言った。「裁判所にまいりますので、これで失礼させていただきます」
先生は、自らが大変な状況に置かれながらも、わが身を顧みることなく、"苦労する友のもとへ""大変な地域へ"と駆けていった。
勝ち負けは 人の生命の 常なれど
最後の勝をば 仏にぞ祈らむ
【「若き日の日記」1957年(昭和32年)12月22日から】

◆正義の逆転劇を!◆
裁判は重大な局面を迎えていた。
61年(同36年)9月22日、被災者たちを見舞った後に出廷した第76回公判で、池田先生が主任検事への証人尋問を行ったのである。
罪を認め、検察側の言う通りの調書に応じれば、学会本部の手入れや戸田先生の逮捕はない——主任検事が約束したことを、池田先生は、その時のやりとりから明確に示し、一つ一つ追及していった。すると主任検事は、「覚えていない」「記憶にない」と逃げ、裁判長の前で醜態をさらした。
11月1日の第80回公判で、先生に関する4通の検察調書は、強要による自白の疑いがあるとして、全部、却下になった。1%の逆転勝利へ、大きく状況が変化した瞬間だった。
12月16日、先生は最終陳述で力説した。「(戸田先生は)『裁判長に真実をわかってもらえれば、それでいいじゃないか』と言われ、やがて、亡くなりました。取り調べがいかに不当であっても、裁判が公正であれば、人びとは冤罪に泣かずにすみます」
翌62年(同37年)1月24日、「大阪事件」の無罪判決前夜、池田先生は、兵庫の尼崎市体育会館(当時)で開催された関西男子部幹部会に出席。「初めて裁判のことについて私は口をきる」と前置きし、大阪事件について語った。
善良な市民を苦しめる権力の魔性とは断固戦い抜くとの決意を披歴し、こう訴えた。
「日本国中の人びとが、安心して幸福に暮らしていける世の中を築き上げようではありませんか!」
法廷闘争の"正義の逆転勝利劇"は、一つの側面からいえば、57年10月18日の兵庫に始まり、62年1月24日の兵庫で結ばれた戦いだったともいえよう。
そして翌25日、最終公判となる第84回公判が大阪地方裁判所で行われ、無罪が言い渡されたのである。
大阪事件の本質とは何だったのか。
後年、先生は記している。
「なんら共通の目的も理念もなく、ただ利害と学会憎しの感情が生み出した、攻撃の包囲網といえよう。
これこそ、障魔の連合であり、現代における法難の形態ともいうべきものが、そこにあった。創価学会は、そのなかで戦い、勝つことを、永遠に宿命づけられているのである」
無罪判決の後、先生は旧関西本部へ向かった。「大法興隆所願成就」の関西常住の御本尊の前に端座し、感謝の祈りをささげた。さらに、その場にいた関西の同志の病気平癒を祈り、「大丈夫だよ」と万感の励ましを送った。
この日、先生は語った。
「戦いは終わったのではない。むしろ、これから始まるのだ」
大阪事件の勝利のドラマは、先生の不惜身命の"一対一の激励"とともにあった。その真心は関西中を包み、さらなる堅固な常勝の基盤を築き上げていったのである。
「最後は勝つ」——大阪事件の大闘争の折、恩師は愛弟子に語った。先生はその言葉を証明した。そして、愛する関西の同志に深き使命を託した。
「必ず勝つ! 最後は勝つ! この負けじ魂こそが、関西魂だ。常勝魂だ。そして、わが学会魂である」