2021年3月14日日曜日

2021.03.14 わが友に贈る

◇今週のことば
広布誓願の3・16
全世界の若人と共に
「いよいよあをし」と
従藍而青の開拓を。
皆が人材、皆が闘士に!
2021年3月14日

種種御振舞御書 P919
『此の国の亡びん事疑いなかるべけれども且く禁をなして国をたすけ給へと日蓮がひかうればこそ今までは安穏にありつれどもはうに過ぐれば罰あたりぬるなり』

【通解】
この国が滅びることは間違いないけれども、(かわいそうなので)しばらく、それを止めて、「国を救いたまえ」と日蓮がひかえていたからこそ、今までは安穏だったのである。しかし、迫害が限度を超えたので罰があたってしまったのである。

名字の言 桜の開花予測に使われる「600度の法則」 2021年3月14日
桜のソメイヨシノの開花を予測する一つに「600度の法則」がある。2月1日以降の最高気温を毎日積算し、600度を超えると開花するという▼日光が照らすと、ジベレリンなどの植物ホルモンが供給され、芽の成長を促す。寒風に吹きさらしの桜木を眺めると、花弁は堅い「芽りん」に覆われたまま。それでも降り注ぐ太陽の光を浴びて、必ず「今だ!」と花咲く時が来る▼20年前、広島のある婦人部員が友人に仏法の話をした。「夫が反対するから」と入会に踏み切れなかった友人の幸福を、婦人は変わらず祈り続けた。その後、婦人は息子と死別。乳がんの宣告も受けた。数々の試練の嵐が襲っても、婦人は朗らかさを失わなかった▼ある日、友人は唐突に「私も信心したい」と。友人も子どもを亡くした。そのつらさを知るからこそ、苦難に負けない婦人の生き方に深い感銘を受けた。今年1月に入会した友人は、「自分も人の幸福のために尽くしたい」と本紙の熟読などに挑戦。先月、夫も入会した▼御書に「秋冬枯れたる草木の春夏の日に値うて枝葉・華菓・出来する」(944ページ)と。遅咲き、早咲きの違いはあれ、心にまいた幸福の種は、いつか必ず花開く。その時まで祈り、励まし続ける"太陽の人"でありたい。(誌)

寸鉄 2021年3月14日
若いうちは苦しんで視野の広い実力を養え—恩師後継よ鍛えの青春を日々
京都婦人部の日。率先の対話で希望を拡大!皆様こそ民衆の楽土創る太陽
壮年幹の配信、今日まで。広布の柱と立つ!この心を一人でも多くの同志と
「謀を帷帳の中に回らし」御書。皆で連携密に。最高の作戦を最高の祈りから
列島に桜開花の報。我らは地域に励ましの花を!弾む命で周囲の友のため

〈社説〉 2021・3・14 3・16「広宣流布記念の日」
◇毎日が「決意」「出発」のドラマ
明後16日は、「広宣流布記念の日」。1958年(昭和33年)、男女青年部の精鋭6千人が第2代会長・戸田先生のもとに集い、"広宣流布の記念式典"が開かれた。
戸田先生は、「仏法で最も大事な広宣流布の後継を、青年に託す機会に」と意義付け、式典の当日、「創価学会は、宗教界の王者である」と師子吼する。
前年の12月、戸田先生は生涯の願業であった、75万世帯の弘教を達成。その拡大の突破口を開き、決定打を放ったのは、若き池田先生の各地での奮戦だった。
先生は、「もし(75万世帯という)師弟の誓願が達成できていなければ、『3・16』の式典——あの後継の大儀式は完成されなかった」とつづっている。
弟子である池田先生が、師・戸田先生との誓いの通りに、広宣流布の実証を満天下に示したからこそ、「3・16」は"後継"の式典として不滅の輝きを放っている。
さらに、式典の直前の2月には、戸田先生は池田先生に"300万世帯の陣列構築を"という新たな構想を語っている。
4年後の62年(同37年)11月、創価学会は300万世帯を突破。池田先生は、師との約束を一つずつ実現していった。
毎年、巡り来る「3・16」。全国、全世界の創価の友は、それぞれの広布と人生の誓願を確かめ合い、新しい一歩を踏み出してきた。
10年前——東日本大震災が起きた直後の3月16日は、聖教新聞に、池田先生から被災地へのメッセージが掲載された。
「『心の財』だけは絶対に壊されません」との先生の言葉は、新聞が届かない状況の友のもとへも、メールや電話、口伝えで共有されていった。
この「3・16」は、被災した多くの同志にとって、「生き抜く」と誓う節目となり、励ましのネットワークをもう一度結び直す大きな力となった。
今月の本部幹部会では、宮城県・女川町の壮年が、多くの苦しみ、悲しみを経て、震災前に倍する広布の陣列を築いてきた体験を語った。
東北の不屈の歩みは、まさに"後継"の実証の姿である。私たちが学ぶべきものは重く、大きい。
63年前の"広宣流布の記念式典"は、法華経に説かれる「虚空会の儀式」に通じる。師から弟子へ——末法の正法流布の使命を、地涌の菩薩に託す付嘱の儀式だ。
このことを通し先生は、「私たちの日々の勤行・唱題には、『虚空会の儀式』に連なりゆく意義がある」「毎日が『3・16』である。永遠に決意の日であり、断固と勝利へ出発する日なのだ」と記す。
こう決めた時、平凡な毎日こそ、弟子の証しを示す誓願のドラマに変わる。その主人公は私たち一人一人だ。励まし合い、日々、新しい歴史を刻んでいきたい。

☆ヒーローズ 逆境を勝ち越えた英雄たち 第5回 ナイチンゲール
〈ナイチンゲール〉
私の辞書に諦めという言葉はない。
人生は闘争。自分の前の一歩一歩を勝ち取っていかなければなりません。

「近代看護の母」「クリミアの天使」「看護師の祖」——フローレンス・ナイチンゲールを形容する言葉は数多い。
「自分の生涯の使命は、人類を救うこと」「人類のために苦しむのは、ひとつの特権です」と語る彼女は、波瀾万丈の人生を劇のごとく駆け抜けた。
1820年5月12日、イギリスの大富豪の家に次女として生まれた。両親は結婚直後、約3年にわたる新婚旅行へ。イタリア・フィレンツェ(英名でフローレンス)で生を受けたことから、その名が付けられた。
家族や親族らの愛情を一身に受けて育った少女・青春時代。容姿端麗で幅広い教養と学識を身に付けたナイチンゲールは、社交界でも注目の的だった。
だが、"何かが違う……"。その心が富や名声によって満たされることはなかった。むしろ虚栄と快楽に満ちた世界に疲れ果て、自己嫌悪にすら陥った。
正しい生き方とは何か?
この世に生まれた使命とは?
「真の人生とは、私たちの家庭のような、広い緑の牧場、静かな流れのほとりに憩う生活ではない」。苦悩は長く続いた。
当時(1840年代)のイギリスは、凶作と大不況で「飢餓の40年代」といわれていた。農民たちの悲惨な現実を目の当たりにした彼女は、近隣の貧しい小屋を見舞い、病人や赤ん坊の世話を手伝った。一方、家庭では重病を患った祖母や乳母の看病に率先して取り組んだ。
そうした経験を通して選んだ道こそ「看護」であった。
今とは違い、看護職の社会的地位が確立されていない時代である。家族は大反対したが、彼女の決意は揺るがなかった。
「諦めなどという言葉は私の辞書にはない」「それ(人生=編集部注)は苦しい戦い、闘争、悪の原則との格闘です。私たちは自分の前の一歩一歩を勝ち取って行かなければなりません」
恵まれた環境を捨て、あえていばらの道へ。独学で専門知識を習得した後、看護師としての第一歩を踏みだす。その本格的な挑戦は30代から始まった。
「自分を生かすためには、たとえわずかなりとも、自ら何かを掴まなければならぬ。何かを、自分の手で掴みとらなければならぬ。それは与えられるものではない」——このナイチンゲールの「信念の源」は、どこにあったか。それは、かけがえのない生命を守る「覚悟」と「使命感」にあったに違いない。

〈ナイチンゲール〉
年ごと、月ごと、週ごとに「進歩」を重ねていないかぎり、あなたは「退歩」しているのです。

1853年、クリミア戦争が勃発。ロンドンの病院で看護監督を務めていたナイチンゲールは翌54年、38人の看護団を組織して、戦線へと向かった。
赴任した軍事病院の環境は劣悪だった。院内は収容人数をはるかに超える患者であふれ、不衛生から感染症などが広がっていた。さらに"看護蔑視"の軍医や将校からの冷遇、嫉妬による同僚からの嫌がらせ……試練の障壁が次々と立ちはだかった。
だが、彼女は屈しなかった。
「価値ある事業は、ささやかな、人知れぬ出発、地道な労苦、向上を目ざす無言の、地道な苦闘といった風土のうちで、真に発展し、開花する」
目の届かないところにまで気を配り、進んで仕事を見つけては黙々と働き続けた。その姿に医師たちも心を動かされ、彼女を頼るようになっていく。
不眠不休の身を案じ、周囲が「明日にすればいいじゃありませんか」と、床に就くよう進言したことがあった。すると、ナイチンゲールは一言、「明日は明日の仕事がありますわ」と。
敵味方の区別なく、負傷兵たちに献身する日々は2年間にも及んだ。56年、パリで講和条約が結ばれ、クリミア戦争は終結。「今なすべきこと」に全精魂を注いできた彼女は、最後の患者が病院を去るまで任務を全うし、イギリスへ戻った。
帰国後は、"本当の戦いはこれからだ"と、激務の疲れも癒えぬうちに新たな行動を開始。人類の未来を開く"看護革命"に着手するのである。
「年ごと、月ごと、週ごとに『進歩』を重ねていないかぎり、あなたは『退歩』しているのです」
過去は過去。さあ、今ここから、前へ、前へ! これがナイチンゲールの生き方であった。

〈ナイチンゲールを語る池田先生〉
彼女の行動は「大きな願い」に貫かれていた。
私どもの目的は「広宣流布」である。
その柱さえ不動であれば、何があろうと、ぐらつくことはない。

今月21日は、結成35周年を迎える「白樺会(看護の仕事に携わる婦人部の集い)の日」。
池田大作先生は、折あるごとにナイチンゲールの箴言や逸話を通し、白樺会や白樺グループ(同女子部の集い)、さらに婦人部・女子部の友らに万感のエールを送ってきた。
「いつの時代も、現実は、常にさまざまな問題が渦巻いているものだ。しかし、大切なのは、今いるその場所で、勇敢に戦い、自らの境涯を開いていくことである」「『常に進歩しつづける女性』——それは、『月月・日日につより給へ』(御書1190ページ)の妙法を体現されゆく白樺の皆さま方である。そしてまた、心が生き生きと上昇しゆく、わが婦人部、女子部の皆さま方である」(2004年5月11日、各部合同協議会でのスピーチ)
2002年には本紙で「『女性の世紀』に寄せて——ナイチンゲールを語る」を連載。「近代看護の母」の足跡を通して、今もコロナ禍で奮闘し続ける白樺の友をはじめ、使命に生きる私たちへの指針が示されている。
「ひとたび、わが胸に抱いた使命感を、最後の最後まで、赤々と燃やし続けていくのは大変なことである。
そのためには、どうしたらいいのか? 結論からいえば、人々と『団結』することである。
ナイチンゲールは、"目的や行為を分かち合いながら、『共感のきずな(団結心)』を育むことが大切だ"と教えている」
「戦い抜く人生は美しい。前に進み続ける人生は、すがすがしい。彼女の行動は『大きな願い』に貫かれていた。ゆえに、くだらない嫉妬や愚かな人間模様など、悠々と見おろしていた。私どもでいえば、目的は『広宣流布』である。その大目的の柱さえ不動であれば、人生、何があろうと、ぐらつくことはない」
「ナイチンゲールの生涯。それは、押し寄せる苦難の波を越えながら、『使命を自覚した人間の力は、こんなにも偉大である』と未来に向かって示し続けた一生であった。
私たちも生きたい。『わが十年後を見よ』『わが五十年後を見よ』、そして『広布に生き抜いた、わが一生を見よ!』と高らかに叫びながら。世界に『勇気の光』を贈りながら」
一人のヒロインが紡いだ変革のドラマは、時空を超えて、私たちの魂を揺さぶり続ける。