2021年7月25日日曜日

2021.07.25 わが友に贈る

車での移動は安全第一!
脇見やスマホの操作など
"ながら運転"は厳禁!
無理のない計画を立て
小まめな休憩も忘れず。

大悪大善御書 P1300
『大悪をこれば大善きたる、すでに大謗法国にあり大正法必ずひろまるべし、各各なにをかなげかせ給うべき、迦葉尊者にあらずともまいをもまいぬべし、舎利弗にあらねども立つてをどりぬべし』

【通解】
大悪が起これば、大善が来る。すでに大謗法が国にある。大正法は必ず広まるであろう。わが門下たちよ、何を嘆かれることがあろうか。迦葉尊者でなくとも、舞を舞いたまえ。舎利弗でなくとも、立って踊りたまえ。上行菩薩は、大地から踊りながら出現されたではないか。

名字の言 「『努力の正解』を見つけることが大切」 2021年7月25日
「努力はウソをつく」——フィギュアスケートで冬季五輪2連覇を果たした羽生結弦選手の言葉。厳しい練習や準備を重ねても、望んだ結果を得られるとは限らない。勝負の世界に生きるトップアスリートならではの実感だろう▼その言葉には続きがある。「でも、無駄にはならない。『努力の正解』を見つけることが大切」。一見、報われないと思う取り組みや失敗も、それらの経験はすべて勝利の未来へと続く布石になる、と(『羽生結弦の言葉』宝島社)▼柔道に青春を懸ける女子高等部員が連日、唱題と猛げいこに励んだ。ところが、目標としていた高校3年のインターハイの直前になって膝の靱帯を損傷し、出場を断念した。"頑張ってきたのに、なぜ……"。家族は"必ず意味がある"と懸命に励ました▼彼女は治療に通い始めた。その時の理学療法士との出会いが転機になった。スポーツに情熱を注ぎ、挫折を経験した自分だからこそ分かる気持ちがあることに気付いた。彼女は福祉大学へ進み、障がい者のスポーツ支援に携わる新たな夢へと一歩を踏み出した▼つまずいても立ち上がり、新たなステージへと歩みを進めていく。その挑戦の歩みの中でこそ、"なぜ"と思う出来事の「正解」も見つかる。

寸鉄 2021年7月25日
試練を経なければ革命児になれぬ—恩師。青年よ拡大の先陣をこの気概で
真摯な友情以上に確かで快いものはない—文人。爽やかに心結ぶ語らいを
ボランティア参加の高齢者は介護リスク低い傾向と。利他の道に健康人生
より速く、より高く、より強く、共に—五輪標語。向上の人は美し。皆で前へ
子の感染、77%が家庭内。親がウイルス持ち込まぬ意識を。充実の夏休みに

☆勝ちゆく君へ 第19回 民衆凱歌の10年を開け
◇青春を彩る友情の絆を
本門の青年部が、結成70周年の佳節を、若き熱と力で、見事に勝ち飾ってくれました。
未曽有の試練の中で、君たちが築き上げる青年の連帯こそ、乱世に揺るがぬ平和の柱です。
結んだ尊き幸の仏縁を、誠実に聡明に深めてもらいたい。
広布の山に一つ一つ挑み、登攀する中で、青春を豊かに彩る友情の絆も輝きを増します。
今、誰もが、信頼できる「人間のつながり」を求めています。御書には、「善友に親近せよ」(1244ページ)と仰せです。
「立正安国」の対話は、自らが真の善友として「蘭室の交わり」を社会に広げゆく挑戦です。語った分だけ、信用が残ります。

◇新しい人材と共に前進
人材が伸びゆく共戦の夏。
男子部の大学校生、女子部の白蓮グループ、学生部のビクトリー・リーダーの皆さんは、一人一人が、民衆凱歌の10年を開く、かけがえのない先駆者です。
人間関係が希薄化する時代にあって、一層、先輩は後輩へ、温かな激励を頼みます。
若き南条時光への御聖訓に、「人のものををしふると申すは車のおもけれども油をぬりてまわり・ふねを水にうかべてゆきやすきやうにをしへ候なり」(御書1574ページ)とあります。
心を合わせ、一緒に祈り学び、語り歩む道が、自他共の人間革命の光道となる。さあ、充実と成長の喜びあふれる共進を!

☆ロータスラウンジ——法華経への旅 第27回 常不軽菩薩品第二十�
◇下種に歩く最前線の学会の同志こそ不軽菩薩なのです
■大要
不軽菩薩のドラマを通して、滅後の弘通の方法と逆縁の功徳が説かれます。それでは内容を追ってみましょう。

●シーン1
その時、釈尊が、得大勢菩薩に告げます。
「今まさに知るべきである。
法華経を持つ四衆(男女の出家・在家の弟子)を、悪口・罵詈・誹謗するならば、これまで説いた通り、大きな罪の報いを受けるであろう。
法華経を持つ四衆が得る功徳は、前章(法師功徳品)で説いたように、六根が清浄になるであろう」

●シーン2
威音王仏のことを語ります。
「無量無辺不可思議阿僧祇劫というはるか昔、威音王仏という仏が、天界・人界・修羅界の衆生に法を説き、仏の智慧を究めさせた」
「この仏(威音王仏)の寿命は四十万億那由他恒河沙劫で、衆生を利益し終わって入滅した。正法・像法の時代が終わった国に、この仏は再び、威音王仏の名で出現することがあった。このように入滅と出現を繰り返し、二万億の威音王仏という同じ名前の仏が出現した」
このように、威音王仏という同じ名前で、長遠なる歳月、衆生を救済してきたことが説かれます。

●シーン3
続いて不軽菩薩のドラマが始まります。まずは時代背景です。
「最初の威音王仏が入滅し、正法が終わり、正しい法が見失われた像法になると、増上慢の男性出家者が一大勢力を築いていた。その時、一人の『常不軽』という菩薩がいた」
続いて名前の由来です。
「どういう因縁で、常不軽と名付けられるのか。この人は、人々を見ると、全員に礼拝し、たたえ、次の言葉を掛ける。
『私は深く、あなた方を敬います。決して、軽んじたり、あなどったりいたしません。なぜなら、あなた方は皆、菩薩道を修行すれば、必ず仏になることができるからです』
しかも、経典を読誦することに専念せず、礼拝行をするだけである。
遠くに人を見掛けると、近づいて礼拝し、たたえ、次のように語る。
『私はあえて、あなた方を軽んじません。あなた方は皆、必ず仏になることができるからです』
不軽菩薩に、怒りや恨みを生じる者が悪口・罵詈して言う。
『この無知の者は、どこより来て、自ら<私はあなた方を軽んじません>と言って、我等のために<必ず仏になることができます>と授記するのだ。このような虚妄な記別など用いない』
このようにして、不軽菩薩は何年も常に罵詈されるが、怒りや恨みを懐かず、常に言葉を掛けた。
『あなた方は、必ず仏になることができます』
人々が杖や木などでたたくと、それを避けて、走って遠く離れ、大声で次のように言う。
『私はあえて、あなた方を軽んじません。あなた方は皆、必ず仏になることができるからです』
常にこの言葉を掛けるので、増上慢の人々は、『常不軽』と名付けた」
「(不軽菩薩は死期が来て)まさに命が絶えようとする時、天空からの声で、威音王仏がかつて説かれた法華経の二十千万億の偈(詩)を聞き、その全てをよく受持した。そして先に(法師功徳品で)説いたような六根清浄を得たのである。
その後、二百万億那由他歳も寿命を増し、広く人のために、この法華経を説いた」
「(不軽菩薩を)軽んじ賤しめて不軽と呼んだ増上慢の人々は、不軽菩薩がすばらしい神通力と雄弁と智慧の力を得た事実を見、その説法を聞いて、皆、信服し随従した」
このように、不軽菩薩の実践が描かれています。

●シーン4
不軽菩薩は命が絶えた後、生まれるたびに、多くの仏に会い、多くの人のために法華経を説き、功徳を成就して仏に成ることができたことが述べられます。
釈尊が、その話の意味を語ります。
「その時の常不軽菩薩は他の人のことではない。私自身のことである。
どうして別人であろうか。否、私のことなのだ」
「もし過去の世で、法華経を受持・読誦し、他人のために説かなければ、速やかに阿耨多羅三藐三菩提(仏の完全な覚り)を得ることは叶わなかったであろう。過去の仏のもとで、法華経を受持・読誦し、人のために説いたので、速やかに完全な覚りを得たのである」
釈尊の過去世における修行の姿であったことが明かされます。

●シーン5
「(不軽菩薩を迫害した)人々は、不軽菩薩への怒りや憎しみをもって、不軽菩薩を軽んじ、賤しんだゆえに、二百億劫の間、仏に会うことも、法を聞くことなどもできず、千劫も阿鼻地獄で大苦悩を受けた。
その罪を終えて、また不軽菩薩に出会い、教化された」
続いて、話の意味を語ります。
「常に不軽菩薩を軽んじた人々は、他の人のことではない。今、この会座の中の五百人の菩薩などで、最高の覚りにおいて退転しないものが、過去に不軽を軽んじた人である。
知るべきである。この法華経は多くの菩薩を利益して、よく完全な覚りに至らせる。
故に多くの菩薩は、仏の滅後に、常にこの経を受持・読・誦・解説・書写するべきである」
このように常不軽菩薩品では、不軽の実践のドラマを通して、滅後の修行について述べられています。

【『法華経の智慧』から】 妙法に目覚めさせる
真実の仏法は、苦しんでいる人のためにあるのです。一番苦しんでいる人を一番幸福にするための仏法なのです。そうではないだろうか。
この崇高な心の分からない人間からは、われわれは「常に軽蔑されて」きました。それでも、相手がだれであれ、われわれは悩める人がいれば、飛んでいって面倒を見てきた。
抱きかかえながら、「あなたの中の仏界を開けば、必ず幸福になれるのだ」と教え、励まして、妙法に目覚めさせていったのです。
「一人の人」を身を粉にして育て、世話してきた。まさに「常に人を軽んじなかった菩薩」です。

不軽菩薩は、上手な話もしなかった。偉そうな様子を見せることもなかった。ただ、愚直なまでに「下種」をして歩き回った。その行動にこそ、三世にわたって、「法華経」が脈動しているのです。
要するに学会員です。最前線の学会の同志こそが、不軽菩薩なのです。(普及版<下>「常不軽菩薩品」)

【コラム】 而強毒之
「御義口伝」に、不軽菩薩の礼拝行について、「而強毒之するは慈悲より起れり」(御書769ページ)と記されています。「而強毒之」は「而も強いて之を毒す」と読み、法を聞くことを好まない人にも、強いて法を説いて仏縁を結んでいくことです。
不軽菩薩が、誰にでも声を掛けて仏縁を結んだように、先入観などを排して仏縁を結んでいくことが大切です。不軽菩薩を迫害した人々が最終的に救われたように、ひとたび妙法に縁させれば、必ず相手を救っていくことができるのです。
私たちの対話は、どこまでも慈悲の発露です。仏の振る舞いです。大切なことは、相手の反応に一喜一憂しないことです。いわんや、怒ったり、恨んだりしてはいけません。どこまでも相手の仏性を信じ、朗らかに、自信を持って語ることです。
勇気を出して"あえて語る"ことが、本当の意味での相手への優しさであり、その行動にこそ慈悲が脈打つのです。