2021年3月28日日曜日

2021.03.26 わが友に贈る

親子の宝の思い出が
和楽の家庭を築く。
子どもの話に耳を傾け
信仰の原点や体験を
語り伝える春休みに!

高橋殿御返事 P1467
『同じ米穀なれども謗法の者をやしなうは仏種をたつ命をついで弥弥強盛の敵人となる、又命をたすけて終に法華経を引き入るべき故か、又法華の行者をやしなうは慈悲の中の大慈悲の米穀なるべし』

【通解】
同じ米であっても謗法の者を養うのは、仏の命を断つ命を継承させ、更に強盛な敵人とする。それともまた命を永らえさせて、最終的に法華経に引き入れるためであろうか。また法華経の行者を養うのは、慈悲のなかの大慈悲の米であろう。

名字の言 教え子がくれた人生最高の宝 2021年3月28日
特別支援学校に勤めていた婦人部員が、教え子との大切な思い出を語ってくれた。その少年は脳性まひで生まれ、視覚、聴覚、肢体に重い障がいがあった▼見えない。聞こえない。自由に動けない。"暗闇"の中で、ずっと独りぼっちでいる少年を見て、婦人は強く思った。"少しでも外の世界を感じてほしい""生きる喜びを分かち合いたい"。毎日、そっと手に触れ、優しく額をなでながら「せんせいだよ」「わかる?」と話し掛けた▼1カ月、2カ月、3カ月……。懸命に祈り、寄り添い、声を掛け続けた。すると、無表情だった少年の顔に変化が。少しほほ笑んだ。口をとがらせた。涙をこぼした。少年が、精いっぱいの力で示す"小さなしぐさ"は、婦人にとって"大きな喜び"に。心が通い始めた。少年は手足も少しずつ動かすようになった。婦人は言う。「あの子がくれた感動は人生最高の宝です」▼御聖訓に「喜とは自他共に喜ぶ事なり」(御書761ページ)と。他者のために祈り、尽くし、心を結んでいく。そこには、かけがえのない喜びがある。自分の命に"宝"を積んでいけるからだ▼人と人が身体的な距離を置かざるを得ない今こそ、心と心の距離を縮める語らいに力を注ぎたい。自他共の幸福を築くために。

寸鉄 2021年3月28日
本当の偉さとは決めた信念を生涯貫くこと—恩師立正安国の大道を一筋に
沖縄女性の日。平和楽土建設は輝く太陽ありて。さあ団結固く励まし拡大
「大将軍よはければ・したがうものも・かひなし」御書。幹部率先の挑戦を
防災備品の点検は定期的に。災害は待ってくれぬ。使用期限等、意識持って
利他こそコロナ時代に選択すべき生き方—識者。友の為に尽くす行動を今

☆御書の旭光を 第16回 尊き看護師の友に感謝
〈御文〉
『此の御志は・いかんがせんと・うれしくをもひ候ところに・両眼より・ひとつのなんだを・うかべて候』(上野殿母御前御返事、1583ページ)

〈通解〉
あなたのお志に、どうお応えしようかと、うれしく思っているうちに、両眼から一滴の涙が浮かんできました。

〈池田先生が贈る指針〉
日蓮大聖人は、健康を案じて薬草等を御供養された女性に「涙を浮かべて」と御礼を述べられている。感謝は「人の振る舞い」の根幹だ。
「白樺」をはじめ看護師の方々は、日夜、命を守るために奮闘されている。
御本仏は、その人知れぬ献身をどれほど御賞讃か。私たちも心からの感謝を込めて健康と安穏と福徳を祈りたい。

☆御書に学ぶ「彼岸」の意義
◇目覚めた一人が一族を照らす
今月20日は「春分の日」。学会では例年、この日を中心に、全国の会館等で「春季彼岸勤行法要」を執り行ってきました。本年は昨年に続き、新型コロナウイルス感染症予防のため、各家庭で追善の勤行を行うことになります。広布の途上で亡くなられた同志や、家族・親族・友人・先祖の三世永遠にわたる福徳と安穏を祈念するに当たって、ここでは御書を拝しながら、「彼岸」と「追善回向」の意義について学びます。

【御文】
『生死の大海を渡らんことは妙法蓮華経の船にあらずんば・かなふべからず』(椎地四郎殿御書、1448ページ)

【通解】
生死の大海を渡るのは、妙法蓮華経の船でなくては、叶わないのである。

◇"妙法の船"で仏の境涯に
仏教では、貪瞋癡の三毒の苦しみに満ちた現実世界を「此岸(こちらの岸)」に、仏道修行によって得られる覚りの境涯を「彼岸(向こうの岸)」に例えています。
また、「彼岸」には「到彼岸」、つまり成仏の境涯に至る修行や実践の意義も含まれています。
この仏法の本義から考えれば、彼岸に到るために大切なことは、自分自身が成仏の境涯に向かって信心に励んでいくことです。
本抄で日蓮大聖人は、妙法によってしか彼岸に至ることはできないと教えられています。ここで「大海」に例えられているのは、生死の苦しみが渦巻く現実世界です。
人生には、不条理としか思えないような宿命の嵐が吹き荒れることもあります。しかし、何の心配もいりません。大聖人は荒海を乗り越える「妙法蓮華経の船」に、「以信得入の一切衆生を取りのせて」(御書1448ページ)「是にのるべき者は日蓮が弟子・檀那等なり」(同1449ページ)と、広布にまい進する私たちは妙法の船に乗ることができると仰せです。
故に、「いよいよ・はげまして法華経の功徳を得給うべし」(同1448ページ)「大難来りなば強盛の信心弥弥悦びをなすべし」(同ページ)と、悠々たる境涯で苦難に立ち向かっていくことを教えられているのです。
大聖人に連なり妙法流布に生き抜く私たちは、この一生のうちに必ず仏の境涯を開くことができるのです。

【御文】
『目連尊者が法華経を信じまいらせし大善は我が身仏になるのみならず父母仏になり給う、上七代・下七代・上無量生下無量生の父母等存外に仏となり給う』(盂蘭盆御書、1430ページ)

【通解】
目連尊者が法華経を信じた大善によって、目連自身が仏に成っただけでなく、その父母も仏に成った。さらに、上七代、下七代、また上と下の数限りない生の間、自分に縁ある父母たち全てが、思いもかけず、仏と成った。

◇信心の功徳を回らし向ける
「追善回向」とは、自分自身が仏道修行で積んだ功徳を、先祖や故人に回らし向けることです。
私たち学会員は、春や秋の彼岸の時期だけでなく、日々の勤行で、先祖だけでなく、亡くなられた共戦の同志、そして縁した故人にまで題目を送り、追善を行っています。「常彼岸」ともいうべき尊き実践をしているのです。
本抄で日蓮大聖人は、妙法を信受した功徳が、多くの人々をも成仏させていくことを教えられています。
目連尊者とは、釈尊の十大弟子の一人です。「神通第一」とたたえられた目連は、自身の神通力では、死後に餓鬼道に堕ちてしまった母を救うことができませんでした。しかし、目連は、万人成仏の法華経を信受して、自らが成仏できるようになったので、母をも救うことができたと示されています。
つまり、妙法による追善こそが、真の追善となります。また、自分自身が妙法を行じ、功徳を積むことによって、それを故人に回らし向けることで、一家眷属を成仏へと導いていけるのです。
たとえ故人が信心していなかったとしても、自分自身が広宣流布に励む中で積んだ功徳は、先祖代々、子孫末代まで包みます。
また、広宣流布の途上で亡くなられた家族や同志の遺志を継ぎ、後継の人材として成長し、勝利の人生を歩んでいくことが、真の追善回向となるのです。

◇最高の追善 故人の成仏に僧侶は無関係
日本では、伝統的に"お彼岸"といわれるように、春と秋に「彼岸」の法要が執り行われてきました。
しかし、追善回向の本義は、どこまでも本人自身の信心によってなされるものです。
ところが日顕宗は、故人を偲ぶ気持ちを金もうけに利用するため、"坊主を呼んで追善しなければ、先祖は成仏しない""塔婆を立てないと追善回向できない"など、御書のどこにもない邪義を主張しています。
そもそも、「僧は葬送儀礼に関わらない」というのが釈尊の遺言であり、仏教の伝統でした。故人の成仏と葬儀への僧侶の介在は一切関係がないのです。
むしろ「真心ですることであっても、供養される人が悪ければ功徳とはならず、かえって悪道に堕ちてしまう」(御書1486ページ、通解)と仰せです。
せっかくの真心から発した供養であっても、悪侶への供養となってしまっては、悪業を積む因となってしまいます。
大聖人は、末法の民衆を救うため、三類の強敵を打ち破り、妙法を弘められました。その御遺命のままに、創価の三代の会長は、あらゆる大難を乗り越え、世界広布を現実のものとしてきました。
万人救済の広宣流布にまい進する私たちの追善こそ、大聖人の精神にのっとった最高の追善であることは、間違いありません。

◇池田先生の指導から
題目の力は、計り知れないほど大きい。私たちが唱える題目の"光明"は、全宇宙のすみずみにまで届き、無間地獄の境涯で苦しむ衆生をも照らし、即身成仏させていくのである。
「さじき女房御返事」には、「この功徳は、あなたの父母や祖父母、さらに無量無辺の衆生にも及んでいくでしょう」(御書1231ページ、通解)と仰せである。広布に生きる信心の偉大な功徳は、亡くなった人や、子孫末代にまでも伝わっていく。
真の追善は、妙法によるしかない。妙法の功力は、今世だけでなく、三世にわたって人々を救いきっていくからである。
日蓮大聖人の門下に、浄蓮房という人がいる。その父親は、念仏の信仰者として亡くなった。この浄蓮房に対して、大聖人は、「父母の遺した体は子の色心である。今、浄蓮上人が法華経を持たれた功徳は慈父の功徳となる」(同1434ページ、通解)と仰せである。
信心をしなかった親であっても、子である自分が妙法を受持すれば、その功徳は親の功徳ともなる。私たちが、今こうやって生きているのは父母のおかげである。この体は、父母から授かったものである。自分自身の成仏は、父母の成仏につながっていくのだ。
過去がどうかではない。「今」で決まる。先祖がどうかではない。「自分」がどうかで決まる。目覚めた「一人」が、太陽となって、一家、一族を妙法の光で照らしていけばよいのである。(『池田大作全集』第100巻)