学会活動の基本は
日々の勤行・唱題だ。
地道でたゆまぬ祈りが
境涯を広げ、行動を変え
幸の未来を築いていく。
法華経題目抄 P944
『譬えば秋冬枯れたる草木の春夏の日に値うて枝葉華菓出来するが如し』
【通解】
たとえば、秋冬に枯れてしまった草木が、春夏の太陽にあって、枝や葉を茂らせ、花や実をつけるようなものである。
名字の言 アサガオが美しく咲く条件 2021年11月10日
"夏の花"の印象があるアサガオだが、今の時季に咲く品種もある。アサガオは、なぜ夜が明けると咲いているのか。"朝の日差しを浴びるから"と思っていたが、そうではないらしい▼アサガオのつぼみは、光を当て続けた状態だと開かない。また、ずっとあたたかな所に置いても開きにくくなる。"闇"や"冷たさ"に触れてこそ美しい花が咲く(貝原純子著『アサガオのすいみん時間』さ・え・ら書房)▼先日入会した友と懇談した。以前の彼は、何をするにしても、楽しいか苦しいか、得か損かといった二元論的な捉え方しかできなかったという。「でも学会員の姿を見て、自分の浅はかさに気付いたんです」と▼友人の誘いで地区の集いに参加すると、病と闘いながら、「俺が勝つ姿を見ててくれよ!」と対話に挑む元気な壮年がいた。経済苦を抱えつつ、「一緒に福運を積もうね!」と励ましてくれる心豊かな婦人も。その生き方に感動し、彼は入会した▼御書に「苦をば苦とさとり楽をば楽とひらき」(1143ページ)と。人生、苦しい時も楽しい時もある。大切なのは、どんな時も前に進むこと。倦まず撓まず、不屈の歩みを貫けば、試練さえ幸福の糧になる。広布の庭に咲く友の笑顔が、そう教えてくれる。
寸鉄 2021年11月10日
「一切衆生の口にうたはれ給へ」御書。若人よ職場で信頼を。仏法即社会だ
静岡県太陽の日。偉大な同志万歳!堂々の勝利で「魂の独立」30周年を荘厳
香川「師弟の日」40周年。さあ「紅の歌」高らかに!新たな共戦譜を団結固く
「御書講義」が公式HPで配信中。教学は信心の柱。心肝に染め地涌の使命を
児童虐待防止推進月間。孤立する親子ほど暴力が悪化と。地域の絆、強固に
〈社説〉 2021・11・10 あす「介護の日」
◇一人一人が"伴走者"の心で
介護が必要な家族と向き合う中で、共に広布の道を歩んでいく——本紙連載中の信仰体験「伴走者 わたしと介護」に読者から反響が寄せられている。
本年4月から始まった同連載では、これまでに実母と義母を同居で介護した友や、介護の場を在宅から施設に移した友のドラマなどを紹介。1人暮らしの親の家に毎日通ったり、泊まり込んだりする友もいれば、遠方の父母を自宅に迎えた娘夫婦も。自身が要介護の体でも、家族の協力を得ながら親を介護する女性もいた。
読者からは、「介護者の本音が載っていて共感する」「私も同じような境遇で感動した」「介護者の明るく和やかな写真に胸を打たれた」といった声が届いている。「亡き母の介護を悔やんでいたのに、記事を読み終えると私も笑顔になれた」という女性も。
このように介護体験の共有が、人々の励みにもなる。加齢や病で介護が必要な家族を抱えることは誰でもあり得るだろう。そんなとき、どこまでも相手を慈しみ支える姿は、仏法が説く「慈悲」であり、「菩薩」の姿なのである。
食事や排せつの介助など、介護には人に言えない苦労も大きい。慣れない介助に介護者の気持ちが追い付かないこともある。心身が疲弊して"共倒れ"しないよう、周りのサポートが必要だ。
昨年、埼玉県は全国初の「ケアラー支援条例」を制定した。ケアラーを「援助を必要とする親族、友人その他の身近な人に対して、無償で介護、援助」などをする人と定義し、孤立しないように社会全体で支えることを定めている。
介護での悩みには「話を聞いてくれる人がほしい」といったものも多い。ある社会福祉協議会が運営するカフェでは、介護の経験者が「スマイルサポーター」として介護者に耳を傾けている。
同連載の友も、経験豊かな同志から「いつでも呼んでください」と言われたことを感謝していた。
池田先生は「他者に尽くすことによって、他者の痛みや苦しみを、分かちあえる人になっていく。こうした"善の心"の連帯は、介護が社会化されるにつれて、家庭内にとどまらず、地域社会へと広がっていくでしょう」と語っている。
あすは「介護の日」。人生の総仕上げに寄り添う"伴走者"は、当事者家族だけではなく、私たち一人一人だと心に銘記したい。
☆青年部拝読御書 「如説修行抄」� 強敵と戦うのが法華経の行者
第6章 「末法如説修行の人を明かす」前半 (御書504ページ1行目〜9行目)
【御文】
『されば末法・今の時・法華経の折伏の修行をば誰か経文の如く行じ給へしぞ、誰人にても坐せ諸経は無得道・堕地獄の根源・法華経独り成仏の法なりと音も惜まずよばはり給いて諸宗の人法共に折伏して御覧ぜよ三類の強敵来らん事疑い無し。
我等が本師・釈迦如来は在世八年の間折伏し給ひ天台大師は三十余年・伝教大師は二十余年・今日蓮は二十余年の間権理を破す其の間の大難数を知らず、仏の九横の難に及ぶか及ばざるは知らず、恐らくは天台・伝教も法華経の故に日蓮が如く大難に値い給いし事なし、彼は只悪口・怨嫉計りなり、是は両度の御勘気・遠国に流罪せられ竜口の頸の座・頭の疵等其の外悪口せられ弟子等を流罪せられ籠に入れられ檀那の所領を取られ御内を出だされし、是等の大難には竜樹・天台・伝教も争か及び給うべき、されば如説修行の法華経の行者には三類の強敵打ち定んで有る可しと知り給へ』
【通解】
では、末法の今の時に、まさしく法華経の折伏の修行を、一体誰が経文に説かれた通りに実践してきただろうか。
誰人であっても、「法華経以外の諸経は、無得道の教えであり、堕地獄の根源である。ただ法華経だけが成仏の法である」と、声も惜しまずに叫んで、諸宗の「人」と「法」をともに折伏してごらんなさい。三類の強敵が現れることは疑いがない。
私たちの根本の師である釈尊は、生涯の中で八年の間、法華経を説いて権教を破折された。天台大師は三十年余り、伝教大師は二十年余り、そして今、日蓮は二十年余りの間、権教の理を破折してきた。その間に受けた大難は数知れない。釈尊が受けた九つの大難に及ぶか及ばないかはさておいて、恐れ多いことであるが、天台も伝教も法華経ゆえの日蓮が受けたような大難に遭うことはなかった。
彼らはただ悪口を言われ、反発や敵対を受けただけである。日蓮は、二度の処罰を受けて、伊豆と佐渡に流罪され、竜の口でも頸を斬られそうになり、小松原の法難では頭に刀傷などを受けた。そのほかに悪口を言われ、弟子たちを流罪されたり、牢に入れられたりした。また、在家の弟子は、領地を没収され、主君から追放された。これらの大難には、竜樹や天台、伝教もどうして及ぶであろうか。
従って、如説修行の法華経の行者には、三類の強敵が必ず競い起こると知りなさい。
【解説】
前章までで、不惜身命の実践には難が必然であることが説かれた。そして法華経のみを信ずることが正しい信心であることを示され、「法華経の折伏」こそが末法の時に適った実践であると、明快に論じられている。
第6章では、改めて末法に折伏を行ずれば、三類の強敵が出現するなど、大難が必ず起こることを確認しつつ、日蓮大聖人こそが末法の「如説修行の法華経の行者」であることを強調されている。
◇正義ゆえに迫害が
冒頭で、「末法の今の時に、まさしく法華経の折伏の修行を、一体誰が経文に説かれた通りに実践してきただろうか」と指摘されている。
「末法の今の時」とは、本抄の第5章で述べられているように、「権実雑乱」の時を指す。この権教と実教が入り乱れていること(権実雑乱)を正さなければ、「闘諍言訟・白法隠没(仏の教えの中で論争が絶えず、正法が見失われてしまう)」の法滅の時を迎えることは避けられない。ゆえに「諸経は無得道・堕地獄の根源・法華経独り成仏の法なり」と、権実雑乱を正す折伏が重要になる。
ここで「声も惜しまずに叫んで」と示されているが、"一言でも一句でも法華経の正義を語らずにおくものか"という折伏精神こそ、大聖人直結の実践であることを深く心に留めておきたい。
そして、大聖人は誰人であっても折伏を行えば、三類の強敵が出現することは疑いないと断言される。池田先生は、その構図について「この法華経の折伏は、法を護り、民衆を救う正義の実践であるがゆえに、増上慢の勢力から迫害が生じる」と講義されている。増上慢とは、まだ覚りや徳を体得していないのに、体得したと思って慢心を起こし、他より優れていると思うことである。
続いて大聖人は、三類の強敵に遭っている御自身こそ、末法の法華経の行者であることを明示される。
大聖人は建長5年(1253年)の立宗宣言以来、本抄御執筆の文永10年(1273年)までの二十余年の間、正法・像法時代の先師たちを超える種々の大難を受けながら、諸宗を折伏されてきた。
その間の大難は、「立正安国論」提出直後に念仏者が大聖人の草庵を襲った「松葉ヶ谷の法難」、その翌年の「伊豆流罪」、東条景信らに襲撃され、傷を被られた「小松原の法難」、さらに「竜の口の法難」とそれに続く「佐渡流罪」と、まさしく「其の間の大難数を知らず」との仰せの通りであった。
大聖人は、この御自身の受難について「釈尊の九横の大難はともかくとして、天台大師も伝教大師も遭ってはいない」とつづられている。天台大師や伝教大師の場合は「悪口や怨嫉」だけであるのに対して、大聖人の場合は、権力による生命に関わる大難であり、また、門下たちも牢に入れられたり、財産を没収されたりした。
これほどの大難には「竜樹や天台、伝教もどうして及ぶであろうか」と強調されている。まさに前章までに記された「法華折伏・破権門理(法華は折伏にして、権門の理を破す)」の教えの通りに、大聖人が実践されたがゆえに起きた「法難」であった。
以上のことから大聖人は、「如説修行の法華経の行者には、三類の強敵が必ず競い起こると知りなさい」と、門下に不退転の覚悟を促されている。
◇増上慢の心とは
ここで、大聖人が何度も注意を促される「三類の強敵」について確認したい。
法華経勧持品第13の冒頭には、悪世の衆生には善根が少なく、増上慢が多いと示されている。
増上慢の者は、供養を貪り、悪の因を積み、解脱から遠ざかるとも説かれている。この増上慢の勢力の中で、正法である法華経を説けば、おのずと迫害が生じていく。勧持品では、そうした状況の中で、法華経の会座に連なった菩薩たちが、滅後悪世の娑婆世界で、いかなる大難を受けても法華経を弘通していくことを誓っている。
勧持品二十行の偈には、その誓いが示され、また菩薩への迫害の様相が説かれる。この迫害を行う者たちを、妙楽大師が三種に分けたのが「三類の強敵」、すなわち俗衆増上慢、道門増上慢、僭聖増上慢である。その特徴を見ると、次のようになる。
第一の「俗衆増上慢」は、仏法に「無智」な在俗の人々をいい、法華経の行者を悪口し、刀や杖をもって迫害を加える。
第二の「道門増上慢」は、悪世における「邪智」にして心の諂い曲がった比丘(僧)たちのことを指す。未だ仏法の覚りを得ていないのに得たと思い込み、自義(自分勝手な説)に執着する慢心が充満している。
第三の「僭聖増上慢」は、人々から聖者のように仰がれている高僧で、普段は世間から離れたところに住み、自分の利益のみを貪り、「悪心」を抱いて、法華経の行者を陥れようとする。その手口は、国王などに向かって、法華経の行者を邪見の者であるなどと讒言し、権力者を動かして、弾圧を加えるように仕向ける。
さて、この「無智」「邪智」「悪心」という、それぞれの増上慢の心は、何によってもたらされるのか。それは「無明」である。無明とは、生命に具わる根本的な迷いのことで、特に万物が妙法の当体であることがわからない、最も根源的な無知を「元品の無明」という。正法が説かれても、それを信解できず、むしろ反発して正法を破ろうとする働きを生む。
大聖人は、「元品の無明は第六天の魔王と顕われたり」(御書997ページ)と仰せである。第六天の魔王は、欲望にとらわれた衆生を支配し、自在に操るので「他化自在天」とも呼ばれる。
「三沢抄」には、末代の凡夫が仏になろうと修行する時に、第六天の魔王が、それを妨げようとしてさまざまな働きを起こすと仰せである(同1487・1488ページ参照)。すなわち、第六天の魔王が俗衆・道門増上慢の心を操作し、僭聖増上慢の身に入って、法華経の行者に迫害を加えるのである。
そして御書には「元品の無明を対治する利剣は信の一字なり」(751ページ)と示されている。
妙法への「信」によって無明を打ち破れば、生命に本来的に具わる「元品の法性」が涌現する。元品の法性とは、仏が自らの生命の中に覚った万物の究極の真理のことを指す。成仏とは、この法性と無明との戦いに勝つことといえよう。
池田先生は呼び掛けられている。
「『三類の強敵』が現れるのも、『三障四魔』が競い起こるのも、ありとあらゆる苦難は、自分自身の信心を試しているのである。すべて、仏界の生命を開いていくために必要なことなのだ。ゆえに、いちだんと信心を強めていけば、絶対に乗り越えていける。勝っていける。強盛な信心があるかぎり、乗り越えられない苦難はない」
難が起こってこそ、私たちの信心が大聖人直結であることの証しとなる。
難と戦ってこそ、私たちの信心が一段と深まり、人々に妙法の功力を示す好機、人間革命する好機となる。
皆が強き信心を鍛え、自身の勝利の姿で栄光の11・18「学会創立記念日」を飾っていきたい。
◆池田先生の指針から
(日蓮大聖人は)最大の法難である竜の口の法難について、「竜口までもかちぬ」(御書843ページ)と仰せです。また、「今では魔王も懲りているであろう」(同、通解)とまで述べられ、あらゆる大難を乗り越えて第六天の魔王に打ち勝った凱歌の御心境を明かされています。
戸田先生はよく言われました。
「大聖人は、ありとあらゆる大難を忍ばれながら、一切衆生を救おうという大慈大悲の戦いをなされた。そして、すべての大難を勝ち越えられた。これが御本仏の実証であられる」と。
仏法は勝負です。三障四魔・三類の強敵に打ち勝ってこそ、真実の法華経の行者です。(『勝利の経典「御書」に学ぶ』第5巻)