2021年7月17日土曜日

2021.07.17 わが友に贈る

いかなる苦難も
ロマンの舞台に!
創価の負けじ魂こそ
希望をつくる源泉なり!
ゆえに君よ朗らかに!

顕仏未来記 P507
『彼の二十四字と此の五字と其の語殊なりと雖も其の意是れ同じ彼の像法の末と是の末法の初と全く同じ彼の不軽菩薩は初随喜の人日蓮は名字の凡夫なり』

【通解】
不軽菩薩の二十四文字と日蓮の五文字とは、その語は異なるけれども、本意は同じであり、その時の像法の末と今の末法の初めとは、弘法の方軌がまったく同じである。また不軽菩薩は、初随喜の人であり、日蓮は名字即の凡夫であり、同じく本因妙の行者なのである。

名字の言 千葉ロッテ・佐々木投手のウイニングボール 2021年7月17日
プロ野球チーム「千葉ロッテマリーンズ」の佐々木朗希投手は、東日本大震災で父を亡くした。その後、高校野球で史上最速の163キロを出すが、甲子園出場はかなわなかった▼本年5月、初めて甲子園のマウンドに立ち、プロ初勝利を挙げた。試合後のインタビューで「ウイニングボールはどうするか?」と聞かれ、「両親にプレゼントします」と答えたことが感動を呼んだ。高校時代は届かなかった夢の舞台で、大きな親孝行をした姿がりりしかった▼100歳にして元気いっぱいの女性部員がいる。彼女は幼少期に、左目の視力を失った。戦争で存分に勉強できず、その後も苦労続きだった。そんな彼女が1963年(昭和38年)に入会。50年前には池田先生と出会い、信心一筋に生きてきた▼今や後継の子や孫は広布のリーダーに成長。彼女も孫に新聞を音読してもらっては研さんに励む日々。勝利の人生を悠々と送る▼誠実に生き、努力を重ねても思い通りにいかず、その時は"なぜだ"と落胆する出来事が人生にはある。だが、悔しさを胸に抱えながらも、前を向いて立ち上がる時、苦難に深い意味を見いだすことができる。それが価値ある人生を築き、より広々とした晴れやかな境涯を開いていく。

寸鉄 2021年7月17日
「大阪大会」の日。正義なるが故に断じて勝つ!常勝不敗が関西同志の魂
未来部躍進月間始まる。人材育成は次代の広布開く大事業。鳳雛にエール
「功徳・無量無辺なり」御書。題目に勝る力なし。日々朗々たる祈りで前へ
自分が詐欺にあう可能性低い―7割が回答。悪に付け込まれるな。警戒を
防災地図「確認したことない」が3割と。備えが肝要。気付いた時に実行

〈社説〉2021・7・17 きょうから未来部躍進月間
◇鳳雛たちに宝の思い出を
コロナ禍の中で迎える2度目の夏。
昨年は小・中学生、高校生の間で「いつもと違う夏休み」という言葉が広く使われたが、感染防止を理由に大なり小なり制約を受ける状況は、今年も残念ながら変わっていない。
寂しい思いを抱いている子も少なくないのが実情だ。
子どもたちのために何ができるか。これは日本社会がコロナ禍に直面してから、一貫して突き付けられている問いであろう。
一年の中で時間に比較的ゆとりが生まれる夏休みは、大人にとっては子どもの話にじっくり耳を傾けられる"語らいの好機"であり、子どもたちにとってもいろいろなことに挑戦できる"成長の季節"である。
学会は毎年夏を「未来部躍進月間」と掲げて進んできた。地域の創価家族が「さあ、今年も宝の子どもたちのために!」と、心を一つにして知恵を出し合い、汗をかくのが伝統だ。
その原動力は、未来部の一人一人が「法華経の命を継ぐ人」(御書1169ページ)であるとの確信にほかならない。
コロナ禍の中にあっても、創価ファミリー大会の開催や未来部の各種コンクールへの取り組み、さらに進学推進などを通して未来部員に寄り添い、励ましを送り続ける友の姿は、まさに仏に等しい振る舞いである。
未来部世代を育む上で大切なことは何か。池田先生は「良い刺激を与え続け、良い思い出をつくってあげること」と語っている。
壮年・女性部や男女青年部のリーダーへの取材の中で「未来部時代に担当者から受けた励ましで印象に残っていることは?」と聞くと、多くの人が「具体的にどんな言葉を言われたか」については、覚えていないという。
それよりも「自分の悩みを親身になって聞いてくれた姿」であったり「一緒に何かに挑戦したこと」であったりと、"同じ時間"を過ごした思い出を挙げる友がほとんどだ。
夕闇迫る河川敷で担当者とキャッチボールをしながら語り合ったことが忘れられない、と語っていた男子部員もいる。
「青年は教えられるより、刺激されることを欲する」(ゲーテ)との言葉通りだ。
きょうから未来部躍進月間――「躍」の字の右側にある「翟」の字は、鳥が羽を動かして飛び立とうとする姿に由来するという。
使命深き鳳雛たちが未来へ世界へ大きく羽ばたいていけるよう、祈りと励ましを尽くす夏としたい。

☆池田華陽会御書30編 研さんのために 種種御振舞御書㊦
今月は「種種御振舞御書」の後半を学びます。池田先生は、本抄を拝し、つづられました。
「真の地涌の闘士は、悪戦苦闘を越えてこそ育つ。大闘争の中でこそ、師子王の心が継承されるのだ。男子部・女子部の結成70周年の7月を迎える。試練の逆境をはね返して、わが後継の若人たちが偉大なる人間革命の逆転劇を創りゆく英姿を、私は祈り見つめている」
師の深き慈愛を胸に、歓喜の「7・19」から新たな勝利へ、報恩の「華陽の誓い」に燃え、皆で出発しましょう!(拝読範囲は御書916ページ4行目「同十月十日に」~925ページ本抄末尾です)

◇本抄について
本抄は、建治2年(1276年)に日蓮大聖人が身延で認められ、光日尼に与えられたとされていましたが、詳細は不明です。
本抄には、文永5年(1268年)から文永11年(1274年)までの、大聖人の御闘争が記されています。蒙古から日本へ国書が届いたことから書き起こされ、竜の口の法難、佐渡流罪、さらに、鎌倉に戻られてからの国主諫暁、身延入山に至るまでが、目に浮かぶような鮮烈な叙述でつづられています。
御執筆の年とされる建治2年ごろ、蒙古襲来の予言的中もあり、大聖人一門の勢いが増したことにより、門下の身に次々と障魔が競い起こりました。本抄は、法華経の行者の振る舞い、境涯とはいかなるものかを示し、何としても弟子を勝利させていこうとの、熱きお心が込められた御書であると拝されます。

◇御文
『釈迦如来の御ためには提婆達多こそ第一の善知識なれ、今の世間を見るに人をよくなすものはかたうどよりも強敵が人をば・よくなしけるなり(中略)日蓮が仏にならん第一のかたうどは景信・法師には良観・道隆・道阿弥陀仏と平左衛門尉・守殿ましまさずんば争か法華経の行者とはなるべきと悦ぶ』(917ページ5行目~9行目)

◇通解
釈迦如来にとっては提婆達多こそ第一の善知識ではなかったか。今の世間を見ると、人を良くするものは、味方よりも強敵が人をよくしているのである。(中略)
日蓮が仏になるための第一の味方は、東条景信であり、法師では良観、道隆、道阿弥陀仏であり、また平左衛門尉、守殿(北条時宗)がおいでにならなくては、どうして法華経の行者になれただろうかと悦んでいる。

◇解説
日蓮大聖人は本抄で、文永8年(1271年)10月、佐渡流罪となってからの様子を述懐されています。11月に入られた塚原の三昧堂は、「天井は板間が合わず、四方の壁は破れて雪が降り積もって消えることがない」「夜は雪、雹、雷光が絶えず、昼は日の光も差し込まず」(御書916ページ、通解)と記されています。
荒廃した堂で、大聖人は「敷皮を敷き、蓑をまとって」(同ページ、通解)、極寒の冬を過ごされます。さらに、念仏者たちからは、絶えず命を狙われていました。
それでも大聖人は、妙法を弘め、経文通りの大難に遭う御自身こそ「法華経の行者」であり、成仏は疑いないとの御確信をつづられています。大聖人の胸中には、佐渡流罪という、最も過酷な環境でも、法華経を身読した誇りと喜びが輝いていたと拝されます。
続いて、仏法の修行と理解が深まれば、三障四魔が必ず競い起こるとの文を示されます。さらに、妙法の正しさゆえに、法華経の行者には「第六天の魔王」(天子魔)の迫害があることを述べられました。
それを踏まえて、掲げた御文の冒頭では、釈尊に敵対し、殺害や教団の分裂を企てた提婆達多が、釈尊にとっての「第一の善知識」であると仰せです。善知識とは、仏道修行を助ける存在です。提婆達多と戦い、悪に打ち勝ったことで、釈尊の偉大さと正義は証明されました。ゆえに大聖人は、大悪人である提婆達多を善知識だと言われるのです。
続いて、世間においても、自身を成長させ、強くするものは"味方よりも強敵である"と教えられます。
私たちも、人生のさまざまな苦難に、信心根本に挑むことで、生命が磨き鍛えられ、境涯を大きく開いていくことができます。
大聖人は、御自身の命を狙う極楽寺良観や平左衛門尉ら迫害者こそが、仏になるための「第一の味方」であり、"彼らによって法華経の行者になることができたと悦んでいる"と述べられました。
「悦ぶ」との仰せは、民衆の幸福のため、いかなる苦難にも退かず、広宣流布に戦い抜かれる大聖人が、世間の地位がどうあれ、境涯において最高の勝利者であるとの「大勝利宣言」と拝されます。
私たちは、どんな時も広布と師弟の「誓願」を胸に、"一筋に"祈り抜き、努力し抜いていく信心によって、すべてを自らの善知識に変えていくことができます。
朗々と題目を唱え、人間革命の「勝利の夏」を前進していきましょう。

◇池田先生の指針から
戦いの中にこそ、喜びがあるのだ。悩みがあるから、成長できるのだ。強敵がいるから、強くなれるのだ。(中略)
悩みがあるから題目があげられる。悩みをバネとして、一番、幸福になる行動をしていく。その生命力を湧き出していくことができる――それが信心である。(『華陽の誓い』)
◇ ◆ ◇
祈りは、自分の強き深き一念の力用で、周囲を調和させ、価値創造の働きへ変えゆく究極の力です。
また、相手のことを祈ることは、仏の振る舞いです。これほど尊く高い生命の位はありません。
戸田先生も、よく言われました。「法華経には『魔及び魔民有りと雖も皆仏法を護る』と説かれる。どんな相手でも、自分の信心を強くしていけば、広宣流布という幸福と正義のために働く存在に変わっていきます。これは不思議なのです。ゆえに、祈れば勝ちだよ」と。
祈りには、どんな人間関係も、幸福の「仏縁」へ、勝利の「善知識」へと変える力があるのです。(2012・2・16付、「若き君へ 新時代の主役に語る」)

研さんのために
○…「大白蓮華」2012年5・6月号「勝利の経典『御書』に学ぶ」(聖教新聞社)

☆御書カフェ 華陽姉妹の語らい 南無妙法蓮華経と唱え奉るは自身の宮殿に入るなり 2021年7月11日
◇御文
『南無妙法蓮華経と唱え奉るは自身の宮殿に入るなり』(御義口伝、御書787ページ)

◇通解
南無妙法蓮華経と唱えるということが、自身の宮殿に入っていくことなのである。

◇教えて
青春時代に、この信心で幸福の土台を築いていきたいです!

◇池田先生の指導
「自身の宮殿」とは、一人一人の生命にまぎれもなく具わっている仏性のことです。
この宮殿は、富や名声や権力などで外面を飾った作り物の宮殿ではありません。全宇宙の財宝を集めてもなお及ばない、最高に尊貴で、絶対に崩れることのない金剛不壊の幸福の大宮殿です。(中略)
私たちが目指すべき幸福は、何ものにも壊されない「絶対的幸福」です。それは「自身の宮殿に入る」ことであり、自身の仏界を開いていくことです。(『人間革命の宗教』)
◇ ◆ ◇
幸福とは、困難がないことではない。何があっても負けない勇気! 嵐にも揺るがない希望! それを手放さぬ人が幸福になれる。(中略)
妙法の乙女は、絶対の常楽我浄の軌道に入っている。ゆえに、よき友と仲良く朗らかに生命の宮殿を輝かせ、伸び伸びと青春勝利の舞を舞っていただきたい。(2016・11・12付、「池田先生と共に 新時代を創る」)