2021年11月20日土曜日

2021.11.20 わが友に贈る

女性が生き生きと
活躍してこそ発展はある。
多様な声に耳を傾け
皆が力を出せるよう
全力で応援していこう!

薬王品得意抄 P1501
『法華経は闇夜の月のごとし法華経を信ずれども深く信ぜざる者は半月の闇夜を照すが如し深く信ずる者は満月の闇夜を照すが如し』

【通解】
法華経は、闇夜の月のようなものである。法華経を信じても、深く信じない人は、半月が闇夜を照らすようなものである。深く信じる人は、満月が闇夜を照らすようなものである。

名字の言 民衆の幸福と平和の金字塔 2021年11月20日
黄金色に輝くイチョウが、青く澄んだ秋空を突くように並んでいた。一本一本が"黄金のピラミッド"のようだった▼11月18日の創価学会創立記念日が巡り来ると、東京・神宮外苑のイチョウ並木に自然と足が向く。300メートルの直線道路の両側に植えられた146本のイチョウ。ピラミッドのように見えるのは、定期的に木の姿を円すい形に整えているからだ▼「そもそも、初めピラミッドは、どこに建っていただろうか」。池田先生はエジプトのピラミッドをテーマにしたエッセーで、こう問い掛けた。「設計者の胸の中である。断じて建てようという彼の一念のなかに、まず『金字塔』は建ったのだ」と。ピラミッドは側面から見ると「金」の字に似ていることから、別名を「金字塔」という▼"胸中のピラミッド"を具現するために立ち上がった最初の「一人」。その信念の炎が人々の心に燃え移り、皆が「必ず成し遂げてみせる!」と心一つに挑戦したからこそ、後世に残る金字塔は築かれた。広宣流布という「民衆の幸福と平和の金字塔」を建設する方程式も同じだろう▼明年のテーマが「青年・飛躍の年」と決まった。青年の心で自身の飛躍を固く誓い、力強く出発したい。私の飛躍が広布の飛躍である。

寸鉄 2021年11月20日
「善縁に遇えば悟と成る」御書。学会は大善の連帯。団結固く新たな峰を登攀
宮城・県の日。広宣流布の総仕上げは東北健児が!青年と共に"飛躍の年"へ
学会の社会的使命を示す「憲章」制定。貢献的日々歩む誇り胸に一層の実践
国連「世界子どもの日」。一人一人が使命ある宝の存在。慈愛の励まし皆で
ワクチンに関する偽情報5割超が見聞き—調査。何事も公的情報の確認を

☆11・18「創価学会創立の日」記念特集 桂冠詩人40周年(上) 平和と幸福のために! 迸る魂の声
◇600編 14万5000行の詩作——人間生命の尊厳への讃歌
本年は池田大作先生に「桂冠詩人」称号が贈られてから40周年。11・18「創価学会創立の日」記念特集では、3回にわたり、先生の詩人としての足跡を掲載する。�は、先生が詩作に込める心情などに迫る。

第2次世界大戦と戦後の荒廃の中で青春時代を過ごした池田先生。結核などにも苦しんだ。その心に活力を与えたのが詩の存在であった。ホイットマン、ユゴー、ダンテ、シラーらの詩集に触れ、好きな詩を暗唱し、口ずさみながら道を歩いたという。
終戦の年(1945年)の春、空襲で廃虚と化した街の一角に数本の桜が生き残り、美しい花盛りを見せた。17歳の先生は、その時の感懐を二十数行の詩にした。
「諸行は無常か 常住か/それも知らずに 散りゆくか/散る桜 残る桜よ 永遠に/春に 嵐と 咲き薫れ」と。
「正しい人生とは何か」を模索していた池田先生は、19歳で恩師・戸田先生と出会う。軍国主義と戦い、正義の信念を貫いた人格と思想に心を打たれた池田先生は、その感動を即興詩として詠んだ。

旅びとよ
いずこより来り
いずこへ往かんとするか

月は 沈みぬ
日 いまだ昇らず
夜明け前の混沌に
光 もとめて
われ 進みゆく

心の 暗雲をはらわんと
嵐に動かぬ大樹求めて
われ 地より湧き出でんとするか

二つの詩について、池田先生は述懐している。「ここに込めた自他の人生と平和に対する青春の問いかけが、それからの私の全人生を、すなわち詩人としての方向性を決定づけている」と。

◇池田先生「皆を励まし、鼓舞しようとするとき、無限の言葉溢れ出てくる。目にふれるもの、命にふれるものが、そのまま詩となっていく」
戸田先生を人生の師と定め、師弟に生き抜くと決めた池田先生は、日蓮大聖人の仏法を日本中、世界中に広めゆく闘争を開始。その激務の中で詩作を続けていく。
ある時は、苦悩する友を励ます慈愛の声として。
ある時は、生命尊厳と平和の尊さを謳う讃歌として。
ある時は、邪悪を破る正義の言論の剣として——。

先生は詩作に臨む心情をつづっている。
「皆を励まし、鼓舞しようとするとき、無限の言葉が溢れ出てくる。目にふれるもの、命にふれるものが、みな、そのまま詩となっていく」
紡ぎ出された幾多の詩は、民族、宗教、文化の壁を越えて人々の心を結んだ。
その功績に対し、1981年、世界芸術文化アカデミーから贈られたのが「桂冠詩人」称号である。「世界詩人会議」を主宰する同アカデミーが、最も傑出した詩人に贈る栄誉であり、日本人への初の授賞であった。
第1次宗門事件の余燼くすぶる時だった。先生は詩をもって反転攻勢へ打って出る。同年11月、四国の地で「紅の歌」を作詞。「邪悪の徒には 栄えなし」との一節に「正義が勝って、歴史を変えるのだ!」との魂を込めた。
翌12月には九州で長編詩「青年よ 21世紀の広布の山を登れ」を発表。「いかなる苦衷の最中に入っても/希望を失うな!/希望は無限の力である/これこそ信心であるからだ!」との呼び掛けに全国の友が奮い立った。
民衆の大地に根差した詩業に、その後も世界的な詩人団体から「国際優秀詩人」賞、「世界桂冠詩人賞」、「世界民衆詩人」称号、「世界平和詩人賞」などが授与された。
文豪セルバンテスの故郷であるスペインのアルカラ・デ・エナーレス市での「詩の朗読会」で池田先生の詩に触れた、アルカラ大学文学部のフランシスコ・ペーニャ教授は感激をもって語った。
「池田氏の詩は、庶民のことを考えて作られたものが多い」「氏の詩には苦しむ民衆を勇気づけ、励ます力があります。人々の繁栄のために心を尽くされていることが分かります」
池田先生の詩作は約600編、14万5000行に及ぶ。迸る魂の声は、時代を超えて人々の心を動かし、平和と幸福への羅針盤として輝きを増している。

〈桂冠詩人とは〉
古来、東西を問わず、詩人には特別の尊敬が寄せられてきた。
中国では、官吏の登用試験で詩を作らせていた。素晴らしい詩を作り、人格を修めていることが社会の指導者の要件であった。アラブ世界では、民族間で詩を競い合い、才能ある詩人を誇りとした。
古代ギリシャでは、音楽や詩歌を競う大会の勝者に、詩の守り神アポロンゆかりの月桂樹の枝を編んだ冠が授けられた。そこからヨーロッパでは、その時代の第一の詩人をたたえて「桂冠詩人」の称号を贈るようになったといわれる。ダンテ、ペトラルカといった名だたる詩人たちも桂冠詩人と呼ばれた。
イギリスでは17世紀、桂冠詩人は王室が任命する制度として定められ、国王チャールズ2世の時代には、ドライデンが桂冠詩人に任命された。桂冠詩人は「王の詩人」として、王室の祝い事や弔い事、また国家的な大行事がある際に詩を作り、それを荘厳する役割を担った。
第2次世界大戦後、米ソ冷戦時代が始まる中で、世界の詩人たちは"平和のために何かできないか"と国境を超えた連帯を推進。1969年、フィリピンのマニラで第1回「世界詩人会議」が開催された。その後、この会議は世界各都市で行われ、詩人たちの結集軸となっていった。
池田先生への「桂冠詩人」称号の授与は81年7月、米サンフランシスコで行われた第5回「世界詩人会議」の席上、決定されたものである。

☆紙上セミナー 仏法思想の輝き 邦楽演奏家 常磐津八重太夫
◇芸に王道なし
邦楽演奏家 常磐津八重太夫
【プロフィル】ときわず・やえたゆう 本名・石原高章。16代家元・常磐津文字太夫に15歳で師事。1992年(平成4年)、文化庁芸術祭賞受賞。2000年(同12年)、常磐津節重要無形文化財(総合認定)保持者。13年(同25年)、旭日双光章受章。80歳。1953年(昭和28年)入会。東京都小平市在住。副本部長。芸術部参与。

◇生涯、求道の心燃やして
秋も深まり、紅葉も見頃を迎えています。日頃忙しい方も、"芸術の秋"らしく、日本の古典芸能に触れてみてはいかがでしょうか。
申し遅れましたが、私、常磐津八重太夫と申します。「常磐津」は、三味線などに合わせて物語を"語る"、浄瑠璃の流派の一つです。私は"語り物"を専門にしている太夫です。274年続く常磐津の魅力は、心の機微を情感豊かに、三味線を奏でて語るところにあります。
今日は、自身の半生を弾き語らせていただきたいと思います。しばし、お付き合いください。

◇信心は素直に
"どうして自分は不幸なんだ? いつの日か群馬を出て海外に"——。私が2歳の時に両親が離婚しました。母は原因不明の皮膚病を患い、私たち親子に、周囲からの冷たい視線が向けられ、母は無理心中を考えるほど思い詰めていました。
小学生の頃、母と共に創価学会に入会しました。見る見る元気に変わる母の姿に、信心のすごさを感じました。
常磐津と出合ったのは、小学5年の時でした。常磐津を趣味にしていた叔父の勧めで、入門することに。やがて、物語の情景が心に広がる常磐津に魅了され、5年間、毎日欠かさず稽古に励みました。
ある発表会で偶然、東京から訪れていた家元に声を掛けられ、中学校卒業と同時に単身上京しました。しかし、弟子入りするも、稽古をつけてもらえません。内弟子としてのお使いや、重たい道具運び——雑用に追われながら、聞こえてくる音色を必死に学んでは、城跡の広場で一人、発声練習を繰り返しました。
しかし、そうした生活に疲れ果て、逃げるように帰郷しました。学会の先輩が"一度決めた道ならば、頑張れ!"と叱咤激励してくれました。やっぱり常磐津への思いを捨て切れず、家元の所に戻る決意をし、信心に励んでいくことを誓いました。
夜寝るためだけに与えてもらった3畳間で題目を唱えながら、修行を再開しました。学会活動にも熱を入れるようになると、家元から"芸と信心のどちらが大事なんだ!?"と叱責された時もありました。しかし、信心があるからこそ、芸への情熱をたぎらせ、精進してこられた確信を胸に、"自らの芸で分かってもらうんだ"と稽古を続けました。
やがて家元に認められ、19歳で独立することができました。
以来、61年——。振り返って思うことは、"信心も芸も、素直に尽きる"の一言です。
御書には、「一念に億劫の辛労を尽せば本来無作の三身念念に起るなり所謂南無妙法蓮華経は精進行なり」(790ページ)と仰せです。どこまでも心を尽くし、努力を重ね続ける「人間革命」への挑戦が、勝利の道です。
芸の道も、細部を怠っては大成しません。道具の扱いや、代々引き継がれてきた台本の管理も丁寧に行います。また、仕事関係者やお客さまとの出会いも大切にしてきました。
しかし人間は弱いもので、「今日はいいや」と怠惰に流されてしまいがちです。だからこそ、同志と共に自身を鍛え、人格を磨く学会活動に勇んで挑戦してきました。
信心の実践を通して、人間として強くなれたなという実感が、そのまま芸に生きてきました。48年前から始めた唱題表は、190枚を数えようとしています。
地道に精進を重ね、常磐津に欠かせない"カン"という、高い声が裏声を使わなくても出せるようになったことで芸域が広がり、仕事が増えました。
1968年(昭和43年)、それまでの努力と功績が認められ、江戸時代からの由緒ある「八重太夫」を襲名しました。82年(同57年)からは海外で公演する機会にも恵まれ、これまで20カ国以上を訪問しました。
信心に巡り合えたおかげで、幼い頃の願いがかなうだけでなく、思いもしなかった人生が開けたのです。

◇実はユーチューバー
ところがコロナ禍で公演が途絶え、弟子への稽古も激減しました。そこで昨年、"自分の弾き語りをYouTubeで配信しよう"と一念発起しました。80歳を前にパソコン教室に通って、撮影と動画の公開を一人でできるようになりました。
それではここで、動画で公開している、仏教説話をもとに創作した浄瑠璃「雪山童子」をお届けします。
♪雪山の山中吹き抜く風の音 天上善神帝釈天 姿を変えており来り——
帝釈天が、雪山で仏道修行をしている子どもを見つける。帝釈天は、「この子の求道心がどれほどのものか試してみよう」と、鬼に変化。鬼は子どもに「法を知りたければ身をささげよ」と迫る……。
続きが気になる方は、ぜひ動画(https://www.youtube.com/watch?v=b-9oi9x_czY)をご覧ください。
年齢を重ねても、信心には"引退"や"定年"はありません。"求道の心"こそ信心の根本です。芸の道も同様、"ここまでやればいいだろう"と満足してしまえば芸は伸びません。現在も、10回歌って「これだ」と思えるのは1回ほど。芸に王道なし。苦しみ抜く以外に上達の道はありません。
うれしいことに来月、公演が再開されることになりました。お客さまの心に響く歌声を磨いていきます。

◇[視点]阿吽の呼吸
八重太夫さんは、"浄瑠璃の舞台では、「語り」と「弾き」の絶妙な間が求められます。まさに「阿吽の呼吸」が大切です"と語っていました。
芸術の世界だけでなく、スポーツなどでも、相手に合わせようとしている間は、微妙なズレが生じてしまうといいます。矛盾するようでも、それぞれが自分の持てる力を出し切ることが呼吸を合わせるカギです。
「阿吽の呼吸」とは、相手が積み重ねてきた努力や挑戦、それらが凝縮した生き方への尊敬や信頼があってこそなせる業ともいえます。
同志の励ましの一言も、共に人間革命をかけて戦う日々を知っているからこそ「阿吽の呼吸」となって、壁を破る力を湧き立たせるのです。